監禁の追憶
作:西田三郎

「第2話」

父より

 うそではない。わたしは1ヶ月前まで、酒を飲まなかった。
 無理に薦められれば口にしないでもないが、酒の味を味わったり、酒に酔うということを楽しみにするような感覚が、わたしにはなかった。だから家でテレビで野球観戦をしながら缶ビールを飲むような風習は、わたしにはなかった。これからもそれはないだろう。あの事件以来、うちでは一切テレビを点けていない。
 ただ、わたしが家に居るとき……わたしの手の中には必ずウイスキーを満たしたグラスがある。
 
 娘の比奈子が警察に保護されて以来、わたしたち家族の生活はすっかり変わってしまった。
 会社の上司も同僚も、わたしを過剰に気遣い、まるで腫れ物にでも触るように接するようになった。
 しかし彼らのそんな態度の裏には、世間とさして変わらぬ恥知らずな好奇心が渦巻いているのだ。
 わたしはそれを肌で感じる……そのむず痒さに、会社に居るときはひたすら退社時間を待ちわびるだけだ。一刻も早く家に帰って、自分の部屋に引きこもり、ウイスキーを口にしたい。それだけがわたしの毎日の望みである。
 
 そんなわたしの態度が現実逃避であることは自分でもよく理解している。
 しかし飲まずにはおれないのだ……このやり場のない怒りと、苦しみから自分の正気を守るためには。まったく……この手で復讐を果たせるなら、どんなに素晴らしいだろうか。この手であの人間の姿をした怪物を、絞め殺し、引き裂くことができたらどんなに嬉しいだろうか。
 しかし、あの男……重里は、もうこの世には居ない。
 
 警察から聞いた話である。
 
 比奈子が命からがら、あの男のマンションから逃げだし、近くのクリーニング店に逃げ込んだ時、娘の衣服は血まみれの状態だった。店番をしていた40過ぎの女性は、それこそ肝を潰したことだろう。女性はすぐ警察に通報した。比奈子はショックと恐怖のあまり、しばらく口も利けないような状態だったが、警察が到着して40分後、ようやく自分の名前と、自分が重里という男によって、近くのマンションの一室に、3日間に渡って監禁されていた事実を話した。

 警察はすぐさま、比奈子の供述に基づいてそのクリーニング店から歩いて5分のところにある重里のマンションの一室に踏み込んだ。
 2LDKの部屋は血まみれだったという。
 床についた小さな血の足跡が、比奈子のものであることは明かだった。
 クリーニング店に駆け込んだとき、比奈子は裸足だったのだ。
 リビングルームに、その男、重里は仰向けに倒れていた。

 重里は年齢34歳。身長180センチ、体重95キロの巨漢であった。
 この忌まわしい事件犯すほんの3週間前までは、大手のソフト開発会社でプログラマとして働いていたらしく、ひとりでこの部屋に暮らしていたという……。発見された時、重里はすでに死亡していた。喉に大きな裁縫バサミが、根元まで突き刺さっていた。その両手が挟みの柄をしっかりと握っていたから、重里が自らの手でそれを喉に突き立てたことは誰の目にも明かだった。聞くところによれば発見後、重里の遺体を回収した消防隊員は、奴の手があまりにもしっかりとハサミの柄を握りしめていたため、その手を取り外すのに苦労したという。
 人間が刃渡り20センチ以上あるハサミを自らの喉に突き刺すとどうなるか?……事実、重里の喉からは多量の血が噴き出し、仰向けに寝ころんだ彼の死体の丁度上にあたる天井には、激しい勢いで血が吹き上げた跡があったらしい。床はそれこそ一面血の海だった。
 そこに無数の小さな足跡が……パニックに陥った比奈子の足跡がついていたという。
 
 死の直前、重里は苦しんだだろうか……?死んでしまった重里から、そのことを聞くことはできない。
 しかしわたしは、重里が地獄の痛みと苦しみを味わいながら、死んでいったことを願わすにはおれない。
 そうしないと、比奈子が味わった苦痛や……そしてわたしや妻が、そして何より比奈子本人がいまも味わっている苦しみと釣り合いがとれないではないか。
 
 奇跡でも起きない限り、重里をもう一度蘇らせて、たっぷりと拷問を加えながら殺すことなどできない。

 復讐は何も生まない、と賢い人々は言うだろう。
 わたしが復讐したからとて、直接の被害者である比奈子の心の傷は癒えない、と言う人も居るかもしれない。
 
 そんなことは分かり切っている。
 
 分かり切ってもいるし、そうした意見は正論なのだろう。
 しかし、わたしが今味わっている、この気も違わんばかりの怒りは、どこに片づければいいのか?

 復讐は何も生まない。
 そしてそれから比奈子の傷は癒えない。
 その通だろう。
 しかし、わたしは決して果たせぬ復讐への思いを断ち切ることはできない。それとこれとは話はべつだ
 それでも正論を説くなら、一度想像してみてほしい。
 まだ12歳の娘の躰を3日間もの間おもちゃにし、弄んだ男に対して、復讐を果たせない男親の気持ちを。
 
 ただでさえ男親は娘の性的な成長を認めたくはないものだ。

 男親なら誰でも、娘たちが色気づき、自分以外の異性を明らかに意識しはじめるときに言いようのない不安と苛立ちを覚える。わたしより大きな娘を持った上司や同僚達の言葉を耳にしながら、わたし自身はまだそのような悩みとは、遠いところにいると考えていた。わたしにとって比奈子はいつまでも、泣き虫で妻に叱られればすぐわたしに甘えかかってくる、あの小さく可愛い比奈子なのだ。
 
 しかし、比奈子がわたしと一緒にお風呂に入ってくれなくなったのはいつ頃だったろうか。
 確か、8歳を過ぎたか過ぎないか、そのあたりだった。それが早いのか遅いのかはよくわからない。ある日、何気なく比奈子に声を掛けた。

 「比奈ちゃん、一緒にお風呂に入ろうか」
 「……お父さんのエッチ

 その年頃の少女らしい、おしゃまさを発揮しはじめた比奈子を微笑ましく思いながら、同時に言いしれぬ寂しさも感じたものだ。恐らく、男の子を持つ父親は、子どもの成長をやさしく見守りながら、それに誇らしさを覚えていくのだろう。女の子を持つ父親は違う。ひたすらに寂しくなっていく一方なのだ。娘はますます美しく成長していった。わたしではなく、妻に似たのが良かった。身長はみるみるうちに伸びていき、髪型や服装にもますます気を遣うようになってくる……仕方のないことだ。そして娘は、男親のもとからどんどん離れていく……。
 
 しかし、わたしはここで大変苦しい思いを抱きながら、ある事実を告白せねばならない。
 
 理屈ではわかっていたのだが……わたしは比奈子の成長を見守りながら、娘を一人の女として見ることはできなかった。そのことを思い知らされたのが、あのおぞましい事件なのだ。
 

 比奈子は無傷で帰ってきた……心に負った傷を別にしては。

 以来、わたしはまともに比奈子の姿を見ることができない。
 唾棄すべき父親だと誹られることはわかっているが……あの事件以来、比奈子の女らしさばかりが目につくようになってしまった。
 
 微かながらもTシャツの胸を持ち上げる脂肪、短いシャツの裾から除く臍、ぴったりしたジーンズに包まれた尻、髪を掻き上げたときのうなじ、時々ぽかんと口を開けてぼんやりしている仕草、そして、どことなく遠くを見ているようなあの色の薄い目。

 断じてわたしは娘に欲情しているわけではない。
 欲情しているわけではないのだが、重里が娘にいだいた劣情を理解することはできる。いや、することはできる……なんていう生やさしいものではない。理解せずにおれないのだ
 
 一体あの3日間、重里は比奈子をどのように扱い、どのように玩弄したのだろうか。
 
 決して想像してはいけないことだった。想像すべきことではないことはわかっていた。
 しかしわたしにも、そしてあの重里にも存在する男性としての共通点が、わたしの頭に次々といかがわしいことを妄想させる。
 
 何故なのか? 
 
 認めたくはないが、それは悔しいからなのだ。
 今はもうこの世には居ない重里は、わたしの知らない比奈子の姿を知っている。
 そして、永遠に知ることのない比奈子の姿を。
 
 それは多分、年頃の娘に、彼氏を紹介された男親の気持ちに近いものなのだろうか……?
 
 いや、違う。断じて違う。
 重里は凶悪な性犯罪者であり、比奈子はその被害者なのだ。娘に彼氏を紹介された父親の気持ちなどとはまったく違うものだ……理性はその考えを必死で否定する……しかし無意識はわたしの耳にこう囁きかける……。
 
 “おまえは娘を知らない男にとられて悔しいのだろう……?……それならばいっそのこと、自分が先に娘に手を掛けるべきだったと、そう思っているのだろう……?

 その囁きから逃れるため、わたしはまた新たにグラスにウイスキーを注ぎ、一気に飲み干す。
 心の平穏はやってこず、無意識の囁きは収まらない。
 

<つづく>

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