インベーダー・フロム・過去
作:西田三郎

「第7話」

■ 抵抗(しかし、ささやかな)

 電車で会おう、と男は言っている。会いたくない。しかし会社には行かねばならない。どうする?
 
 対応その1…いつもとは違う車両に乗る。
 対応その2…携帯の電源は切っておく。
 対応その3…イメチェンする(いつものわたしに見えないようにする)。
 対応その4…いつもより周りの人に注意を払う。
 
 とにかくわたしはこの4つの対応を、全て実行することにした。
 いつもはあんまり履かないベージュのストレッチ・パンツに、黒いサマーセーター。髪はアップにして、後ろで束ねた。念には念を入れて、グリーンのセルロイド・フレームのだて眼鏡(なんでそんなものを買ったのかは忘れた)まで掛けた。鏡を見ると、確かに違う人に見える。それになんだか、少し若返ったような気がした。
 ああ、とわたしは思った。
 多分、会社に着いたら、同僚たちにイメチェンの理由を聞かれるんだろうなあ。誰がどうイメチェンしようと人の勝手でしょ。しょうもない事に何でも理由を求めてくる、退屈でつまらない奴ら。うざったいけども、そういう人々に囲まれてわたしも公一も生きている。
 
 わたしには、友達がいない。
 
 何で気持ちの悪いストーカーみたいな奴のためにここまでしなくちゃなんないの、とも思った。
 しかし反面…すっかり印象を変えた自分を鏡で見るのは、けっこう面白かった。わたしは鏡に向かって、笑顔を浮かべた。ふくれっ面をしてみた。鏡を指さしてウインクしてみた…いけない、いけない。会社に遅刻してしまう。何だかゲームでもしているような気分だった。追いかけるのがあの“夢の中の男”で、逃げるのはわたし。何故か、命に関わるような一大事とは思えなかった。ひょっとするとわたしもこのゲームを楽しんでいるのかも知れない。…いけない。また余計なことを考えている。
 
 駅に着いた。いつもどおりの人混み。
 しかしその中に居るわたしは、いつもどおりじゃない。
 わたしは人混みのなかで、大きな不安を感じながら、すこしそれに痺れていた。
 不安に痺れるなんて、生まれて初めてのことだ。
 いつもは全然耳に入ってこない、道行く人々の足音や人いきれが、すべて鮮明に耳に入ってきて、頭の中が瞬く間に一杯になる。自分の頭の容量の少なさに苦笑した。
 しかしこんなに意識が鮮明になったように感じるのはいつ以来だろう。
 それはもう随分前になる。遡るなら、大学に入学して、お酒を飲み始めるより以前くらいまで。
 昨日から、自分の過去を振り返ることが多くなったように思う…この状況だし、仕方がないといえば仕方がないのだが、それにしても奇妙だ。過ぎ去った日のことを反省していてはキリがないし、過ぎ去った日々があるから、わたしも今こうしてここに居るのは判っているのだけど。
 
 そわそわしながら電車を待った…と、後から耳元で囁く声がした。
 「おはよう…」
 「」はっとして振り返ろうとする。何が“いつもより周りの人に注意を払う”だ。真後ろに男が居る
 「振り返るな!!」男は顰めた声でぴしゃりと言った。
 「……な…」振り返るな、と言われて振り返らないわけにはいかない。また振り返ろうとした。
 と、左のほっぺたを待ち受けていた男の人差し指がつっかえ棒する。よく子どもがやる、あの悪戯である。
 「…だから振り返るなって…」男がまた耳元で囁く。男の顔は見えない
 わたしははっきり言って恐怖よりもむしろ怒りを感じた。
 また振り返ろうとしたが、今度は男が背中に密着してきた。
 「…お…おおきな声……出しますよ」わたしは顔の見えない男に呟いた。
 「出せば?別にいいけど。おれは」
 ホームに電車が入ってきた。何故だかわたしは身動きができない。喉がカラカラになってきた。
 「…ほうら電車が入ってくる。ぼくらの電車、ふたりの電車♪」男が調子外れでデタラメな歌を歌う。
 「…」
 ドアが開いて、破裂するように人がホームに流れ出す。
 男はわたしの背後にぴったりくっついたまま。わたしは身動きができないまま。
 「さ、乗ろう」男に背中を押された。
 「もう、お願いだから……あっ」男に背中を押された。
 男に背中を押されるままに電車に飲み込まれる。さらに後から乗り込んでくる勤め人たちの雪崩。わたしはこの駅では降りない人々と、わたしと男を含む、この駅から乗車する人々の層の間に、ぎゅう、と押し込められた。
 考えたら、このとき、何故逃げなかったんだろう?それは自分でもわからない。
 電車が動き始めた。男の熱い息をうなじに感じた。
 「今日はなんか、いつもと感じが違うね」男が囁く。
 「…あんたに、関係ないでしょ……んっ」男の手が、ストレッチパンツの薄い布越しにお尻の肉を掴んだ。そして荒々しく揉み込む…昨日するよりもずっと…公一がするのよりももっとずっと。
 「なに着ても似合うよ、伊佐美ちゃん。この髪型も、そのへんな眼鏡も」男はもっとわたしの耳に口を近づけてくる「おれが気づかないとでも思ったの?…それともおれの為のイメチェン?」
 「…やめてよ、変態」あたしは言った。信じられないほど小さな声で。
 「変態かあ…そうだな」男の舌が、ちょん、と耳たぶに触れる「でも、奥さんがその変態にされたこと聞かされて、ダンナさん亢奮してたじゃん。そうでしょ?」
 「…な…」お尻にまとわりつく男の手を振りほどこうとしながら、わたしは言う「…なんで知ってんのよ、そんな事」
 「おれはなんでも知ってるの。伊佐美ちゃんのことは…だって…」男は左手でわたしの胸をセーターの上から握った。「こんなに好きなんだもん、伊佐美ちゃんのこと」
 「…やっ…んっ…」激しく、乱暴に揉まれる。「…やめて…ほんとに、大声出すわよ」
 「…いいよ。出せば?おれは何も失うものなんか…なにもないから」男はセーターとブラジャー越しに、わたしの乳首を探し出して、強くつねった。
 「…やんっ…」痛くて、声を出した。と、今度は右胸も同様にされた。
 「おれはね、伊佐美ちゃんの夢の中にしか居ないんだ。この世には居ないのと同じ。伊佐美ちゃんがおれのことを夢に見てくれたり、こうやっておれがすることに反応してくれたりすることだけが、おれの存在を証明するの。判る?」
 「なに…わけ分かんないこと…言ってんのよ……んんっ…!」
 後ろからセーターに侵入した男の手が、実に器用に…感心してる場合ではないのだが…ブラのホックを外した。胸が締め付けから解放されて、たぷん、と揺れるのが判った。
 「…やっ…ちょっと…やめ……あっ……!」
 左手で男があたしのストレッチパンツの前ボタンを外した…どこまでも器用なやつ。あっという間に、チャックが降ろされる。さらに男は、そのままパンツを降ろそうとした。
 「…お願い…やめて…ほんとうに……」わたしの声は、すっかり怒りの色を失い、男に懇願していた。
 「今日は、ちょっと乱暴にしてあげる」そう言って男はまた、わたしの耳たぶを噛んだ。

NEXT/BACK

TOP