ノルウェイの鮭
作:西田三郎「第9話」 ■ピクニック
みどりと、緑と、僕の3人で朝食の食卓を囲んでいた。
生まれてこの味わったことのないような、気まずい朝食だった……身から出た錆とはいえ。
みどりはグレーのTシャツにジーンズ。とても機嫌が良さそうで2枚目のパンにとりかかっている。緑は薄緑のワンピース姿で、一言も口を効かずパンを千切っては食べ千切っては食べしていた。それぞれのテーブルの前には、ベーコンエッグ。テーブルの中央には、レタスのサラダ。朝食を作るのは、緑の役目になっているらしい。では昼食や夕食はどうしているのか。夕食は施設の食堂で出るらしいが、みどりが料理を作っているとこなんてとても想像できなかった。「……ああ、今日は、ほんまええ天気やなあ」こともなげに、みどりが言う
「…そやな」そう言って僕はパンを少しずつ食べている小さな緑を盗み見た。少しだけ寝癖のついた、柔らかい短髪。うつむいた目は睫毛が長かった。形のいい鼻、まだどんな色もついていないみずみずしい唇、痩せた躰はいかにも頼りなげで、なるほど彼女がこの施設で暮していることにも納得がいく。
……それにしても……この幼い少女が、常軌を逸したオナニー狂いとは。
神様は残酷なことをするものだ、神様は、自分が作り出した人間たちがより繁栄するために、人間に性欲を与えた。だからいたるところで子供が生まれる。だから人類は滅びない。しかし中には……その性欲に欠陥を持った人間も生まれてくる。たとえば緑がそうだ。
と、人並みに同情しながら、僕はまたよからぬことを想像していた。
昨夜、緑は僕とみどりのセックスを聞いていたのだろうか……取り澄ました緑の顔からは、それは窺い知れない。しかし、みどりの言うとおりであるなら……彼女はコップを壁に当て、僕らのことを盗み聞きしていたのだろう。あの白く、細い手を股間に忍ばせて……緑があやうげな指使いで下着の中をいじっている様を想像した。あの無表情な白い顔がだんだん紅潮し、息が上がり、ついには自分の腰まで使い始めて……少しづつ焦らしながら、それでも頂点を目指してゆく。
プロセスチーズをかじる、緑の唇を凝視した。
いずれはこの娘も、あの口で男の肉棒を頬張るのだろう。……朝から何を考えているのだ、僕は。「なあ、今日は天気もええし、ちょっと丘の方へ行ってみいひん?風が吹いてて、すっごい気持ちええねん。……ホラ、緑ちゃんもギター持ってさ」
「……いいですよ」緑が答える。
「……今日、夕方には帰るけど……」
「うん、それまでには解放したげるから、3人で一緒に行こうや」
これで夕方までの予定が決まった。みどりカーキ色のカーゴパンツと長袖の黒Tシャツに、緑は紺色のフードつきパーカーとジーンズに着替えた。僕は着の身着のままだった。緑は自分の身長と同じくらいありそうな、ギターのハードケースを抱えている。あの、しょうもないおせっかい焼きのおばはんが遺したものだった。
「重そうやな。持とか?」僕は緑に声を掛けた。
「いいです。自分で持ちます」緑は答えた。
「タナベくんはお弁当持ってえな」そういってみどりが僕にランチボックスを手渡す。そこには緑がこしらえたサンドイッチなどがぎっしり詰まっている「あたしはビニールシート持つし」
そんなわけで、まだ正午まで1時間半という時間、僕らは丘へ向かった。道中、いろんな人とすれ違った。みどりと緑は、その全員と挨拶をした。
見るからにおかしそうな人も多かったし、そうではない人も多かった。それにどれが患者でどれが職員なのか、さっぱり区別がつかない。こっちがおかしくなってきそうだった。丘に到着する。広い平原が広がっていて、そこからは山の下の町並みが見下ろせた。確かに、いい感じの風が吹いている……ほかに人もおらず、静かな場所だった。
ど真ん中にシートを弾いて、3人で座り込む。なかなか語るべき話題がみつからない。
意外にも、沈黙を破ったのは緑だった。
「昨夜はすごかったですね」
「……え?」
「なんか、すごく激しかったみたいですね」緑は表情を変えない
「凄かったやろ?聞いてた?」みどりがうれしそうに聞く
僕は黙っていることにした。持ってきたコーラのプルトップを開ける。
「あんまりいやらしかったので、ぜんぜん眠れませんでした」
「……オナニーした?」みどりがそういったので、僕はコーラを吹き出しそうになった。
「……はい、5回しました」
「………そうやないかと思ってたわ」みどりが声を出して笑う。
おかしい、やっぱり、この施設はおかしい。まともな人間の居るところではない。いや、そうでもないのだろうか?僕が知らないだけで、塀の外の女たちも同じような会話をしているのだろうか?もしそうなら、僕の方が塀の中に入らなければならなくなる。
「緑ちゃん、ギター弾いてよ」みどりの提案に、緑は快くそれを受け入れた。
ギターケースを開ける。見覚えのあるギターだった。あの、訳知り顔のおせっかい焼きのおばはんが、頼みもしないのに弾きまくったあのナイロン弦のガットギター。おばはんはバッハがお気に入りだった。たまに、何故かレッドツェッペリンの「天国の階段」やボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」、それとか、泉谷しげるの「春夏秋冬」などを弾いた。もうやめてくれというまで、弾き、歌いまくった。
みどりが自分と同じくらいの大きさのギターを抱えて、音の調整をしてから、ゆっくりと聞き始める。ひどい演奏だった。何の曲なのかぜんぜん判らない。
東洋的な響きもあり、それでいて開放弦のおざなりなリフが目立った。
緑が小さな声で謳い出して、それがようやく、ビートルズの「ノルウェイの森」であることが判った。
そう思って聞くと、そう聞こえないこともなかった。
……どんな歌詞だったかは僕もよく覚えていないが、なにか、森の中に住んでいる女が出てきて、暖炉かなにかが出てきて、……というたいした意味のない歌だ。
聞いていくうちに、それは「ノルウェイの森」ではなく、緑のオリジナル曲のように思えてきた。
「これしか弾けないんです」そういってみどりは弾き終えると、また同じ曲を弾きはじめた。「なあ、これからまた手紙書くけど、ちゃんと読んでな」みどりが言う。
「いつもちゃんと読んでるけど」
「……たまにしか返事くれへんやん」みどりが口を尖らせて言う「タナベくん、筆不精なんやな」
「……いや、これからはちゃんと書くよ」
僕がみどりに返事を書かないのは……つまりみどりから送られてくる手紙が、さっぱり意味不明であることが多いからだ。文章の内容だけではない。書き方も変だった。A4の便箋びっしりに、細かい字が埋め尽くされている。それがすべてちゃんと横書きになっていればまだ読もうという気も起こるものだが、時にはそれが縦書きだったり便箋の縁取りをするようにぐるりと一周していたり、斜めに書かれていたりする。時にはそんな便箋が10枚も届くことがある。さすがにそういうのは、ちゃんと読む気がしない。多分そんな手紙を書くとき、みどりの具合はとても悪くて……必死で何かを僕に訴えようとしているのだろう。しかし、読めないのではどうしようもない。だからみどりには気の毒だが……わけのわからない手紙はいつも、ビリビリに破ってゴミ箱に捨てた。
みどりがいい調子のときは、ふつうの手紙がきた。この施設での生活のことや、僕らの思い出のことや、ときにはムラカミのことも書いてあった。それはちゃんと読んで、返事も出した。「なあ……タナベくん、大学、楽しい?」みどりがあらぬ方向を見て言う。
「………別に」サンドイッチに口をつけながら、僕は答えた。ツナ・サンド。結構いける。
「……大学でさ、タナベくんって、けっこう男前やから、女の子にもてるんとちゃう?」
一瞬ギクリとした。ミドリの顔が浮かんだ。
「……そ、そんなことないよ。僕、暗いし、愛想悪いし。相手してくれる女の子なんか、ひとりもおらへんよ。最近は、男前やとか、ブサイクやとか、そんなんはあんまり関係ないんや。誰とでも調子を合わせられて、笑いがとれる奴がモテるんや」
「……タナベくんの話も、結構面白いけどなあ」みどりが目を細めて僕を見る「……言うても、あたしにとっては、やけど」
「ありがとう」サンドイッチを一気に食ってしまった。
「……なあ、タナベくん」みどりが空を見て言う。濃厚な白い雲がところどころ浮かんだ、真っ青な空「……大学で好きな子ができたら、あたしのことなんか気にせんと、その娘と楽しゅうやったってええねんで」
「……え?」
「……どうせ、あたしはここから出られへんもん。タナベくんは、外で好きなことやったらええねん」
「………」どう答えていいかわからず、僕は黙り込んだ。
「……でも、たまには会いに着てな。そのときは……言わんでもわかると思うけど、新しい彼女は連れて来んといてな……」
僕は黙っていた……次のサンドイッチに手を出すかどうか迷っていた。小さな緑は……繰り返し、繰り返し、へたくそな“ノルウェイの森”を演奏し続けた。
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