手篭め侍



■第21話 ■ 所詮は血塗られた道よ

 百十郎の刃は、紫乃に掠(かす)りもしなかった。
 紫乃は水溜りに膝をつき、百十郎のちょうど脇の位置で躯を丸め、太刀ではなく脇差の柄を左手で掴んだ。
 それを上に向け、一直線に抜くや否や、刃(やいば)の峰に右の掌を添えた。
 そして勢いをつけて立ち上がり、百十郎の腋の下を一気に斬り上げた。

 雨を遮っていたもの……百十郎の右腕が、小袖の袖ごとばしゃり、と水溜りに落ちる……。
 その背後に回った紫乃は、素早く脇差を右手に持ち替え、百十郎の背中を袈裟懸(けさが)けに斬りつけた。

 悲鳴も、苦痛の声もなく、百十郎が前呑めりに水溜りの中に倒れる。

 紫乃は盛大に返り血を浴びていたが、その上から振りしきる雨の勢いのほうが強かった。
 改めて、自らが切り落とした百十郎の腕を見る。
 
 主を失った右手がいまだ確(しっか)と握っているのは、紫乃が想像した通りの太刀だった。
 それは太刀ですらない。
 刃(やいば)の長さは、脇差よりも……小太刀よりも短く、一尺にも満たない。
 匕首(あいくち)よりは、やや長い程度の長さだった。

短くて、速い……矢張(やは)りな……」

 紫乃の睨んだ通りだ。
 いくら素速(すばや)い太刀筋で知られる拝神武流の使い手とはいえ、百十郎の早業は人間業ではない。
 ならば、どこかに仕掛けがある筈。
 つまり百十郎は……普通の太刀の長い鞘に、この匕首に毛が生えたような短い刃を収めていたのだ。
 手折(たお)れた百十郎の背中から、腕を落とされた肩から溢れ出る血潮が、降りしきる雨水に流されていく。
 紫乃の足元はまるで、血の河だった。

「お……」声を失っていた慎之介が、ようやく口を開いた。「お見事!
馬鹿者っ! 利いたふうな口を叩くでないっ!

 紫乃が一喝する。いつものように。
 その蒼褪めた顔は沿道に咲く紫陽花(あじさい)よりも青白く見えた。
 まだ姉は、生と死の切れ目からこちらに戻ることができていないようだ。
 慎之介は、そこで我に返った……気がつけばあの奇妙な仕掛け刀を抜いて、中段に近い姿勢で構えている。
 どうすればいいかわからず……とりあえずその鋒(きっさき)を地面に落とした。
 
 と、そのときだ。

 突然、水溜りの中、俯せに手折(たお)れていた百十郎がごろり、と寝返りをうった。
 残された左手には、いつの間に抜いたのか、脇差が握られていた。
 紫乃が素早く振り返り、起き上がろうとする百十郎の頭を叩き割ろうと、上段に構えたときだった。

 ざん、という音。

 あまりに一瞬の出来事だった。
 紫乃の細い首筋を、二尺ばかりの脇差の刃(やいば)が、貫き通している。

「かは……」

 くるり、と慎之介のほうに躯を廻し、紫乃が膝をつく。
 口から、鮮血がざあ、と音を立てて流れ落ちた。

姉上! あねうえっ!

 しかし、紫乃はまだ事切れていなかった。慎之介を屹(き)つと見据え、あの逞しい眉毛が釣り上がる。
 喉に食い込んだ刃の所為で、もはや声を発することのできない姉が、目で慎之介に伝えていた。

 “殺(や)るのだ”と。“わたしの死を、無駄にするな”と。
 
 今度は紫乃が水溜りに、ばしゃんと音を立てて手折(たお)れた。
 かっと目を見開いたまま……もうその目は、魂を失っていた。
 
 その背後で、右腕を失った百十郎が、まるで火山の黒雲のようにのっそりと立ち上がる。
 手にしているのは、刃のない柄……そこからは、長い撥条(ばね)が飛び出し、揺れていた。

もったいねえなあ……いや、こんなに勿体ねえ話はねえ……」
 ちらりと、紫乃の骸(むくろ)に目をやる百十郎。
 そして、慎之介のほうを見て、あの大きな口で、にやりと笑ってみせる。
「そう思うだろ? 小僧……愚かなこったぜ……」
 腕を失った袖口から、滝のように血が湧き出し、流れていた。
 紫乃の切りつけられた背中からも。
 慎之介は、仕掛け刀を真直ぐに構え、百十郎の胸に狙いを定めた。

 ざん。

 狙い通り、勢いよく弾けた撥条(ばね)が刃を飛ばし……百十郎の右胸を差し貫く。
「おおおう……」
 嘆息(ためいき)のような声を上げる百十郎。

死ねええええええ!!!
 撥条(ばね)が飛び出した仕掛け太刀を脇に捨てると、慎之介は脇差を抜き、百十郎に向かって飛び込んだ。
 その左肩をめがけて、一気に振り下ろす。
 肉と、骨を斬った確かな手応え
 しかし、それ以上、刃は食い込まない。
 鋸(のこ)を引くように、慎之介は食い込んだ刃の引き、押し、引き、押した。
 血飛沫が吹き上がり、慎之介の顔に降りかかる。
 激しい雨が、それを洗い流していく。
 躯(からだ)を裂かれながらも、蜂屋百十郎はあの若気(にや)けた笑みを崩さない。
笑うな! 死ね! 死ぬのだ!
「……死ねねえよ……俺を恨んでるのは、てめえらだけじゃねえんだ……」

 そう言うや否や、百十郎は信じがたい力で慎之介を蹴り倒した。
 河のように水と血が流れる地面に、仰向けに手折れる慎之介。
 顔に受けた返り血が目に入り、視界を奪われる。
 あわてて手の甲で目を擦り、見上げたときには、百十郎が脇差を逆手に持ち、振り上げていた。
 その脇差はさっきまで、百十郎の肩に食い込んでいた、慎之介の脇差だった。

(殺される……)

 思わず慎之介は顔を背けた。
 ずん、と重たいものが自分の躯(からだ)を通り抜ける感覚。
 傷みはまだ襲ってこなかった……自分は傷みも感じぬまま、あの世に送られてしまったのかとさえ思った。

 しかし、雨はまだ坊主頭に振り落ち続ける。
 しゃあ、しゃああ、と、雨の音が止むこともない。

 おそるおそる目を開けた……自分の右太腿に、脇差が深く、深く食い込み、地面まで差し貫いている。
「うわっ……」
 慎之介は傷みよりも、まず驚きから声を出した。

 気がつけば、蜂屋百十郎が背を向けて歩きだそうとしている。
 紫乃が斬り付けた一文字の傷。右肩から左脇までがばっさりと斬れていた。
 また、慎之介が左肩に付けた傷……まだ、左腕が躯にくっついているのが不思議なくらいだ。
 腕を失った肩からは、滝のように血が流れる。
 背中まで突き抜けた、仕掛け太刀の鋒(きっさき)が見える。
 それでも、百十郎はのそり、のそりと……激しい雨の中を歩いていく。
 慎之介はその背を追おうとした。

 そこで、始めて激痛に襲われた。
うああああああ!

 百十郎がぴたりと足を止め、右腕を失った肩口から慎之介を省みる。

「……諦めな。おめえには、俺を殺(や)れねえよ」
「ああっ……ううっ……」激痛に耐えながら、慎之介は叫んだ。「何故死なぬ? 何故死なぬのだ?」

 百十郎が半月の形の口で、にやりと笑う。
 不揃いの歯もまた、血に塗れていた。

「人の恨みが俺を死なせねえのさ……首が飛んでも、動いて見せらあ……」

 百十郎はそれだけ言い残すと、よたり、よたり、と歩き出した。
 やがて激しい雨にかき消されて、その後ろ姿は霞み、見えなくなった。

 気がつけば、自分が磔になっている場所から、手を伸ばせば届きそうな場所に、紫乃の骸(むくろ)が横たわっている。
 まだ刃が刺さったままのその首から流れる血と、慎之介の太腿から流れる血が、雨に流されて一筋に交わった。
 そうして慎之介は、生者の地獄に置き去りになった。

「慎之介どの……」

 背後から声がした。
 首だけで振り返ると……法衣ではなく、古い縦縞の小袖を身に付け、頭巾を被った香蓮の姿があった。
 傘もなく、ずぶ濡れのまま、血塗れの修羅場を前に立ち尽くしている。

「……何をしに来た……死にぞこなったおれを、嗤いにきたのか?」
 
 香蓮が駆け寄ってくる。そして、差し貫かれた慎之介の傷を検める。

「刃を抜けば血が吹き出し、おそらく峠の下まで持ちません。このまま、ここでお待ちになってください。近くに、百姓の住まいを数件見かけました。そこに助けを呼んでまいります……くれぐれも、動かぬように。これ以上、余分な血を流してはいけません」
「……余計なことをするな……おれはここで死ぬ……」

 慎之介の目から、熱い涙がこぼれた。
 冷たい雨の中で、それだけが温かい。

「蜂屋百十郎を、追わなくてよいのですか。それがあなたの生きる道でございましょう」

 立ち上がった香蓮が、少し冷ややかな目で慎之介を見下ろす。
 その面影が、今は亡き姉の面影と重なった。

「そうか……そうだ。追わねばならぬ……彼奴(きゃつ)が生きている限り……」
「そのためには生きねばなりません……わたしがあなたを、生かすのです」
「……そなたがわたしを……」
 香蓮は、睫を伏せて、菩薩(ぼさつ)のような笑みを浮かべた。
「ええ、あなたの敵(かたき)の、娘であるこのわたしが。だから今は、生きるためにお待ちください」

 そう言い残すと香蓮は、蜂屋百十郎が去っていった坂とは逆の方向へ駆け出していった。
 


 その後……慎之介は一生、右脚を引き摺ることになった。
 慎之介は紫乃の骸(むくろ)を峠の一番高い場所に葬ると、鬼百合(ゆり)峠からほど近い小さな村で、香連と所帯を持って小さな畑を耕して暮らした。
 近所の百姓たちからも、若いながらも健気(けなげ)で働き者の夫婦だと評判だった。
 しかし数年後、その夫婦は誰も知らぬうちに村を後にし、どこかに去っていった。
 その後の夫婦の消息は、誰も知らない。
 
 また、蜂屋百十郎の行方も、誰も知らない。


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