手篭め侍
■第18話 ■ 秘剣・仕掛け太刀
その太刀は柄の部分が異様に長く、逆に刃(やいば)は1尺半足らず、と妙に短い。
刃の形もまた異様で、反りがほとんどなく、水平で、しかも諸刃(もろは)だった。
塚の後ろ、頭の手前に六角形の飾りがついており、これが隠し仕掛けとなっていた。
柄の中には伸ばせば二尺半はあろうかと思われる、強い撥条(ばね)が仕込まれている。
撥条の先端には針金が取り付けられており、これが塚の頭の奥に隠された糸車につながっている。
六角形の飾りを抓(つまみ)みに、これをきりきりと回せば、塚の後ろに仕込まれた針金(はりがね)を巻いた糸車が、撥条(ばね)の先端を引き絞り、すっぽりと柄の中に収めてしまう。
鐔(つば)にも仕掛けがあり、柄を握ったまま親指で少し左に回せば、飲み込まれた撥条(ばね)をかちりと縮まったままに固めることができる。
そこに先述した、反りのない一尺半の刃(やいば)を押し込む。
塚の中央に隠された小さな楔(くさび)が飛び出し、刃(やいば)が柄に、ぱちん、と音を立てて固定される。
「いったい……これは何だ?」
念甲の骸(むくろ)から刃を抜き取るのには苦労した……その刃が深く念甲の骸に食い込んでいたことに加え、刃が諸刃ゆえ、慎之介は掌ににたくさんの傷を作らねばならなかった。
自分が刃を抜き取るのに腐心しているというのに、安らかな死に顔をしている念甲の死に顔に苛立ち、慎之介はその額に唾を吐いた。
今は井戸水で何度も何度も躯(からだ)をながして塗りこまれた油を落とし、小袖に袴を身にまとっている。
しかし頭はきれいに剃り上げられてしまった。
まぶされた油は洗い落とせても、体中を這い回った念甲の指の感触、異物を押し込まれ、菊座の奥で感じた感覚は、一生洗い落とせない。
剃られた頭を撫ぜると、思わず身震いがした。
「八代松右衛門が……かつて愛用していた仕掛け太刀にてございます」
縁側に香蓮が正座していた。
背後の開け放たれた障子からは、今も念校の血まみれの(むくろ)が転がっているのが見えた。
香蓮の説明を受けながら、その仕掛け太刀の刃(やいば)をなんとか柄に収めた慎之介は、肩ごしにちらりとその姿を改めた。
(……あれは一体、何なのだ。わたしの頭を剃り、念甲に手を貸してわたしを辱めたかと思うと、あの坊主を殺して……一体、あれは何者なのだ)
どうしても、座ったままの香蓮に近づく気になれない。
近寄るのが、なぜか恐ろしかった。
「あの墓……八代松右衛門の墓の下に眠っているのは、そなたの父だと申したが、あれは偽りだったのだな?」
「…………」
香蓮はあの長い睫を伏せたまま、人形のように押し黙っている。
「あの墓の下には誰も眠ってはおらぬ。あの腥(なまぐさ)坊主、念甲こそが、蜂屋百十郎の成れの果て……そうなのだな」
「あの男の名前は、葬られました。その命よりずっと昔に」
呟くように、靜(しずか)な鈴の音のような声で香蓮は答える。
「念甲は蜂屋百十郎の名を捨て、我が敵(かたき)、八代八右衛門にその名を譲(ゆず)った。相違ないか?」
香蓮が顔を挙げ、大きな瞳を見開いて言った。
「……だから何なのです。それが一体、どうだと言うのです?」
「そなたは一体、何者なのだ?」
慎之介は香蓮に向き直る。しかし、歩み寄ることはしなかった。
この小坊主を装った娘が、不気味でならなかったのだ。
「今はもういない男の、娘でございます……ここでは男として嬲られてまいりましたが」
「誰の、何奴(どいつ)の娘なのだ? 八代八右衛門か? それとも蜂屋百十郎か? ……ええい、わたしはもう、何もわからない!」
思わず声を荒げていた。
香蓮はまた睫を伏せて、鈴の音の声で囁きはじめた。
「……どうでもいいではありませんか。八代松右衛門も、蜂屋百十郎も、どちらも幽霊のようなものです……今となっては……わたしの父も」
「そなたは二年前にこの寺に来たと申した。それも偽りか?」
「そこに偽りはありません……あの墓は……わたしが作ったものです」
香蓮はそう言うと、その位置からは見えぬ寺の裏手のほうへ顔を向けた。
ぽつ、ぽつ、と雨が降り始め、剃り上げられた慎之介の頭に落ちる。
「何故にこの寺に来た?」
「…………」
香蓮は慎之介の問いに答えなかった。
慎之介の頭は混乱していたが、とにかくひとつずつ、絡まる糸を解(ほぐ)していくしかない。
「……いったい、八代松右衛門は、いつから蜂屋百十郎を名乗るようになったのだ? わたしは、蜂屋百十郎に夫を殺され、手篭めにされたと言う武家の奥方 が、その息子と蜂屋百十郎に仇討ちを挑む処(ところ)を見た……顛末は惨憺たるものであったが……おかしいではないか。その奥方と息子は、十年も蜂屋百十郎を追って きた、と言っていた。十年前からあの男は、本来の名ではなく、蜂屋百十郎の名を名乗っていたのか?」
「……そうではありません」香蓮が、俯いたまま答える。「しかし、おそらくその奥方様とご子息が追っていたのは、蜂屋百十郎の名だったのでしょう。いま、後ろで事切れている、念甲が捨てた名を……」
また慎之介の頭が矜羯羅(こんがら)がる。
剃り上げられた頭の中が、沸々(ふつふつ)と煮えていた。
「ますますおかしいではないか!……その念甲がかつては“蜂屋百十郎”だったとして、なぜあの奥方は似ても似つかぬ“今の”蜂屋百十郎を、 敵(かたき)と見紛うたのだ? ……十年という年月が人の見てくれをいかに変えるか、それを差し引いてもあの男と念甲はあまりにも違いすぎ る!」
確かに、両目を瘡蓋(かさぶた)で潰され、頭を剃りあげて醜い傷を晒し、豚のようにぶくぶくと肥え太っていた念甲が、十年前にどんな姿だったのか、慎之介には想像もつかない。しかしあの奥方が自分の夫を殺し、自分を辱めた男を見紛(みまごう)う筈などないはずだ。
「十年……人は変わるものです。醜く生きれば、それなりに醜くなる」
香連がす、と顔をあげて、半眼で慎之介を見た。
「しかしそれにしても……憎き敵(かたき)を他人と見紛(みまご)う筈がない!」
「恨み続けて十年……恨み続ける人の心の中で、その敵(かたき)の面影はますます醜く歪んでいくものです。それは、恨みを抱きながら十年の時を過ごした人の心 が、敵(かたき)の醜さに合わせてどんどん醜く歪んでいくから……憎しみは熱く、人の心は蝋でできた器のようなもの……だからその奥方様の目には、今の蜂屋百十郎が、かつての蜂屋百十郎と同じ人間に映ったのでしょう……敵(かたき)の醜さにあわせて、自身の心も、思い出も醜く歪み……」
さあ、と音を立てて、雨が激しく降り始める。
香蓮の言葉を、慎之介は半分も理解できなかった。
しかし、煮え立っていた頭の中は、その鈴の音のような声と、つめたい雨で冷やされていく。
「……わたしは、敵(かたき)の顔を知らぬ。姉上も知らぬ。然し、八代松右衛門の名を追っている……」
「だから言ったでしょう……あなたは幽霊を追っているのだと」
暫く、慎之介は口を噤(つぐ)んでいた。
どんな強い言葉も、香蓮の躯をするりとすり抜けていく。
「なぜ、わたしの頭を剃った? ……そして、なぜ、念甲を殺した?」
と、香蓮が顔を背けて頬を見せた。
血の気のないその頬が、みるみる朱(あか)く染まっている。
「時がきた、と思ったからです」
「……何の時がきた、と申すのか?」
雨は本降りになっている。慎之介は井戸の脇から、香蓮の座る縁側に一歩足を進めた。
「申し上げましたとおり、わたしがこの寺に来てから二年……あの腥(なまぐさ)に囚われ、辱められ続けてきました……わたしには、もう、ここより他に暮らす場所はありません」
また一歩……早速(さっそく)足元に広まった水溜りの中で歩を進める。
「出ていけばいいではないか? もう念甲はここには居らぬ。死んだ。そなたが殺した」
「……わたしの父は誰か、と先(さっき)お尋ねになりましたね」
気がつけば、降りしきる雨の中、手を伸ばせば香蓮に触れられる距離まで近づいていた。
「……そなたは、誰の娘なのだ?」
慎之介はまた瞼を伏せた香蓮の顔を見る。
長い睫の隙間から、ぽろり、と溶けるように涙がひとしずくこぼれ落ちた。
「わたしは……あなたの敵、八代松右衛門……いまの蜂屋百十郎の、ひとり娘です」
「なんだと?」
香蓮が、潤った目をあげて、靜(しずか)な声で言う。
「わたしは、あなたの敵(かたき)の娘です」
雨はさらに激しくなった。まるで滝の中にいるような気分だ。
目の前の小坊主の格好をした娘が、自らが十年間追い続けた敵、八代松右衛門……そして姉を目の前で辱めた蜂屋百十郎、その娘だと言うのだ。
髪のない頭を滑り、瞼に、睫に雨の雫(しずく)が流れ落ちる。
「……なぜこの寺にいる? そもそも、何故(なにゆえ)この寺に来た?」
自分の声が、妙に落ち着き、低くなっていることに慎之介は気付いた。
「わたしは父の顔を知らずに育ちました。わたしの母は行商をしながら女手ひとつでわたしを十一の歳まで育て、流行り病で亡くなる前に、病の床でわたしに教えてくれたの です……わたしの父が浪人、八代松右衛門であることを。まだ一七にもならなかったわたしの母を誑(たぶらかし、拐(かどわ)かし、手篭(てご)めにし……その結果、母に宿ったのがこのわたしです」
見上げる香蓮の潤んだ目。長い睫に珠のような涙の雫が光っている。
「そなたの母も……あの『手篭め侍』に……」
「母以外に身寄りのないわたしは、ひとり旅に出ました。八代松右衛門……わが父を探す旅に。身一つの十一の小娘が方々を訪ね歩いて旅を続けるには、何が必 要なのかはわかっていました。道行く男たちからお金を乞うのに、どうすればよいか、八代松右衛門の噂を得るために、何を差し出すべきか……お分かりでしょ う?」
香蓮が、きゅっ、と法衣の膝を掴む。
大雨に激しく打ち据えられながら、慎之介の中で、何かが沸々と煮えている。
先程まで、煮えていたのは頭の中だった。
いま、煮えているのは、腹の底の別の何かだ。
「そなたは、何のために父を追った? ……母上の仇(かたき)をとるためか?」
「……慎之介さま。恨みだけが人の謂(おも)いの全てではありません」香蓮の目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。「母を失い、独り法師(ぼっち)になったわ たしは、自分に生を授けた父に、一目会いたかった。どんな男でも構わない。おそらく、八代松右衛門は自分の種がこの世に生を受けたことを知らずに過ごして いる筈……それならば、せめて、自分の血を分けた娘が、この世に生きていることを知らせたかった……」
香蓮が俯きながら、躯を丸め、袖で涙を拭いている。
ひく、ひく、と揺れる小さな肩。見下ろせば、襟元の領(うなじ)が妙に生々しい。
全身を打つ雨が、熱く感じられる。
それまで自分の知らなかった昏(くら)く、底知れぬ心が、水面に落とした墨のように、広がっていく。
泣き崩れる哀れな娘。その憐(あわ)れさが、自分の闇を駆り立てる。
そうか……と慎之介は思った。これが、蜂屋百十郎の気持ちか。
八代松右衛門の気持ちか。
そして、さきほど思うがままに自分を辱めた、念甲の気持ちか。
「そして、そなたは……二年前にこの寺に流れ着いた。この寺に八代松右衛門がいると噂を聞いて……」
慎之介の声はさらに、低くなっていた。
「でも、待ち受けていたのは……あの念甲でした。ほとんど入れ違いに、父は本来の名前を葬り、蜂屋百十郎としてこの寺を出て行ったばかりで……とりあえず、一晩はこの寺で休んでいきなさい、と親切面をしたあの腥(なまぐさ)坊主がわたしに言い……そして……」
慎之介は、ごくりと音を立てて知らずに口の中に溜まっていた唾を飲み下した。