監禁の追憶
作:西田三郎「第5話」 ■犯人の遺書より
ろくでもない人生だったが、何でも“終わりよければ全てよし”と言うじゃないか。
おれはちっとも後悔していない。
そりゃ、思い残したこともあるさ。いい車にも乗りたかったし、フォアグラも食べてみたかった。長谷川京子にも会って見たかったし、一度でいいからヨーロッパも旅行したかった。まあ、それらはすべて諦めるとしよう。
誰だって自分の人生の中で、やりたいことを全てやりつくして死んでいくわけではない。
比奈子とは、3日前、駅前の噴水広場で出会った。
広場にはたくさんの人が居たが、比奈子が腰掛けている噴水の縁のあたりだけが……嘘じゃない…ほかより少し明るくなっているようにさえ見えた。比奈子は実際の年齢よりずっと大人っぽかった。下手をすると高校生くらいには見えたかも知れない。美少女なんていう言葉で表現しては陳腐になるくらい、比奈子は美しく、儚げだった。比奈子は薄いブルーのTシャツを来て、ジーンズに包まれた長い脚をぶらぶらさせていた。
とにかく、近日中に死ぬことに決めていたおれは迷わなかった。
無視されれば無視されたで、一向に構わない。おれは比奈子に歩み寄り声を掛けた。
「やあ」
比奈子がゆっくり顔を上げておれを見上げる。とても大きな目で、黒目部分は大きいが、その色はまるで猫目石のように薄かった。表情には何の感情も表れては居ない。微笑むわけでもないし、嫌悪を露わにするわけでもない。そして返事もしなかった。
「隣に座って……いいかな」おれは注意深く言葉を選んで話すことに決めた。
「どうぞ」まったく平坦な声で比奈子が答える。
「……こんなとこで、何してんの?誰か待ってるの?」焦りが声に表れないように注意した。「これからデートかなにか?」
「……別に」比奈子の長い髪に隠れて、比奈子の横顔は見えない。そこからわずかに覗いた形のいい鼻と口だけが、ぼそぼそと言葉を発した。
「きみ、いくつ?」
「あんた、補導員?」比奈子の声には敵意も怖れもなかった。
「違うよ。あんまり君が可愛いから、声掛けてみただけさ」ちょっと軽すぎただろうか……?おれは固唾を呑んだ「……えっと……迷惑かな」
「ううん………あ、可愛いって言ってくれてありがとう」またも比奈子が平坦に答える。
「……高校生?」
「ううん」
「……じゃあ中学生?」
「ううん」
「……えっ………まさか……小学生?」
「うん」
これには驚いた。世の中、何かが少しずつおかしくなってきているのは感じていたけど、この子がまだ小学生だというのもそのうちのひとつの事象だろうか。
「結構遅い時間だけど……ずっとここで座ってるの?」おれは聞いた。
「さあ……飽きたらほかに移るけど」
「………ひょっとして、家出?」
「………ってほどでもないけど………」
しばらく沈黙が続いた。
「……よかったら………ほんとによかったらなんだけど……」おれは意を決して唾を飲み込んだ「……おれの家に来ない?……どっかでご飯食べてからさ」
はじめて比奈子は、おれのほうに顔を向けた。相変わらず表情には、感情は少しも表れていない。
「……それってつまり……あれ?わたしとなんか、やらしいことしようってこと?」
「え……」おれは戸惑った。“つまるところ”そういうことではあるが……。いきなり急所に切り込まれたみたいで、おれはかなり動揺してしまった。「……ううん……って訳でもないけど」
「……ご飯、食べさせてくれるんでしょ?……別にいいけど」
「ああ………ええと………その、やらしいことに関しては、その……おれ、あれだから、できないんだ………わかる?」
「……あれって何?わかんないんだけど」
「……つまり、その、EDなんだよ。わかるかな」
「……ああ……」比奈子は薄く笑った。おれはその場で死んでもいいと思った「インポ……テンツね。知ってるよ。学校で習った」
おれは笑った。比奈子も笑った。おれたちは立ち上がると、近所にある値段はさして貼らないが旨いと評判の小さな洋食屋に入った。
おれはステーキを食べて、比奈子はビーフシチューを食べた。あまり会話はしなかったけども、人生の最後を飾るにはこれ以上ないというくらい相応しい夕食だったと思う。
食事を済ませると、マンションに帰り、その晩はアイスクリームを食べて、二人で手を繋いで眠った。
人と手を繋いで眠るのは、それが初めてだった。
二日目、おれは比奈子と街に出かけた。
比奈子に服を買ってやるつもりだった。比奈子は出会ったときと同じような、薄いブルーのTシャツと、リーバイスのブーツカットのジーンズを選んだ。たいして値は張らなかった。
「なんで同じような服を選ぶの?」とおれが聞くと、
「同じ格好をするのが好きだから」と比奈子は答えて、少し背伸びしておれに耳打ちした「……だからさ、今来てる服、どうしちゃってもいいよ。あそこが勃たなくても、いやらしいことはできるでしょ?」
おれは目眩がした。夢でも見ているのかと思った。
おれたちはいそいそとマンションに帰り、カッターナイフを遣って比奈子の服をずたずたにした。
おれの亢奮ぶりは恐らく正気の沙汰ではなかっただろうが、比奈子もすごく亢奮していた。おれはクリスマスプレゼントのように開かれた比奈子の白い裸身を、ひたすらなで回し続けた。ひととおりそれで満足すると、新しく買った服をまた比奈子に着せた。脚の長い比奈子に、ブーツカットのジーンズはとてもよく似合っていた。
「ねえ、カッターで脅して、目の前で全部脱げって言ってみてよ」比奈子が言った。
素晴らしい提案なので、おれはそうした。
その晩は、特上のうな重を出前で注文して、二人で食べ、またアイスクリームを食べて、手を繋いで寝た。
で、今朝だ。
おれはかなり悩んだが、比奈子に頼んでみることにした。
「あのさ……その、イヤだったらいいんだけど………手と脚、縛っていいかな」
「いいよ」比奈子はトーストを囓りながら言った「でも、痛いのはやだよ」
「……うん……判ってる……あと、君の躰にこれ塗っていいかな」そう言っておれはジョンソン&ジョンソンのベビーオイルを比奈子に見せた
「あー……これ懐かしい……」比奈子が言った「こんなの塗って、亢奮するんだ?」
「……あ……うん、まあ………」おれは言葉を濁した。
「インポってたいへんね。いろいろ工夫しなきゃなんないんだから」比奈子に“インポ”と呼ばれることに、おれは少し倒錯的な悦びを感じていた「……あと、なんかしたいことある?」
「………その………鏡の前でしてもいいかな………?」
「えー………」さすがに比奈子は顔をしかめた「………それ、ちょっと恥ずかしいなあ……」
「頼むよ。後生だから」おれは手を合わせ、比奈子に深く頭を下げた「なんでも欲しいもの買ってあげるからさ」
「………いいよ、欲しいもんなんてないから」比奈子が言った「判った、しようよ。鏡の前で」
「いいんだね?」バカみたいに声が上擦っていることに気づいた
「うん……ほかには?」比奈子が牛乳を飲みながら言う「なんでもさせたげるよ。痛いこと以外は」
「……じゃあ……目かくしとかもいいかな」
「あんたが目かくしすんの?」
「……違う、君にするんだよ」
「へえ………そんなんで亢奮するんだ………いろいろ勉強になるなあ」比奈子はそういって、また話笑った「いいよ、目かくしも」
神様は信じていないが、最後の最後でこのような幸運に巡り会えたことに関しては、何かふしぎな運命を感じざるを得ない。おれは比奈子にやりたいことのすべてをやった。もちろん、インポテンツが治るまでの奇跡は起きなかった訳だが。
今はもう夕方で、比奈子はさすがに疲れたのか、ベッドで眠っている。
おれはキッチンテーブルでこれを書きながら、既に大型の裁ち切りバサミを傍らに置いている。ほかにもっと、楽な死に方があるだろう、と自分でも思う。しかし、おれの頭からは、このハサミで自分の喉を突き刺すことのイメージが離れない……これは、おれの子どもの頃からの幻想だった。おれが死ぬときは、必ずハサミで喉を突き刺して死ぬんだ……何故だかおれは、その衝動から逃れることができなかった。
このハサミは、大阪の堺の名工が作った高級品である。
おれの人生の最後を飾るに、ふさわしい……というかもったいないくらいの逸品だ。
さて、比奈子が起きてくるまでに、筆を置こうと思う。
筆を置いたその手で、ハサミを取り上げ、床に仰向けに寝る。
そして上から、喉仏を一気に突き刺す。そして、おれは死ぬ。
いい人生だった。母さん、悪いけど先に逝くよ。姉さん、甥の顔も見に行かずに悪かった。
それから父さん……おれは今でもあんたを憎んでいる。
なんで憎んでいるかは、あんたが一番知ってるはずだ。
じゃあ、ほんとうにさようなら。おれは、おれの人生を生きた。
最後に比奈子へ。どうもありがとう。
重里悟より。
<つづく>
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