手篭め侍
■第20話 ■ 最後の対決
もう晴れた空のことを思い出せないくらい、空は暗く、雨が降り続いている。
この峠の呼び名となっている鬼百合(おにゆり)が鮮やかな橙(だいだい)の花を咲かせるのは、雨の季節が過ぎてから。
今は蒼褪(あおざ)めた紫陽花(あじさい)が、沿道を覆う緑に色を散らしらしている。
笠の上に当たる雨の音を聞きながら、紫乃は目を閉じ、心を鎮(しず)めた。
雨が上がらぬことを祈った。全ては雨の中ではじまり、雨の中で終わる。
どちらに結果が傾くにせよ、この雨のなかで全ては終わるのだ。
峠の東の方角から、掛けてくる足音がした。軽やかな足音。蜂屋百十郎ではない。
聞き間違えるはずもない、左腰に差した刀の重さに難儀(なんぎ)して走る、慎之介の足音だ。
「姉上!」
笠も被らず、剃り上げられた頭を雨に打たせながら慎之介が坂道を駆け下りてくる。
姉の前までくると、ずぶ濡れの躯(からだ)を折り曲げて大きく息を吐いた。
「慎之介……どうした、その頭は」
「……こ、これは……」
決まり悪そうに剃髪された頭を撫でる慎之介。
そして、慎之介が腰に妙な太刀(たち)を差していることに気付く。
「それにその太刀は? ……随分と真直(まっす)ぐで、妙な太刀だな……」
それどころではない、という様子で慎之介は姉の顔を見上げた。
「姉上、いろいろと、わかったことがあります。蜂屋百十郎の宣(のたも)うたことはすべて偽り……八代松右衛門は死んでなどおりません。それどころか、あの蜂屋百十郎こそが……我らの敵(かたき)、八代松右衛門の成れの果ての姿なのでございます」
「そうか……」
そう聞かされても、紫乃の心の水面(みなも)には漣(さざなみ)ひとつ立たなかった。
雨に打たれる躯(からだ)に反して、奇妙に心は靜(しず)かだった。
もっと姉が驚きを見せるか、と慎之介は期待していたのだろう。
どこか拍子抜けした様子で、姉の表情を伺っている。
「姉上、あの男は、わたくしの手で討たせてください。あの男こそ、我らが追い続けてきた敵(かたき)……わたしには、秘策があるのです……何卒、わたしの手で……われらの父上を殺め、母を辱め、そして姉上までも……したあの男を……」
以前の慎之介からは想像もつかない言葉を、紫乃は聞いた。
しかし、紫乃は優しく慎之介に微笑んでみせた。
いったい、何年ぶりのことだろうか。
「あの男はわたしの獲物(えもの)じゃ……あの男はわたしが斬る」
「獲物……?」
慎之介が首をかしげる。
「そう、あの男は……わたしが殺さねばならぬ。わたしにも秘策がある。必ず彼奴(きゃつ)を仕留める自信がある……そなたは控えておれ。しかし……」
「しかし?」
しゃあ、しゃあ、と唸りをあげて風に煽られた雨が叩きつけてくる。
「しかし、万が一にもわたしが討たれたときは……そのときは頼むぞ、慎之介。わたしは、あの男に一太刀もくれずに討たれはせぬ。しかし、わたしの策が功を奏しても、あの男が倒れぬ場合もある。その時は……」
そっと、紫乃が両手を伸ばす。
慎之介は呆然とその手を見た。
姉が、その手を取ってくれ、と願っていることに、気付くことができなかった。
それ以上のことはこの手をとることで察してくれ、と仕草で語っていることに気付くのに、暫(しばら)く時間を要した。
慎之介は姉の手を取る……こうして姉の手に触れたのも、何年ぶりのことだろうか。
「して、彼奴(きゃつ)は今どこに……」
姉の掌は、やはり少し硬かった。
慎之介は姉の手を取りながら、姉に尋ねる。
「もうすぐくる……こっちに向かっておる。まもなく……」
慎之介は自分が駆け下りてきた坂道を振り返った。
紫乃の言ったとおりだ……襤褸(ぼろ)笠を被っただらしのない浪人が、ふらふらと坂を下ってくる。
ずんぐりした体躯。左右に躯を揺らす、曲(くせ)のある歩みっぷり……間違いない。蜂屋百十郎だ。
慎之介は、饅鰻寺(まんもんじ)から頂戴してきた仕掛け刀の柄をしっかりと握った。
隠し抓(つま)みに、頭の撥条(ぜんまい)……すべては準備万端だ。
近づいてこい……近づいてこい……と慎之介は思った。
と、紫乃は柄が掛けた慎之介の手を制する。
そして、じろりと慎之介を見て……眉毛を釣り上げ、無言で首を横に振った。
あの若気(にや)け笑いと無精ひげ、弛んだ頬がはっきりと見て取れる。
それが見て取れる距離まで、百十郎は近づいていた。
その男はまるで急ぐ様子もなく、焦る様子もなく、何事か面白い見世物でも見にきたようだ。
まさに、ふらり、と。
「おう! 待たせちまったかい?……お嬢ちゃんと、その弟君(ぎみ)……おいおい、ちょっとまてよ。なんだよそのくりくり坊主は……ははあ、さては饅鰻寺(まんもんじ)の腥(なまぐさ)坊主に悪戯(いたずら)をされちまったかあ? どうだ? 逸物を弄(いじ)られ、尻の孔で楽しませてもらったんだろ?」
「黙れ! われらを図ったな?……あの坊主の元の名こそが……」
真っ赤になって飛び出そうとする慎之介を、すこし上背のある紫乃の背中が封じた。
「……お嬢ちゃん、あんたもあんたの弟君も、俺なんかに出会っちまったばかりに、えらい災難だったなあ……弟君は畜生坊主の慰み者に、そしてあんたは、夜鷹にまで身を窶(やつ)してまで……」
紫乃は表情ひとつ変えない。
そして、ざ、と一歩、百十郎に向けて間合いを詰めた。
百十郎は後退しなかった。
まだお互い、刀の柄に指を掛けてはいない。
「今日はお主の長口上に付き合うつもりはない。そちらが先に来ぬなら、わたしから行く。よいか?」
百十郎の目から、若気(にやけ)が消える……まだ口は不敵に笑っていたが。
「怖ええ……あの宿屋の夜とは段違いの危(やば)さだぜえ……素っ裸でおれに刀(やいば)を向けてきたときの、あの凄みもなかなかの見ものだったが、今日のお嬢ちゃんは気合いが違わあ……俺を殺(や)る気合に、混じりっけがねえ……」
そういって、じわり、とすり足で左側に廻る。
紫乃はじわり、と右側に回った。
お互い、まだ柄に手を掛けてはない。
今は横殴りに降りしきる雨。
峠の道幅はそれほど広くない……じわり、じわりと二人は円を描くように間合いを取り続けた。
やがて、それぞれが沿道の蒼白い紫陽花(あじさい)を背に、ぴたりと足を停めた。
先に柄に手を掛けたのは、百十郎のほうだった。
「娘……」百十郎は言った。「これ以上、余計な口は挟まん。拙者とやりあうのは、止めにせんか? ……死んでなんの悦びがある? 仇討ちなど、何の意味がある? ……何故、死に急ぐ? お主はまだ、生の悦びなど知らんだろう? 憎しみ以外、何がある?」
あの野原で少年武者の腕を斬ったとき以来、二度目に聞いた、百十郎の武(さむらい)言葉だった。
観れば、若気(にや)けが口からも消えている。
唇を引き結び、眉を釣り上げる。
端から見ていた慎之介は驚いた……弛んだ頬さえ、引き締まって見える。
あれが、蜂屋百十郎……いや、八代松右衛門の、本来の顔なのだ。
人を殺(あや)めるときの、本来の顔だ。
紫乃は静かに答えた。
「お主がわたしにくれたのだ……新しい歓びを。お主を憎んではおらん……恨んでもおらん。ただ、お主を殺(や)りたいだけよ……わかるであろう?」
「矢張(やは)り、これ以上言葉は要らぬようだな……ほうっ!」
凄まじい速さだった……水溜りの中、鈍重そうな蜂屋百十郎の躯が、黒猫のように飛び上がる。
激しい雨の中で、きらりと鞘(さや)から刃(やいば)が踊り出た。
(み、見えた……!)
日差しの欠片もない雨空の下で、百十郎の刃(やいば)が雷光のように光り、びゅん、と滝のような雨を斬った。