監禁の追憶
作:西田三郎「第6話」 ■比奈子、本人より
目を覚ますと、どこかで水漏れがしているような音がした。
わたしは一瞬、寝ぼけて自分の部屋で目覚めたのかと思った。そして、ここがあの男の部屋であることを思い出した。水漏れのような音はおさまらず、ヒューヒューというへんな音も聞こえてくる。
あたしはパンツにTシャツだけの格好でベッドから降りると、音のするほうに歩いていった。
キッチンに入ると、何かで脚を滑らして倒れた。
床を濡らしていたものが血であることを知ったとき、さすがにわたしも悲鳴を上げそうになった。
辺り一面が血の海だった。
血の臭いは、さびた鉄の匂いに似ていた。転んだあたしのTシャツや髪にも、べったりと血がついた。
ふと見ると、ダイニングの床に重里が仰向けに倒れていた。
重里の喉仏からはハサミが突き出ていて、その柄はしっかり彼の手で握られていた。天井からもぽたぽたと血が落ちている。天井を見上げると、重里の喉のちょうど上あたりに血しぶきがべったりとついていた。
たぶん重里の喉から、噴水みたいに血が吹き上げたのだろう。
わたしはかなりのショックを受けていたけど、なぜか頭だけは妙に冴えていた。
ヒューヒューいう音は、重里の口から漏れていた。
なんと、重里は生きていたのだ。重里の目はかっと見開かれ、天井を見ていた。
口からは血の泡がぶくぶくと吹き出している。
わたしは重里に駆け寄って、頭のあたりにしゃがんだ。そして、ハサミの柄を握っている重里の手を取った。ほんとうにそれが正しい処置かどうかわからないけど、ハサミを引き抜いてやろうと思ったのだ。すると重里は、かすかに首を振った。“抜くな”という意味らしい。
「救急車呼ぼうか?」わたしは言った。それにも重里は首を振った。
重里は見開いた目で、わたしをじっと見ていた。いつのまにか恐怖感や嫌悪感はどこかへ言っていた。
わたしは吸い込まれるように、死につつある男の目を見ていた。
「どうしてほしいの?」わたしは重里に囁いた。重里は一回、目を閉じてまた開いた。
「苦しい?」わたしは重里に言った。また重里が一回目を閉じる。
「…………楽にしてほしい?」
どうしてわたしの口からそんな言葉がでてきかのかはわからない。
でも重里は、また一回目を閉じた。
わたしは立ち上がると、しっかりとハサミを握っている重里の手の上に右足の親指を置いた。
「……これでいい?」
重里はまた一回目を閉じた。
わたしはそのまま、足に体重を掛けた。
ずぶっ、とハサミが深く沈んだ。
ぴゅぴゅっと新たな血が吹き出て、あたしの脚にかかった。
多分、それが重里の最後の血液だったんだろうと思う。
「おごご………」重里がそんな風な声を出した。
そして、ヒューヒュー言う音が止んで、部屋は静かになった。新たに飛び出した血が、床に流れていった。
わたしはしばらく重里の手の上に足を置いたまま、じっとしていた。
どれくらいそうしていたのかは、よくわからない。
やがて、いたるところ血の海になった部屋を見回し、テーブルの上に便箋が数枚乗っているを見た。
あたしは血塗れのままテーブルについて、汚い字で書かれた重里の遺書を読んだ。
どんな気分だったかって……?
不思議となにも感じなかった。
ほとんどは、あたしと重里が経験したことだった。
重里はなぜかお父さんを憎んでいるらしかったが……別にその理由を知りたいとも思わなかった。
あたしは遺書を手に寝室に戻り、脱ぎ散らかしていたジーンズを履いた。
そして便箋を5つ折りくらいに細かく折って、お尻のポケットに入れた。
そしてそのまま部屋を飛び出して、マンションから一番近いクリーニング屋に飛び込んだ。
遺書は誰にも見せていない。
それは今、わたしの勉強机の引き出しの奧にしまわれている。
多分、これからも誰かに見せることはないだろう。
これからも、今まで生きてきたよりもずっと長い人生が待っているはずだ。
こんな経験をすることは、多分もう二度とないだろうな、と思う。
だから、わたしはその後の人生のために、秘密をひとつ作った。
秘密のある人生って、なんとなく素敵じゃないか。時々は、机の中から重里の遺書を引っぱり出して、読むことがある。
古いアルバムを見るような気分で。
そして、ほんの少し笑みを浮かべる。
わたしは、誰ももっていないものをひとつ持っている。
そのことを思うと、なぜか頬が弛んでしまうのだ。(了)
2005.6.15
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