大男

〜あるいは、わたしのレイプ妄想が生むメタファー〜



作:西田三郎


■6■ スイミング・プール

 羊女が何かしゃべっている。
 わたしの見る『大男』は抑圧された性のメタファーであって、かつ泳げなかったことを母に咎められ、それを克服しようとする過剰な義務感がわたしを抑圧し……うんぬん。
 ……当時 通っていた塾の先生にわたしが『肩に手を置かれた』ことから類推するに、その先生にむけられていたその頃のわたしの“性的欲求”が抑圧されて幻覚を呼び起 こしたとか……うんぬん。
 もしくはその塾の先生に実際に性的ないたずらをされた事実を、わたしがショックのあまり、無意識のフォルダに綴じ込み、それを 『大男』の幻想に転嫁しているだの……うんぬん。

 仮説、推論、こじつけ、羊女の勝手な妄想……わたしはほとんど、羊女の話を聞いていなかった。
 アザラシ が水に潜るときに鼻の穴を閉じるように、わたしは耳に見えない蓋をして、えんえんとたわごとを並べ続ける羊女の口の動きばかりを見つめていた。
 そして、意識は昨日に飛んでいた。
 あのスポーツジムのシャワー室で、あの『大男』に大学の喫煙所の時以来、4年ぶりに犯された、14時間ほど前に。
 
 わたしはその日、とても疲れていた。
 大嫌いな課長に、またしつこく飲みに行こうと誘われたからだ。それも二人きりで。
 あの太ったみたいに毛深い男。昔は男前だった、という話だ。ええとこのボンボンだ、という噂も聞いた。なんらかのコネで会社に入り、わたしなんか足元 にも及ばないくらい結構有力なコネだったらしいが、昇進は課長どまり。でもまあ、いつもいい服を着ている。でも趣味はよくない。オレンジのストライプのシャ ツ。クールビズだというので、ボタンを上二つ開けていたので、胸毛が見えていた。そして、薄いグレーのパンツ。
 そいつは単身赴任で、わたしの職場にいる。
 期限付きの単身赴任だということなので、その間、できるだけ今の職場の女の子を食いまくっておこう、という魂胆なのだろう。
 実際、何人かの女の子では上 手くいったとか、いかなかったとか。
 まあ、お金あるしね。あとまあ、背は高い。お腹も出てないので、顔を除けば、見てくれは悪くない。
 でも、わたしはそいつのことが大嫌いだった。

「ねえ君……この前も、その前も、“忙しい”って断ったじゃん?……そんなにアフターファイブが忙しいの?……前も言ったけどさあ……ちょっといいスペイン 料理の店があるんだよねえ……ほんと、ほんと、アビージョがおいしいの……ぜひ君と一緒に一度、食べに行きたいんだけど……ねえ、君、彼氏いるんで しょ?……じゃあ今度、彼氏と一緒に行けばいいじゃん……ほんと、気に入るよ……いいお店なんだから……」

 ようするに、わたしに彼氏がいるという前提のうえで、今晩一発どう?……と言っているわけだ。このイノシシ野郎は。
 おぞましい。ああおぞましい。やだや だ。
 彼氏なんていないけど、それでもあんなイノシシとご飯食べるなんて……それで、なんか、そそのかされて無理矢理、強いお酒を飲まされて……フラフラになったところを、ホテルに連れ込まれ て……酔ってうまく抵抗できないのをいいことに服を脱がされて……って、わたし一体何考えているんだろう、と服を脱ぎながら思った。
 場所は社会人になって2年目から通い始めたスポーツジム。
 中・高と水泳部だったわたしにとって、週何回かはこのジムのプールで1キロくらい泳ぐのが、せめてものリフレッシュになっていた。
 時間は結構遅かったので、更衣 室にいるのはわたし一人。いつも、この時間は空いていて、こんな調子だ。
 と、鏡に自分の全裸が映っているのが見えた。
 わたしの身体は引き締まっている。また最近、水泳をはじめてからは特に。
 不思議なことに、大学生の時期にも少し背が伸びて、今は170センチくらい。 おっぱいはそれなり。自慢なのは腰からお尻にかけてのラインと、伸びやかな脚だ。肌は白く、そのせいで鏡の中に浮かび上がっている股間の茂みが、くっきり としていた。
 確かに、エロい感じなのかも知れない……あのイノシシが、しつこく誘ってくるのもわかる。
 ……ってわたし、何バカなことを考えているんだろう。
 濃紺で脇にうすいグレーのラインが入ったの競泳水着を着て、キャップと水中メガネを取り、ロッカーに鍵をかけてプールに向かう。
 入場するときのシャワー で、ちょうど頭が冷えた。

 毎回、目標にしているのは、合計1キロ泳ぐこと。
 300メートルを平泳ぎで泳ぎ、400メートルをクロールで、残り300メートルを背泳ぎで泳いだ。
 プールから上がる頃には身体はぐったりしているけれど、ただ宿便のように蓄積して日に日に増していく会社の疲れを、心地 よい疲れに浄化する、儀式のようなものだった。
 泳いだ後は、クラブの終業時間ぎりぎりまで採温室で身体を温めて、その後にシャワーを浴びることにしている。
 脱いでしまった水着をシャワーの仕切りに添えつけられたフックに掛けて、全身に、熱いお湯を浴びる。
 もう更衣室に人はほとんどいない……いつものことで、わたしはこの静寂が好きだった。
 そして、壁のかなり高い位置に備え付けられたシャワーヘッドのある壁面に腕を伸ばして手をつき、腰を後ろに突き出して、大きく脚を広げ、背中にお湯を浴びる。
 よくアメリカ映 画なんかで、警官に銃を突きつけられた犯人が壁の前で取らされているポーズだ。
 そうして、水泳でたまった心地いい疲れを充分に落として……そのあとに、仕 事で溜まった鈍痛のような疲れも排水口に流していく……最後までうまくいくことは、ほとんどない。
  ……ていうか……わたし、今、ものすごーくエッチなポーズなんじゃないだろうか。
 わたしは自分のきれいな背中には自信がある。
 背中からきゅっと締まった腰のライン、そして、ボリューム控えめのアスリートっぽいかっこいいお尻にも自信 がある。

 こういう姿をしているわたしを見たら、男の人たちはどう思うんだろうか。

 ぞっとする考えだったけど……なぜそのときのわたしに、そんな考えが浮かんだのかもわからない……わたしに対して下心アリアリの、あのいやらしいイノシシ課長とかが。あいつはたぶん、わたしをその『お気に入りのお店』に連れて行き、お酒を飲ませて気分 をよくして、さらに数件バーをはしごして、ラブホテルに連れ込むつもりだったんだろう。
 で、ラブホテルのベッドでわたしの服を剥いで、丸裸にした後、あの手のホテル特有の、珍妙な形の椅子が置いてあったりする、やたら広いお風呂場にわたし を連れ込んで……たぶん、そのホテルのお風呂には、わたしの全身が写るくらいの大きな鏡があったりして……わたしはその鏡の前に立たされ、タイルの壁に手 をつかされて、脚を広げさせられて、お尻を突き出さされて……って、ああもう、わたしはなんておぞましいことを考えてるんだろう。
 全身に鳥肌が立った。
 シャワーのお湯のせいで、身体はかなり熱くなっているはずなのに。
 でも、頭はぼうっとしていた。おぞましい、おぞましすぎる妄想をしているのに、なぜか気分がいやらしく昂ぶっ てきた。
 と、その瞬間。景色が暗くなる。

 シャワーの仕切りの中にあの……あの、獣のような体臭が充満する。

「……えっ……」
 わたしは前を見上げた。
 わたしの背よりずっと高い位置にあるシャワーヘッドのさらに50センチほど上に、野球のグローブくらいある二つの大きな手が張り付いて いる。
 その手から、アーチのように太い腕がそれぞれ一本ずつ生えている。わたしは壁に手をついた姿勢のまま、肩ごしに上を見上げた……はるか彼方、シャ ワー室の天井ぎりぎりのところに、シャワーの湯気に隠された大きな顔がった。
 ぞわっ、とさっきよりはっきりと、全身が泡立つ。
「い、いや…………あっ!」
 一瞬だった。
 壁に張り付いていた男の右手が、ずずずっ、と壁を滑り降りてきて、壁に手をついていたわたしの左右の手首をあっという間に捕らえ てしまった。
 と同時に、腰を掴まれた。
 男の手なら、わたしの胴周りを片手で握ることができるかもしれない。
 その力強い手……馴染み深い、手触りまで使い古し た野球グローブのような手……で両手を壁に押し付けられ、腰を後ろに引き寄せられる。
 まるで猫が伸びをしているような格好に。
「や、やめてっ!」わたしの声が シャワールームの壁に反響する。「……もう、いいかげんんいしてよっ!」
 返事もないし、そんな言葉が何の意味も果たさないことは知っている。
 男の身体が、どしり、とわたしの背中に雪崩のようにのしかかってきた。
「いやあっ!」わたしは叫んだ。「もう、絶対やだっ!!」

 なんとか振り向いて、『大男』を睨みつけ、拒絶の意思を示してやろうとした。
 もうわたしは、あんたなんかに好き勝手におもちゃにされる、小娘なんかじゃないのよ……。
 もうオトナで、大学も卒業してて、ちゃんと働いてて、自分の意思でやりたいことはやる、したくないことはしない、それをちゃんと決められる一個の個人なんだから……今日も あのイノシシ野郎の明け透けな誘いを、自分の意思できっぱりと断って、そうしてここで自分のペースを乱されずにいつものように泳いだんだから……そういう意 思を伝えてやるつもりだった。
 たとえ、最終てきにはこれまでどおりに、組み伏せられて、結局はヤやれちゃうことになったとしても……。
 しかし、肩越しに見上げても……やはり『大男』の顔は見えない。
 それどころか、シャワーの湯気のせいで、男の顔はまるで高い山の頂上のように霞んで、ますます見えにくい。
 何なの、一体。
 
  わたしは恐ろしいことに気づ いた。
 
 『大男』は、これまでに現れたときよりもずっと、さらに大きくなっている……この前、わたしが大学生だった頃にあの真っ暗な喫煙所に現れたときよりも、 ずっと巨大になっている。はじめて現れたとき……わたしが小学生だったときに寝室に現れたときから、その次……高校生のときに公園で現れたとき、大学生の とき、そして今……この男は、現れるたびに、大きくなっている。
 このシャワールームの天井は高い。男はその天井になんとか背をかがめ、わたしを壁に押し付けている。
 ざわっ、と大アリの大群のように、恐怖が襲ってきた。
 そして、そのあとに『大男』は、わたしにこれまでとは比べ物にならない、屈辱を与えた。



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