詳しいことは知りませんが
作:西田三郎

真夜中のパーティ

 そこから20分ほどして、誰かが部屋に入ってきた。
 あたしはジュースと煙草のせいで、ますます視覚以外の感覚が鋭くなっているのか、ほんの微かな匂いだけで、それがさっきのおじいさんだと判った。それはほんの微かな、ナフタリンの匂いだった。
 おじいさんは無愛想で寡黙だけども、あたしはこの部屋に一緒に居る訳知り顔(が見えたわけじゃないけど)のアンニュイ女にいい加減うんざりしてたから、彼が入ってきてなんかホッとしたね。
 
 おじいさんはあたしの前に立って、言った。
 「お待たせしました、準備が出来ましたのでご案内します」
 手を取られた。
 「まずあなたから」あたしは抵抗無く立ち上がった。「コートはお預かりします」
 コートをおじいさんの声の方に差し出すと、女のけだるい声が腰の左2メートルくらいのところから聞こえた。
 「あはは、がんばってね
 部屋出る前に、舌出してやりたかったね。どうせ向こうも見えないはずなんだからさ。
 わたしはおじさんに手を引かれて、コンクリートの廊下を歩いた。安物のパンプスの踵が、カツーンカツーンと音を立てた。おじいさんは足音を立てなかった
 
 しばらく歩いてドアを潜ると、何か暖かい部屋に出た。
 「着きました」おじいさんが静かに言う「いいですか、お行儀よくお願いしますよ」
 人の気配。それも沢山の人の気配と、そのざわめき。全部、男の声だった。グラスの音や笑い声や皿にフォークを載せる音、ライターで煙草に火をつける音などが聞こえた。まあ、よっぽどの事が無い限り、その場でパーティが催されていることは明らかだったね。それも宴会じゃなくって、あくまでパーティって感じね。あたし、ほら昔、コンパニオンのバイトしてたからさ、おっさん達がやる立食パーティって結構見てきたんだけど、そんなのとは全然違ってたね。ホラ、よくあるじゃん、ホテルの宴会場借り切って、立食パーティ風にしてんのに、ビール瓶とコップ持って人のコップに酒注ぎに廻ったりしてさ、そういう勘違いのビンボー・パーティ。そのへんの居酒屋でやったら?みたいなやつ。ぜぜんぜんそうじゃないの。音で聞く限りは。話し声も静かだし、笑い声も聞こえるけど、どこかひそひそしてんのよね。不気味といえば、不気味だったけど。
 
 その部屋にもまた、床に分厚く絨毯が敷いてある。おじいさんに手を引かれるままに歩くと、まるで、雲の上を歩いているみたいだった。
 人の波の間を歩いて、なんか部屋をぐるぐる廻っているみたいだったな。
 視線をはっきりと感じたね。その場に居る人たちの。
 ぜんせん、心地よい視線じゃなかったけどね。ほんと、“絡みつく視線”っていうの?そんな感じだった。なんか、ねっとりとした粘液のプールの中を歩いてるみたい。でも、下卑た笑いとか、囃し声とかそういうのはぜんぜんないのね。その代わり、あたしが通り過ぎた後で、背後で男達が何かヒソヒソ話したり、クスクス忍び笑いしてたりするのが聞こえるのよね。
 なーんだか、相変わらず頭の中はぼんやりしてたんだけど、気持ち悪くなっちゃってさ、表情が引きつってたのかも知んないね。
 「飲まれますか?」あたしをエスコートしてるおじいさんが聞いた。
 「うん…いや、ええ…」
 ほっそりとしたシャンパングラスを手渡されたよ。飲んでみてびっくりしたよ。それがどれくらい上等なシャンパンなのか知らないけど、これまで飲んできたシャンパンがいかに安物だったかを思い知らされたね。香も味も泡の感触も、あたしの舌や口のなかをやさしく溶かしちゃうみたいで。多分、それには何の混ぜものもしてなかったんだろうね。自分でも浅ましいと思うけど、あっという間に飲んじゃうと、おじいさんは空になったシャンパングラスをあたしから受け取って、また新しいシャンパングラスを手渡した。
 
 くすくす笑いと囁きの中を、多分何周もしたんだろうね。
 ほんとうにいじましいけど、4杯くらい飲んじゃったよ。ダメだね、そんな下品なことしてちゃ。でも、それで少し酔ったのと、最初に飲まされたジュースの混ぜモノと、ご禁制の煙草と、足の裏に優しく伝わってくるふわふわの絨毯の感触のせいで、さらに現実感時間感覚が無くなっちゃってさ、ほんと、ヘンな気分だったな。
 
 いつの間に始まったのかしらないけど、同じ部屋で、バンドの生演奏が始まっていた。なんだか暗い、暗い、くらああい感じのジャズだったな。ベースの音がとても低くて、ピアノの音もぜんぜん自己主張がなかった。ドラムは囁くみたいでさ。あんな陰気な曲はこれまで聴いたことがなかったな。同じリフレインが何度も何度も続いて、ますますあたしは時間の感覚が無くしたよ。
 
 いつの間に始まったのかわからない音楽が終わっても、拍手はなかった。
 ヒソヒソ、クスクスと、同じ部屋に居る男たちは囁き合うだけ。バンドもやりがいがないだろうって思ったね。でも誰かがマイクの前に立つ音がすると、会場からヒソヒソ、クスクスが消え、あたりがしんと静まり返った。エスコートのおじいさんが立ち止まったので、あたしも立ち止まった。
 
 静かな男の声がした。
 
 「メリークリスマス(数名からメリークリスマスと返事)。…………本日は皆様、暮れののお忙しい中ご来場いただき、誠にありがとうございます。さて、今夜はクリスマス。…………恒例のこの日を愉しみに待つことで、これまでの1年を過ごされた方も多いのではないでしょうか(一部でクスクス笑い)。…………みなさんにもわたくしにも人生はたったの一度。…………陽の当たる世界だけしか知らぬ人々の人生と、陽の当たらないこの世界を知る皆様とわたくしの人生との間には、動物と人間を分かつほどの(一部でクスクス笑い)断絶が存在することは言うまでもありません。……………………知らぬことは即ち不幸なことではありますが、ある意味この世界を知らぬ彼らは、皆様よりははるかに幸運であるとも言えます。…………何故なら、その誠実ではあるが退屈な人生を送るうえで、まるで自分たちの知らぬ世界……………理想と現実が美しく調和する世界、そしてほんとうに自分が求めるものを得ることができる世界がどこかにある、そしていつの日か、自分はそれに辿り着くはずだ…という儚いけれども幸せな夢を見ることができるからです。…………この世界を知る皆様は、もはやそんなささやかな夢を見ることはできないでしょう?(一部でクスクス笑い・拍手)。…………それを知る我々は、それ以上の夢を見ることができないという点において、陽の当たる世界に住む友人達よりは不運なのです。彼らはその人生を終えた後、このような世界を知らずに済ませた誠実で退屈な人生を評価され、天国への入国を許可されるでしょう。…………そしてそこで、自分の理想の世界を得るのです。人生を思うさま愉しみ尽くした我々に、恐らく天国への入国は許可されないでしょう(一部でクスクス笑い)。しかしわたしは個人的に…天国のようなところに、今わたしたち共有しているような愉しみが用意されているとはとても思えません…(一部でクスクス笑い)……………………そして地獄へ堕とされた我々は気付くのではないでしょうか。……………………天国よりも地獄のほうが我々にとって、魅力的な世界であるということを。…………そして我々にとっての地獄は、まさに理想の世界であることを…(一部でクスクス笑い・拍手)」
 
 …とかなんだかそんなことを男はしゃべってた。あんまりいい感じはしなかったな。さっき待合室に居た女みたいに、わけのわからないことで訳知り顔をして人を見下すような傲慢さが、言葉の端々に表れてたね。わたしはイヤーな気分になった。けど、まあ50万円だからね。それを思うと我慢できないほどじゃない。
 
 男が続けた。
 「それでは皆様、上映の準備が出来ましたので、隣の劇場に移動していただけますでしょうか」
 
 …そういえばあの鼻持ちならない女が、映画を観るとか言ってたな、とあたしは思い出した。
 

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