手篭め侍

血 の匂いのする、色好みの下司下郎め!
残忍な裏切り者め、情欲まみれの卑劣漢め!
さあ、復讐だ!

〜ハムレット〜



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■第1話 ■ 姉上の決心

 2本の蝋燭(ろうそく)の炎が、暗い宿屋の部屋でたよりなく揺れていた。
 揺れるそれぞれの炎の明かりが、向かい合って座る姉弟の顔を気まぐれに撫ぜる。

「姉上、本気なのですか? 父の仇を討つためとはいえ、あのような男に身をまかせるなど……人に知られれば我が春日家の恥。口さがない者はわれら姉弟のこ とをなんと嘲(あざけ)ることか……」

  数えでまだ一四になったばかりの少年は、少女のように頬を赤らめていた。怒りと、羞恥で。
  姉の紫乃は今年十七歳。不貞腐れた様子の弟を、冷たい目で見据えている。

「今さら何を言うか、慎之介。そなたの腕が充分ならば、あのような素浪人に頼る必要もあるまいに」
 姉の紫乃は正座したまま、ぴんと背筋を伸ばして、氷のような声で言った。
「とはいえ姉上……あの男はあまりにも……」
 今日の昼、見かけた光景を思い出し、慎之介は思わず身震いした。
 耳を澄ませば……隣りの部屋からあの侍の高鼾が聞こえてくる。
「もとはと言えばそなたが学問にかまけ、剣の修行をおろそかにしていたからであろうが。本来ならばわれら姉弟の手で果たすべきはずの仇討ちに、助太刀(す けだち)などは無用の筈」

  元服もまだの少年の容貌(かお)にはまだ逞しさはなく、あどけなさだけが目立つ。
 脇差がいかにも不似合いだ。若武者にはとても見えぬ。まるでお稚児のようだ。

  反して姉……紫乃は継ぎ接ぎは目立つが白の小袖と紺の袴を堂々と着こなし、長い黒髪をきりりと頭の高い位置に束ねている。
 反り返るくらい背筋を伸ばしたその姿には凛とした風格がある。
 意思の強そうな太めの眉、きりりと横一文字に結んだ薄い唇は慎之介よりも遥かに若武者のよう風格を纏っている。

  事実、慎之介は武芸にも学問にも秀でた姉の紫乃に頭があがらない。
  憎き仇、八代松右衛門に討たれた父は中西派一刀流の師範。
 子どもの頃より姉弟は父から厳しい手ほどきを受けたが、明らかに剣の才があるのは姉のほうで、慎之介は武芸よりも学問を好んでいた。
  その姉が、非難がましく自分を見据えている。
  これから辱めに身を投じるのはそなたのせいだ、とばかりの姉の目線。

「考え直してくださらぬか、姉上。われらだけで八代を討とうではありませんか。たとえ返り討ちにあったとしても、それでもわれらは堂々とと父の仇に刃を向 け、華々しく散った、と世の人々は……」
たわけ! 世の人々がわれらをどう語ろうと、知ったことではないわ!

  紫乃が、眉を吊り上げ、一重の切れ長の目を吊り上げて一喝する。
 普段の慎之介なら、その叱責だけですくみ上がってしまっただろう。
 しかし今は、姉を思う気持ちと屈辱が彼を滾(たぎ)らせた。

「たとい仇討ちを果たすことができたとして、我らが、春日家が末代まで物笑いの種に なっても構わぬ、と申されるのですか姉上!」
「それはそなたの本心か? 慎之介。ただ何の手立てもなく、むざむざとあの八代松右衛門に討たれに行くほうがまさに世の笑いもの。隣りで高らかに寝息を立 てているあの男、あの男の腕が確かなことは、そなたもその目で聢(しか)とと見たであろうが?」

 姉は本気だった。薄い唇の両端が、くっ、と噛み締められている。
 その黒目がちな眼の中では、蝋燭の陽がちらちらち揺れ、瞬きさえしない。
 こうなると姉は、梃子(てこ)でも動かぬことはわかっていた。

「あの男は狂犬(やまいぬ)です! 姉上もご覧になったでしょうあの 男が何をしたか……あの若侍とあの奥方に……」
 姉の黒目の中では、まだ蝋燭の炎が揺れている。
 もちろん姉も、慎之介の言わんとすることは理解しているだろう。
 姉は静かに慎之介を見据えたままだ。
「そなたは八代松右衛門の恐ろしさをわかっておらぬ……あの男こそ狂犬(やまいぬ)そのもの」
「わかるはずもありません! 姉上もわたしも、仇の顔すら知らぬのですよ!」
「そなたはまだ、赤子であった。わたしははっきりとあの男が何をしたか覚えておる!」

 二人の父が八代松右衛門に討たれたのは十年前。
 紫乃が七歳、慎之介がまだ四歳のときであった。
 八代松右衛門がある日突然、父が営む剣術道場にぶらりと訪れた。
 父は剣の道には厳しい人物だったが、本来柔和で、人を疑うことを知らぬ好人物であった(と、慎之介は紫乃から聞かされている)。
 父の剣の腕は江戸中に知れ渡っており、門下生も多かった。
 そのせいで、道場破りを挑む浪人や他の道場の門下生があとを立たなかったが、そんな折にふらりと道場に現れたのが八代松右衛門である。

「でも見たのですか、姉上……八代松右衛門の顔を」
「あの男は……頭巾を被っていたと申したであろう」

 これまで何度も交わした問答である。
 幸か不幸か、いや、当世風に考えれば前者なのだが、八代松右衛門が父の道場を訪れた際、慎之介は自宅にいたためにその惨劇を目の当たりにすることはな かった。
 幸か不幸か、いや、当世風に考えれば後者なのだが、紫乃は道場にいた。
 しかし、頭巾を被った黒装束の異形の闖入者に警戒した母が、紫乃を道場の奥の台所へと隠してしまった。

「では姉上は、何を見たのです。その目で何を見たのです?」
「これまで何度も申したであろう、道場の板間で血にまみれた父上の亡骸、そして……」
「そして?」
「もう何度も言ったであろう! 父上の亡骸(むくろ)の傍らで、憎き仇に辱めを受ける母上の姿であると!」

 紫乃の顔がぼう、と紅潮している。明らかに憤(いきどおり)りで。
 繰り返し繰り返し聞かされてきた父の無残な死、その傍らの板間で憎き仇から辱めを受ける母の姿……紫乃が慎之介にこの十年間、繰り返し繰り返し聞かせた その惨劇は酸鼻をきわめるものであった。
 しかし慎之介自身がそれを目にしたわけではない。

「母上は尼寺で入られる前、われら姉弟に“決して仇討ちをしてはならぬ”と言い聞かされた。母上の言葉を、姉上はお忘れなのですか?」

 それは事実だった。八代松右衛門に汚された母は、今も山奥の尼寺で暮らしている。
 姉弟を道場の飯炊きをしていた老婆に預け、ふたりの元を去る日、母は二人を呼びつけて、仇討ちを固く禁じた。
 その日の母の悲しげな憂いを秘めた容貌(かお)は今もなお、慎之介の眼(まなこ)には焼きついて離れない。

「母上はそなたのように恥を恐れたに過ぎぬ。辱められたことの噂にさらに辱められることから逃れるために、われら姉弟を置き去りにし、俗世から逃げたの だ。わたしは母上には同意できぬ。慎之介、そなたは無念ではないのか? そなたはそれでも男子か?」
「では姉上、恐れながら申し上げるが、今日の昼間、あの男があの母子にしたこと、あれは何なのです? 八代松右衛門がわれらの両親にしたことと、何が違う というのです。あの男の振る舞い、あの哀れな母子にした酷い仕打ち……武士の風上にもおけぬ畜生(ちくしょう)そのものではありませんか!」
 姉弟は、暫(しばら)くの間、無言で互いの容貌(かお)を睨み続けた。

 弟の見る姉の大きな黒目の中では、蝋燭の火がゆらゆらと揺れ続ける。
 姉の見る弟の同じように大きな黒目の中にも、同様に炎が揺れていた。

「畜生(ちくしょう)と立ち向かうには、畜生(ちくしょう)の手を借りねばならぬこともある。この十年、わたしは復讐のことだけを思い生きてきた。そのた めに、あの畜生の腕(かいな)に抱(いだ)かれる覚悟を決めた……そ の姉の気持ちが、そなたには通じぬか?」

“抱かれる”という言葉が、慎之介の理性を奪った。
 思わず立ち上がる。

「姉上! あの男はまともではありません! 姉上もまともではない。畜生に挑もうとする者は、己(おの)も畜生とならぬよう覚悟せねばなりません。その覚 悟は、姉上にあるのですか?」

 紫乃も立ち上がった……紫乃は慎之介より、二寸ばかり上背がある。

「覚悟がないのはそなたであろう! 元はといえば男子であるお主の剣が不甲斐ないばかりに、このような情けない羽目になっておるのだぞ! そなたとは覚悟 が違うのだ! ……復讐こそがわたしの生き甲斐。どのような形でそれを遂げることになろうと、何が何でも八代松右衛門を……あの『手篭め侍』を討ちとることが我が本懐! 世間に哂われようが、後ろ指を指され ることになろうが、畜生と呼ばれようが、そんなことは知ったことではないわ!

 と、そのとき、すう、と隣の部屋の襖(ふすま)が空き、その薄汚れた宿無し浪人……蜂屋百十郎の風采の上がらぬ顔が覗いた。

「うるせえなあ……いつまで待たせやがる。待ちくたびれて寝入ってたら、姉弟げんかで目を覚まされる。で、どうなんだい、お嬢ちゃん。覚悟は決まったのか い?」
「…………」

 紫乃はその反っ歯で、たれた頬に茫茫(ぼうぼう)と髭をはやしただらしのない男の顔を、きっ、と睨みつけると、静かに腰を下ろした。

「覚悟はできております……その前にまず、風呂で身を清めてまいります……」

 そう言うと紫乃は、風采の上がらないその男に深く一礼すると、す、と立ち上がり……慎之介を省みることなく……部屋から退場してしまった。
 ぴしゃり、と勢いよく障子を締める音が、慎之介を糾弾しているようだ。
 大あくびをしながら毛むくじゃらの襟元を掻くこの薄汚い素浪人と、慎之介は部屋に取り残される。

「坊主……お前さんは、そこで聞いてるのかい? なんなら襖の隙間から覗いててもいいんだぜ……今日の昼みたいに。姉上が男に抱かれる姿を覗き見するの も、なかなか乙(おつ)なもんだぜ」

 ひひひ、と下卑(げび)た笑い声を立てる百十郎。
(この鬼畜生……悔しい。わたしに十分な剣の腕さえあれば……)
 慎之介は、その醜い笑顔を睨み続け、自らの不甲斐なさを悔いながら……昼間の出来事を思い出していた。



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