手篭め侍



■第11話 ■ 血煙のあと

 その少年と老婆の助太刀に入った浪人はなかなかの凄腕だった。

 風の強い月夜、沿道の高い草原が、ざあ、と音を立てて戦慄(わなな)く。
 人気のない一本道で、百十郎とその浪人が向かい合っていた。
 さすがの百十郎も、今宵ばかりは最初から刀の柄に指を掛けている。
 たるんだ無精ひげだらけの顔に、今、あの若気(にやけ)た笑みはなかった。

「……拝神武流か……刀を抜かずともわかる。おぬしに相応しい卑しい流派よ」

 完璧な間合いをつめるその名も名乗らぬ浪人。
 草色の着流し。体格は小柄で痩身、多少やつれ、髪には白いもの目立つが、その眼光は鷹(たか)を思わせた。
 その浪人も鞘(さや)をにぎり、鐔(つば)に親指を掛けているが、はばきはまだ覗かせていない。

「そういうおめえは、どこのへっぽこ流だ? ……田舎侍は、口だけが達者だな。そんな婆あとガキに命を掛けてまで肩入れたあ、酔狂なこった」
「あの老婆と少年から聞かされたわ……お主の犬にももとる所業」
 名乗らず、流派も明かさない浪人は、背後の老婆と少年……ともに帯刀している……を庇うように立っている。
「悪(わり)いが、方々で人の恨みを買って廻るのが俺の道楽でよ……その婆あとガキに、見覚えはねえな」
「よくもそんな!」 老婆が声をあげた。「八年前、お前にに討たれた岸田一之介と、そなたに穢(けが)されて谷底に突き落とされた妻、八重のことを、忘れたと申すか!」
「……岸田一之介と八重? 言っちゃあなんだけど……覚えとけ、ってほうが無理なありふれた名前じゃねえか。殺した男も、穢(けが)した女も、谷底に突き落とした奴も。数え切れねえ……いちいち覚えてられるかよ」

 軽口を叩きながらも、百十郎は対する浪人の挙動から目を離さない。

「……噂に違(たが)わぬ犬畜生。お主に明日の夜明けを拝(おが)む資格はないわ。地獄で閻魔にどう申し開くか、準備をしておけ」
 浪人が間合いを詰める……が、詰め過ぎるということはない。
 じり、と百十郎が草鞋(わらじ)を前に滑らせる。
「ふん、おめえも所詮は俺と同じよ……一体、何人、斬ってきた? 犬畜生ってところでは、俺もおめえも団栗(どんぐり)の背比べよ」
「……むかし、お主のような外道の輩を手にかけたことがある……しかし、拙者はそいつを殺さなかった」
 名乗らぬ浪人は一瞬、口元に笑みを浮かべた気がした。
「……へえ、そりゃまたどうして?」
「あの世の地獄も手ぬるい輩だったからよ……拙者はそいつの両の眼(まなこ)を、鋒(きっさき)で抉(えぐ)ってやった」
「ほう?」
 ぴくり、と百十郎の頬が引つった……ように見えた。
 先程の浪人の笑みと同じ、微かな動きだ。
「……生き地獄のほうが相応(ふさわ)しい輩も居る……お主もその手合いのようだな。何(いず)れにせよ、お主に明日の朝日は拝めぬわ」 
「てえした外道だよ、おめえさんも……」

 ほど近いところに楡(にれ)の木があった。
 風に煽られさんざめく葉は闇の中で真っ黒に見える。
 紫乃はその木の枝の上で葉が作る闇に隠れながら、二人の侍の挙動を見守っていた。

(……どうしてもわからぬ……なぜ見えなかったのだろう?)

 百十郎に恥をかかされ、一太刀も浴びせることなく当て身で倒されてから三日。
 紫乃は百十郎をずっと尾け、二〇里ほど旅をしてきた。
 その間、何度も何度も同じことを考えた。
(山の野原であの若武者と奴が斬り合ったとき、実はわたしにも刀筋が見えなかった……)
 弟の慎之介もそうだった。
 その場では慎之介に「だからそなたは駄目なのじゃ」と見栄を切ってみせた紫乃だったが、実は紫乃にも見えてはいなかったのだ。
(有り得ぬ……いくら早業とはいえ、あれは人間業とは思えぬ……)
 くるりと回って相手の懐に飛び込み、切り抜けるのが拝神武流の太刀筋。
 その早業(はやわざ)こそが胆(きも)の剣術だということはわかっているのだが……それにしてもあの男の早業は只事(ただごと)ではない。

 と、何の前触れもなく、名を名乗らぬ浪人が先に動いた。

(あの浪人も……なんという早業!)
 抜く手はほとんど見えなかった。
 ただ、びゅん、と刃が闇を駆け抜ける。
 百十郎はくるりと身を翻すと、猫のように躯を丸め、浪人の腋の下をくぐり抜けた。

 風が止む。

 紫乃は目を凝らした。
 浪人は刀を袈裟懸けに振り下ろした状態で、凝固していた。
 その背後で、百十郎が背を向けている。

(……ど、どっちが……何方が?)
 見たところ、百十郎の刀は、やはり鞘に収まっている。

 それを紫乃が見届けた瞬間、名乗らぬ浪人の身体から滝のような鮮血が吹き出した。
 闇の中、血は漆黒に見える。
 いったい、一人の人間の身体の中にこれほどまでの血が、と思うほど、大量の血が吹き出す。
 ……その飛沫(しぶき)が、騒ぎ出した風に、霧のように煽られていく。
 体中の血を吹き出しても、結局最後まで名を名乗らなかった浪人は手折(たお)れなかった。
 魂を失った鷹のような目線が、百十郎の通り抜けた自らの腋の下を見ていた。
 
「地獄で会おうぜ……そのときに、改めて名前を聞かせてくれよ」

 吹き出す血も収まりかけた頃、百十郎が悠々と振り向いて立ったまま骸となった浪人の背中に声を掛ける。
 あの邪な笑みと若気(にやけ)た笑みが、もう戻っていた。

きええええええええええい!

 奇声をあげて、老婆が太刀を抜き、上段のまま百十郎に走り寄る。
 振り下ろされる刃を軽く交わし、老婆の背中を蹴る百十郎。
 あっけなく老婆は前のめりに手折れた。
 百十郎は草鞋(わらじ)の脚を高く上げると、老婆の首筋あたりを強く踏みつける。

 ぐきり、という鈍い音が、木の枝に身を隠す紫乃にも届いてきた。

 暫(しば)し、風の音だけが響く。
 風に撫ぜられ荒れ狂うのは道端の草むらだけ。老婆はなったく動かなくなった。
 
(……ま、まさに鬼……あの男は紛うことなき鬼畜生!

 木の枝についた葉に身を潜めながら、紫乃はぶるっ、と背筋を震わせた。
 闇夜に目をやるに、老婆の後ろに控えていたまだ年端もいかぬ十一、二歳の少年が、刀の柄を握りながら立ちすくんでいる。
 遠目にも、その少年の膝ががくがくと震えているのが見えた。
 百十郎が、その少年に向かって歩を進める。
 少年は、退(ひ)くことさえできず、その場に根を生やしたようにその場に固まっている。
 もはや、目の前の男に斬捨てられること以外の道を、自ら封じてしまったかのように。
 少年の感じている恐怖は、紫乃にも痛いほど伝わってきた。
 というよりもむしろ、その名も知らぬ少年の恐怖を通じて、紫乃は生まれて初めての生々しい恐怖を感じた。

「坊主、抜けよ……俺は、おめえの親父とお袋の仇(かたき)なんだろ? 俺は、いま、婆(ばば)あの仇にもなったぜ」
「…………よ、寄るな」
 一歩、百十郎が歩を詰めると、少年は三歩下がった。
「よし、じゃあこうしようぜ」
 百十郎は太刀と脇差を、するりと帯から抜き取る……そしてそのまま、がしゃりと音を立てて放り出した。
「な……」少年が震える声で言った「……何を?」
「討てよ。おれは今丸腰だ。一度、てめえみたいな餓鬼に斬られてみてえ……おめえがどこまでやれるか、この躯(からだ)で試してみてえ……うまくいけば、俺を殺(や)れるぜ」

 少年がおぼつかない仕草で、震える手で、刀を抜き、上段に構える。
「……か、か、覚悟……」
 少年の肘は、わなわなと震えていた。刃(やいば)が頭の上でかたかたと音を立てて踊っている。
 あれではとても、人を斬ることなど適(かな)わない……と紫乃が思ったときだった。

お嬢ちゃーーーん? そこに隠れてるんだろ?」

 百十郎は紫乃が身を隠す楡の木に背を向けて立っている。
 しかし、木の上の紫乃はびくりと背筋を凍らせた。

「やべえぜえ……はやくしねえとやべえぜえ……仇(かたき)の仇(かたき)がこの餓鬼に討(と)られちまうぜえ……?」

 紫乃は、木から飛び降りた。

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