手篭め侍
■第8話 ■ 怪僧・念甲
「それでわざわざこの山の中の古寺まで、隘路を抜けてやってこられたというわけか」
蝋燭の炎が、ちらちらと揺れ、その年老いた僧の顔に浮かんだ凹凸の影をうねらせる。
正面に座した慎之介は、その僧の顔をまともに見ることができなかった。
剃り上げられた頭の頂(いただき)は、奇妙なほど盛り上がっている。
そのちょうど真上に、地割(じわ)れのような切り傷が見えた……まあ、それくらいは我慢できる。
あまりにも凹凸の多い顔立ちは、左右が余りにも不対象で、片端(かたわ)じみている……まあ、それくらいは我慢できる。
「夜分に申し訳ありません。なにせ、山が予想以上に奥深かったもので……かなり道に迷うてしまいました。ただ、お話にだけ伺ったつもりでしたが、夕餉(ゆうげ)まで……」
「たいしたものが出せなくて誠に申し訳ない。何分、この寂れた寺では、あれが精一杯でな」
確かに、具のない汁に麦飯、ひと切れの香の物と、寂しい食事だった。
しかし、紫乃と別れてから三日、ほとんど飲まず食わずだった慎之介には、滲みるほど旨かった。
「どうかね、今宵はもう遅い。この山奥じゃ……この荒れ寺でよければ、泊まっていかれてはどうか」
「忝(かたじけ)ない。しかし、どうしても今夜中に、確かめておきたいのです。ここに、八代松右衛門が葬られているという事実を」
しばしの間、間があった。
蝋燭の火が揺れて、本堂の壁に本尊の巨大な影を映し出す。
魔物のような影の蠢(うごめ)きに、のあやうく慎之介は悲鳴をあげるところだった。
風は強い。古寺のあちこちが、びゅう、と風が吹くたびにがたごとと音を立てる。
「……声を聞いたところでは、そなたはまだお若いな。まだ、声が漢(おとこ)に成りきっておらぬ……」
慎之介は背筋に冷たいものを感じて、ぶるっ、と震えた。
「それが……どうかいたしましたか?」
その僧、念甲(ねんこう)は明らかに盲(めくら)だった。
両の眼(まなこ)に、まるで生きながら烏(からす)につつかれたかのような、見るも無残な傷だけがあり、閉じた瞼(まぶた)は瘡蓋(かさぶた)に阻まれて永遠に開けぬようにさえ見える。
兎に角、ひどい有様だった。
相手が盲(めくら)だとはわかっていても、その無残な傷が目の代わりに慎之介の姿を捉えているようで、ぞっとせざるを得ない。
「確かにここに、八代松右衛門と名乗っていた浪人者を弔(とむら)った墓がある。その侍が申していたように」
「蜂屋……蜂屋百十郎にてございます」
にやりと笑った念甲の顔は、慎之介を震え上がらせた。
目の上の瘡蓋(かさぶた)も、醜く歪む。
「その男が、そなたに“己(おれ)が八代松右衛門を討った”と言った。その男が言ったとおりに、この寺にその男の墓があることを、そなたは検(あらた)める……それで、そなたは敵(かたき)が本当に死んだと、ほんとうに知ることになりましょうか?」
いかにも僧侶らしい、わかるようでわからない話であった。
「それ以外、何か手はあるでしょうか?」
「そなたは、敵(かたき)の顔も知らぬ。生きている姿も知らぬ。姉上の話でしか、その男が生きた証を知らぬ……ここで、そなたが見ることができるのは、敵(かたき)の名が刻まれた墓だけじゃ……それを知って、何になる?」
慎之介は、この薄気味悪い僧侶の前から逃れたかった。一刻も早く。
しかし怯えを気取(けど)らるのは厭(いや)だったので、苛(いら)ついた調子で言った。
「わたしは、姉に見てこいと言われたから来たまでのこと」
ふ、ふ、ふ、と三回に分けて念甲が笑う。
慎之介が、何か言おうとすると、念甲がつ、と顎を上げた。
「香蓮(こうれん)」
す、と慎之介の背後の障子が空いた。
ずっとそこに控えていたのだろうか、小柄な小坊主の姿があった。
さきほど、慎之介に食事を出してくれたのも、その小坊主だ。
盲(めくら)和尚の一切の身の回りの世話を、その小坊主がしているらしい。
「はい、和尚様」
ほんの一瞬、その姿を目にしただけだったが、これまた別の意味で……ぞっとするほど美しい顔をした小僧だった。
歳の頃は慎之介と同じか、もしくは一つ二つ下か。
半眼で、伏せた長い睫(まつげ)が目立つ。
細い鼻筋、少し厚めの艶やかな唇が奇妙に艶(なまめ)かしく、剃髪されたかたちのいい頭の蒼さが痛々しい。
(……この、妖怪和尚。どうせこの小坊主を稚児として夜な夜な……)
と、そこまで考えて、慎之介は慌ててその淫(みだ)らな考えを振り払った。
どうもあの日以来、百十郎の毒気に当てられているようだ。
「慎之介どのを……寺の裏手まで。八代松右衛門の墓まで、ご案内してさしあげなさい」
「はい、和尚様」
「では慎之介どの、案内はあの香蓮が……聢(しか)と見届けるがよろしい。そなたの敵(かたき)の墓を。わたしはそろそろ休むとしよう……よければ風呂はどうかな。長旅でお疲れじゃろう……香蓮、慎之介どのに風呂の支度を……その後は……」
「はい、和尚様」
その後は何だというのだ。と、喉まで迫り上げて来た言葉を、慎之介は慌てて呑み込んだ。
そして慎之介は香蓮の持つ、まさに妖怪のような破れ提灯の灯りのもと、寺の裏手にある墓地へ向かった。
鬱蒼と森で覆い尽くされたその界隈には、夜も昼もないのかも知れない。
闇がどっしりと重く、湿りを帯びて全身に纏(まと)わりついてくる。
先を行く香連の小さな背中、できるだけ離れないように小走りで歩く。
「香蓮どの、この饅鰻寺(まんもんじ)に来られて、何年になられる?」
「……二年……ちょうど、二年になります」
香蓮は、振り返らずに言った。細い首筋に傾(なだ)らかな肩幅。
「失礼ながら……なぜこのような山奥の寺に?」
と、そこで香連が足を止める。そして、肩ごしに慎之介をちらりと見た。
「あなたは、なぜ十年も……顔も知らぬ敵(かたき)を追ってこられたのです? それは、あなたの本意だったのですか? 姉上のご意向ではなく」
提灯の灯りにぼんやりと照らされた香連の横顔は、ど幽霊じみて美しかった。
慎之介は居心地の悪さを感じていた……この寺では、これまで己が見知ってきたものが、すべて闇に呑み込まれてしまうような気がする。
「……姉上は、敵(かたき)を追い、旅を続けながら、わたしを育ててくれた。わたしにしてみてば、母替わりのようなもの。そんな姉上とわたしは、一心同体……思いは一つです」
「そうですか……それでは、敵(かたき)が二年前に討たれたと知ったあと、慎之介さまはどうなさいます?」
と、香連が破れ提灯で一つの粗末な墓標を照らした。
粗末な木柱には、「八代松右衛門之墓」とだけ記されている。
あまりにも素っ気ない結末だ。
あの鬼畜浪人……姉を夜通し辱め、不敵に去っていった蜂屋百十郎の言ったとおりだ。
その寺の裏には慎之介が紫乃とともに十年の間、追い続けきた敵(かたき)の墓があった。
「如何ですか。ご納得いただけましたか?」
小さな鈴のような声で、香連が呟く。
「…………」
実際のところ、慎之介には何の感慨もなかった。
失望も虚しさもない。
何もかも、これで終わったのではないのですか? 姉上?
仇の仇は仇などと、蜂屋百十郎を追い続ける貴女は、一体、どんな魔物に取り憑かれているのです?
「姉上のことを、お考えですね」
慎之介は、ぎくりとした。
「それは……」
「迷っておられるのではないですか? ……これから先、どう生きるか」
「わ、わたしは……わたしは姉の敵(かたき)を……」
「その敵(かたき)はとうの昔に死んでおります。いままで慎之介どのは、幽霊を追いかけて旅を続けてきたようなもの……では、慎之介どのは、これから誰を追うのです?」
自分と同じ年端もいかぬ小坊主とは思えぬ、落ち着いた言葉だった。
「……お風呂の用意をいたします。本殿の離れにございますので、ご案内しましょう」
「…………」
歩き出した香蓮の後ろ姿を、慌てて追いかける。
闇にひとり取り残されることの恐ろしさもあったが、どうしても香蓮の後ろ姿に惹かれる。
白い僧衣に浮かび上がる尻の線は、実をつけたばかりの果実のようだ……。
とまた、慎之介は自らの邪な考えを振り払うはめになった。