手篭め侍



■第2話 ■ ある仇討ち

「卑怯にもお主のだまし討ちに無念の死を遂げた父の仇、母とともに追い続けてはや十年! ようやく思いを果たすときが来た! もう逃げも隠れもできぬぞ、蜂屋百十郎!」

 まだ声変わりもして間もないようような若武者の声。
 白装束にたすき掛け、白鉢巻の若武者が、太刀を抜き、中段に構えていた。
 その背後では、同じように白装束の三〇半ばの女が、鉢巻にたすき姿で匕首を逆手に持って控えている。

「蜂屋百十郎……忘れもしないあの十年前の夜、お主はわが夫を斬った後、妾に何をしたかよもや忘れたとは言わせぬぞ! お主への恨みは、この身体(からだ)に刻み込まれておる。今日こそ息子とともに、夫の無念、妾の恥の恨みを見事晴らしてくれる! 覚悟!」

 凛とした佇まいのその年増はの風情は、姉の紫乃を思わせた。
 人気のない山奥に開けた野原。風がびゅう、と吹いて草を波のように靡(なび)かせる。
 中央で、白装束の母子と、件の素浪人、蜂屋百十郎が十分な間合いを取って睨み合っていた。
 野原を見下ろす高台の鬱蒼(うっそう)とした茂みの中に、慎之介と紫乃は身を潜め、事の成行(なりゆき)を見守っていた。

「姉上……」
「しっ……慎之介、声を立てるな。あの男が噂に聞く蜂屋百十郎か……」

 笠を目深に被った紫乃は、その薄汚い風情の素浪人、蜂屋百十郎の挙動を凝視している。
 慎之介は思った……あの男が? あのでっぷりと太った、だらしのない体つきに、乞食同然の擦り切れた羽織袴、反っ歯で三重顎のあの男がその名を東海道中に轟(とどろ)かす剣客?
 仇討ちを挑もうとする少年武者とその三十路(みそじ)の母の言い分を聞くに、極悪非道の卑劣漢とはまさにあの男のこと。
 しかも、今にも切り込まんとする母子をまえに、あの男は刀を抜かぬばかりか、毛むくじゃらの胸元をぼりぼりと掻きながら、大あくびをしている。

「奥方様よ、あんたは……とんでもねえ嘘つきだな。ご子息にいったい、どんな嘘八百を吹き込んだんだあ?」
 百十郎があくびともに間の抜けた声で、ちらりと白装束の年増女に言う。
「黙れ! この期に及んでまだ白(しら)を切ると申すか!」
「おれにだまし討ちを掛けてきたのは、あんたの旦那だ。それまで、あんたとおれは、どんな仲だった? ……覚えてるかあ? 深川の白木屋を……俺たちゃあ、あの茶屋の二階で、しょっちゅう乳繰り合った仲だったじゃねえか! あんたの亭主の目を盗んでな!

 太刀を中段に構えていた少年武者の顔が、ぴくりと震(ふるえ)る。

「は、母上?」
「き、聞いてはならぬ! 聞いてはなりません彦次郎! 命の惜しい卑怯な外道が、われらを惑(まど)わそうとして、卑(いや)しい嘘をついておるのです! あの男の言うことはすべて嘘です!」

 百十郎は、年増女の美しい美貌(かお)が、ぽっと赤く色づくのを楽しんでいるようだった。
 相変わらず、刀の柄には指さえかけない。

「坊主、おめえの名前は彦次郎、ってのか? さっきも言ったけどよお……おめえの母ちゃんとおれは昔、ちょっとした仲でよ。母ちゃんがおめえに何と言ったかは知らねえが、俺がおめえの父ちゃんのことを騙し討ちした、ってえのはだ。それに、おめえの母ちゃんを俺が辱めた、ってのは大嘘だ」
「黙れ! 黙りなさい!」

 今や、匕首を握った年増が息子の前に立っていた。

「身体(からだ)に恨みを刻み込んでる、だあ? よく言うぜ、この色狂いの好き者女。大人しい顔して、俺に抱かれりゃいつも白目剥いてしがみついてきたのはどこのどいつだ、ってんだ」
「嘘をつくな! ここにきて母上を愚弄(ぐろう)するか!」

 今度は少年が前に出て、刀を斜めに構えた。
 左足を突き出し、刃を上に向けて、頬の横で水平の位置に構える。

「城条一刀流の構え……あの若侍(さむらい)、なかなかの使い手と見える」
 事の成り行きを見守っていた紫乃が、独言(ひとりごと)のように呟く。
「しかし……あの男、全く動じている様子はありません。刀を抜く気があるかどうかさえ……」
「しっ! 慎之介、声が大きい!」
 姉のほうが声が大きかったが、慎之介はあえて抗議しなかった。

「そりゃもう、おめえの母ちゃんには楽しませてもらったぜ。母ちゃんにもおれがくれてやった女の悦びが、しっかりと刻み込まれているこったろうよ……な あ、おっ母さんよ。奥方様よ。正直に言いなよ……おれを追ってきたのも、おれが恋しかったからだろ? 身体が疼(うず)いてしょうがねえから、俺にまた、 抱かれたくて抱かれたくて仕様(しょう)がねえから、追ってきたんだろうがよ。そうだろ?」

 どこまでも不遜(ふそん)な態度を崩さない百十郎だった。

「黙れ! 黙れ黙れ黙れこの下郎!」
「その下郎に腹の底を小突(こづ)き回されて、噛(しが)みついて離れなかったのは、坊主、おめえの母ちゃんだ。おめえの母ちゃんは、とんだ鼈(すっぽん)だったぜ。で、ほんとうはどういう行掛りで、てめえの父ちゃんがあの世送りになったか、知りたくはねえか?」
「聞く耳持たん!」

 若武者は怒りに任せて斬りかかるほど、無鉄砲ではなかった。
 じり、と一歩進むに合わせて、百十郎はやや右寄りに半歩後ずさる。

「あの間合い……やはり蜂屋百十郎、只者(ただもの)ではない」
 藪の仲で、姉の息づかいが荒くなっていることに慎之介は気付いた。
 ちらと隣りの姉を見ると、いつもは青白いまでの頬が赤く染まっている。
「わたしには……あの男はただの粗野で下品な与太者にしか見えませぬ」
「だからそなたは駄目なのじゃ。とりあえず声を立てるな。聢(しか)と見ておれ」

 白装束の母子が脚を前にすすめると、百十郎は右へ、右へと弧を描くように退く。
 そのまま、母子と百十郎は……当世風に言うと反時計回りに、野原に円を描き続けた。
 しかし刀には触れる気配すらない。
「抜け! 抜かぬか! 怖気づいたか?」
 少年武者が弓を引くような風変わりな構えを崩さずに、百十郎との間合いを詰めようとする。
「坊主、おめえ……歳はいくつだ?」
 そのとき、百十郎が袖から手を出した。
 ぴくり、と少年の肩が緊張したように動くのが見えた。
「お主に父を奪われて十五年。数えの歳も十五よ! 我はこの世に生を受けてから今日まで、お主を追い、討ちとることだけを本懐として生きてきた。お主への恨みは我の人生そのものよ!」

(十五年? ……生まれてあの歳までずっと? いやはや、上には上が……)
 慎之介はその少年武士と母の姿に、自分と姉の姿を重ねずにおれなかった。
 そして、憐(あわ)れに思えてならなかった。
 しかし傍らにいる姉の横顔には、勝負の行方以外の何者も見えないらしい。

「十五か……坊主、ひょっとしてお前さんが生まれたのは……親父がくたばっからか?」
黙れ!
 叫んだのは母のほうだ。
「そうか……どうりで、お前さんが親父にちっとも似ていないわけがわかったよ。いやいや、母親ゆずりで女形(おやま)面に生まれついた、ってのはお前さんの幸運よ。あの親父の血が、お主に流れていないなら、なお幸運。それに、その凛々しい鼻と細面、俺の若い頃とあまりに似ていやがるんで、まかかたぁ思ったが……」
黙れ黙れ黙れ!!
 白装束の年増が、息子を押しぬけて匕首を振り上げ、百十郎との間合いを縮めた。
「罪な女だなあ……おめえは。てめえの間抜けな亭主を騙くらかして、おれとしょっちゅう逢瀬を重ねていた頃とちっとも変わりゃあしねえ……おめえは、てめえの息子まで狂わせやがった……その二枚舌で赤子の頃から息子を騙くらかして唆(そそのか)し、てめえの見栄の道具にするたぁ、とんでもねえ話よ」
「それ以上言うならこちらから参るぞ! その舌、引きずり出して切り離してくれる!」
「母上、どうかお下がりください!」

 前へ前へ出ようとする母親を庇うように、少年が構えを崩さずに前に出る。
 今度は百十郎も間合いを詰めなかった。

「この舌をか?」そう言って百十郎は、紫色の舌をだらりと垂らして、その先を蛇のようにチロチロと蠢 (うごめか)かせてみせた。「まだこの舌が恋しいかあ? この舌でかかる剣豪の奥方様が、どんな声をあげてよがり狂ったことか……まあ……おめえの舌も相 当なもんだったぜ。おれの亀をその舌で、夢中で可愛がってくれたこと、よもや忘れたとは言わせねえぜ、奥方様。吉原の玄人(くろうと)女でもああはいかね え……」

 ついに年増女は顔を真っ赤にして匕首を胸の前で水平に立てると、百十郎めがけて駆け出した。

「母上!」
 少年の脇をすりぬけ、百十郎の胸元に突進していく。
 百十郎はひらりと身を交わすと、年増女のすねを草鞋(わらじ)の先でこん、と小突いた。
 あえなく前のめりに倒れる年増女。
 白装束の袂(たもと)が大きくめくれ上がり、白い脹ら脛(ふくらはぎ)が露(あら)わになる。
 這いつくばったせいで、その大ぶりの桃のような尻の線が白装束に浮かび上がった。
「坊主……この女がおめえに何を言い聞かせてきたのかは知らねえ。でもよ、それは皆、嘘だ。おめえは何も知らねえんだよ……たとえば、おめえのほんとのお父っつあんが誰か、おめえにわかるのか?」
「わたしの父は、お主に殺された!」
 そこで、百十郎ははじめて太刀の柄の先に、ちょんと二本指を添えた。
 少年の腰がぐっ、と落ちる。
 そして、どちらともなく間合いをじりじりと詰めていく。
「彦次郎……つったけな。おめえの親父は……たぶん、このおれだ」
 先に動いたのは少年のほうだった。



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