手篭め侍



■第7話 ■ 仇の仇は仇

 それまでぐったりと腹這(はらば)いに横たわっていた紫乃の躯(からだ)が、突然、敏捷に浮き上がった。
 
 そして百十郎の脇をすり抜けて障子を開け、全裸のまま前転する。
 まさに、山猫(やまねこ)の動きだった。
 隣室の床の間の刀掛から太刀を両手で攫(つか)む。
 寝室では百十郎が胡座をかいたまま、紫乃の素早い一連の動作を感心したように見つめていた。
 枕元に置かれた刀には、触れるどころか目もくれようとしない。
 鞘から白刃が滑り出る。
 素裸(すっぱだか)の紫乃がその鋒(きっさき)を胡座をかいたままの百十郎に向け、じり、じりと間合いを詰めていく。

「おいおい、どうしたってんだい? ……おめえの仇討ちは二年前に俺が済ませた。まあ、お嬢ちゃんがあいつを追っていたってのはおれの預かり知らんことだったけどよ、行きがかり上……」
黙れ!
 汗で背中に、肩に、胸元に張り付いた乱れ髪。
 まだ桃色に染まった肌。
 百十郎によって乱された息も、まだ落ち着いていない。
 微(かす)かな両の乳房も、股間の茂みもすべてを曝け出した一糸纏(まと)わぬ姿にあっても、紫乃のその構えには隙がなく、百十郎を見据える目も怒りと憎しみに満ちていた。
「なんだよ……? これからおめえら姉弟は、仇討ちなど忘れて気楽に、心安く過ごせるんだぜ? それの一体、どこが気に入らねえ……? なあ、小僧……おえめもそう思わねえか?」

 と、百十郎が突然、天井を見上げた。

(……なにっ? ……き、気づかれていた?)

 天井裏に隠れていた慎之介は、自分が覗いていた板の隙間から、百十郎が下卑た笑みを浮かべて自分を見上げるのを見た。

「出て参れ、慎之介。わたしもそこでそなたが覗いておったことは知っておる」
 隣りの部屋から、紫乃が厳しい声で一喝した。

(あ、姉上にも? ……姉上にも気づかれていたのか? ……)

「まったく助平な小僧だなあ……てめえの姉ちゃんが嬲(なぶ)り倒されてるのをそんなところから覗き見しながら、ずっと千摺(せんず)りこいてたんだろ? ……てめえら姉弟、ほんとにどうかしてやがるぜ」
「ゆ、ゆ……許せぬ!」

 慎之介は脇差(わきざし)を抜くと逆手に持ち、左手を頭に載せ、垂直に構えた。
 そして、柄の梁から飛び出し、そのまま天井板を突き破る。
 落下した先には、百十郎のにやけ面が待ち構えている
 ……あとは落ちるに任せれば、あの面のど真ん中に刃の鋒(きっさき)が……慎之介は「いける!」と確信した。

 が、次の瞬間、自分のからだが下に向けて落下しているのではなく、横に向かって飛んでいることに気付いた。 
 遠く離れた英吉利(えげれす)の学者、アイザック・ ニュートンが木から落ちる林檎(りんご)を見て万有引力を発見した、とされるのは、それより百年以上も前のことだったが、慎之介は術(すべ)もなく部屋の 床の間に激しく身を打ち付けていた。

 何が起こったかわからず、あわて身を起こす。蜘蛛の巣塗(まみ)れだった。
 なんと、百十郎は座ったままだった。
 座ったままの相手に、慎之介は軽々と投げ飛ばされたのだ。
 そこに全裸の紫乃が中段に構えたまま、素早く飛び込んでくる。

「……わたしの仇を殺したとなれば、貴様はわたしの仇の仇!
 姉の影法師が見えた……乱れ髪に全裸を晒し、太刀を構えるその姿は夜叉(やしゃ)そのものだった。

(あ、姉上……その理屈は無茶苦茶です……)
 投げ飛ばされたままの惨めな姿で、慎之介はとてもそれを口にする勇気はなかった。

「おれとおめえは、相性がいい。もう仇討ちなんか忘れて、おれと風まかせの無頼(ぶらい)旅と洒落(しゃれ)込もうじゃねえか……」
 そのとき、百十郎の手が、す、と脇差に伸びる。
 その脇差は……なんと、慎之介が取り落とした彼のものだった。

「……黙れ……黙れ……貴様などに……貴様などに……」姉が呟く。「なんのために……わたしは……」
「素直になろうぜ。さあさあ、その物騒なもんを脇に置いて、続きを楽しもうじゃねえか!」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ!」

 紫乃の揺(うご)きは素早かった……慎之介には、姉が刀を上段に振り上げる瞬間さえ見て取れなかったほどだ。
 びゅう、と刃が風を斬る。
 しかし、血飛沫(ちしぶき)は飛ばなかった。
 代わりに、紫乃は灯篭(あんどん)を真っ二つにしていた。

 そこにいたはずの百十郎は……?
 いまは紫乃の背後にいる。そして慎之介の脇差の頭を、姉の腰の腎(じん)のあたりに当てていた。

「思ってたより速えな……気ぃ抜いてたら殺られるとこだったぜ、ここまで速ええとは思わなかったぜ、お嬢ちゃん」
「かは……」
 紫乃ががちゃり、と音を立てて刀を落とす。
 そして、その場に両膝をついてしゃがみ込む。
 その首筋に、百十郎がぴたりと白刃の鋒(きっさき)を押し付けた。
「……殺りたくはねえ……わかってるな?」
 腎を頭で打たれ、刀を取り落としてしゃがみ込んだ紫乃は、そこにきて正気の羞恥(しゅうち)を取り戻したようだ。
 腕を重ねて自らの両肩を抱き、晒していた乳房を隠す。
 しかし、肩ごしに屹(きつ)と百十郎を睨みつけ、言い放つ。

「……好きにすればよかろう。あの奥方にしたように、わたしを弟の前で辱(はず)めるつもりか? ……命乞(いのちごい)いなどはせん。 いくら辱めを受けようと……この命ある限り、貴様を地獄の果てまで追い詰め……まずその魔羅(まら)を払い落としてから、十分に苦しませてから首を頂く……」
「……面白れえ……たまんねえぜ」
 そう言うと、百十郎は手にしていた小刀をぽい、と慎之介の元に投げ出す。
「ひっ……」

 どすん、と音を立てて、刃(やいば)が畳の上に突きたった。

「まだ殺る気があるか? ……屋根の上から降ってきやがるとは、さすがの俺も魂消(たまげ)たぜ……なかなか根性があるじゃねえか、なあ?」
「……くっ……」

 畳の上に突きたった刀の柄は、慎之介に「早う攫(つか)め」と誘うように揺れている。
 今、百十郎は丸腰だ……刀が誘うままに柄を攫(つか)み、死に物狂いで斬りかかるべきか?
 慎之介は、揺れる刀の柄と、百十郎のにやけ面を交互に眺めながら考えた。
 そしてそこにきてはじめて、自分の腰が抜けて、立つこともままならないことに気付いた。

「まあ無理するこたあない……俺も一日に二人もガキを片端(かたわ)にしたとなりゃあ、明日の朝飯がまずくなる。やめ止めやめとけ」
「……おのれ……」
 口ではそう言う慎之介だったが、刀に手を伸ばすつもりは端からはなかった。
 乳房を庇いながら蹲(うずくま)る姉が、横目でいつもの冷たい目線を送りながら、言った。
「……不甲斐(ふがい)ない……どこまでも情けない弟よ……」

「まあお嬢ちゃん、そんなにあいつをいじめるなよ……」
 そう言うと百十郎は、布団の上に脱ぎ散らかしていた褌(ふんどし)や袴(はかま)、黒い小袖(こそで)を拾い集め、悠々と身に付けはじめた。
「に、逃げる気か……」
 紫乃も百十郎に剥がされた浴衣を掻き抱き、裸身を隠しながら言う。
「ああ、こんなおっかねえ姉弟がいる宿じゃあ、おちおち眠れやしねえや……お嬢ちゃん、おめえ、今度は俺を仇として追うつもりなんだろ?」
「あたり前よ!」
 紫乃は素早く浴衣に袖を通すと、慌てて襟を寄せた。
「まったく、どうかしてるぜ。お嬢ちゃん、仇討ちに生きる以外の生き方をもう忘れちまったんだろう? それ以外の生き方を知らねえだけだろう?」
「……何とでも申せ……逃げてもわたしは追うぞ……泥を啜(すす)ってでも!

 だらしなくではあるが、一応、着るものを身につけた百十郎が、はあ、とため息をつきながら枕元の太刀と脇差を取り、脇に差し込む。

「まあ好きにすりゃいいさ……さっきも言ったが、てめえらの仇、八代松右衛門は、俺が殺った。ここから三つばかし峠(とうげ)を越えたところに、饅鰻寺(ま んもんじ)という古寺がある。そこの念甲(ねんこう)って坊主が松右衛門を弔(とむら)ったはずだ……あの腥(なまぐさ)坊主に聞きゃあ、俺が言ったこと が本当かどうかわかる」
「ほざけ下郎!」
 浴衣の前を両手で合わせたまま、紫乃が叫ぶ。
「……俺を追いたければ追いな……おめえが仇を追うことだけを頼りに生きてるように、俺は追われることが楽しくて楽しくて仕方ねえんだ……今日、料理した あの母子を含め、一体、何人がこの俺の命を狙ってるやら、自分でもはっきりわからねえ……でも、俺にとっちゃあこれは遊戯(あそび)よ。お嬢ちゃんも、俺 の道楽に進んで加わってくれたってことさ」
 そのとき、にやりと笑った百十郎の顔の恐ろしかったこと……。
 慎之介は、その日の昼に浸かった澤の水より冷たいものに、全身を覆われたような気がした。
「……じゃあ、またな」
 百十郎はそう言い残すと……悠々と布団を踏みしめ、畳を踏みしめ、隣りの部屋の障子を開けて、出て行ってしまった。

 しばらく、森(しん)と静寂が部屋を包む。
 慎之介は床の間で腰を抜かしたまま、萎れたようにしゃがみ込んだままの姉を見ていた。
 その肩が震えている。鼻を啜り込む音がする。
 慎之介は信じられなかった……あの姉が……泣いているのだ。

「あ、姉上……」
だまれ! 言い訳など聞きとうないわこの臆病者! 軟弱者!

 取り付く島などなかった。
 暫(しばら)く、姉が涙をすすり込む音を聞きながら、慎之介は消え入りたいような気持ちで床の間で脚を投げ出していた。
 と、突然、紫乃が立ち上がり、背筋を伸ばして慎之介の前に立った。
 帯をしていない浴衣の前がはだけ、乳房の間と、臍と……股間の茂みがはっきりと覗いている。

「……わたしはあの男を追う。そして隙を見て、仇の仇を討ってみせる……慎之介!
「は、はいっ……あ、姉上っ!」

 陰毛も顕な姉の足元に、すがり付くように這い蹲る慎之介。

「そなたは……あの男が申しておった饅鰻寺(まんもんじ)という寺へ向かえ、そして和尚の念甲(ねんこう)とやらに遭ってまいれ。『手篭め侍』がほんとうにあの男に討たれたのか、篤(とく)と見届けて、くるのだ!」
 羅刹(らせつ)のごとき姉を前に、慎之介は異論を鋏(はさ)む隙も与えられなかった。
「は、ははっ……で、では姉上……ど、こで……いつ、われわれは落ち合うのです?」
「半月後……梅雨の雨が降り出して三日目、鬼百合(おにゆり)峠で落ち合う。互(たが)いに命あらばな!」



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