インベーダー・フロム・過去
作:西田三郎

「第6話」

■侵入

 翌朝、朝食を食べるわたしと公一の間に、あまり会話は無かった。
 公一はゆうべわたしにした事を忘れたのか、もしくは全く無視しているかのようで、わたしも朝から敢えてそんな話題を食卓に持ち込む気はなかった。まあそれは世間一般でも普通の感覚なのではないかと思う。
 他の夫婦たちが朝食のときにどんな内容の話をしているのかは知らないが。
 俯いてトーストを囓る公一の顔をじっと見てみる。
 公一は端正な顔をしている。
 誤解されそうだけど、わたしがまず好きになったのはこの公一の顔だ。その後から、公一の優しさや気配り、心遣いといった、結婚相手として必要なすべてがついてきた。まず、あなたの顔が好きになったんだよ、と言うと、公一は怒るだろうか。がっかりするだろうか。それとも喜ぶたろうか。
 公一が出かける時間が来た。公一は優しく笑って
 「行って来ます」と言ってわたしにキスをした。
 一人部屋に残されたけど、その日は何故か、しばらく公一の唇の感触がわたしの唇から離れなかった。
 
 部屋の中はしんと静まり返っている。わたしが出かけるまでにはまだ時間がある。
 今日も空は晴れ渡っている。わたしは何だか不安になった。何故なのかはほんとうにわからない。
 
 と、電話のベルが鳴り、わたしの躰はすくみ上がった。
 恐る恐る電話を見る。電話機の着信ボタンが点滅していた。胸があからさまにどきんどきんと息づく。
 電話のベルの反復がわたしの鼓動とリズムを合わせているみたいだ。
 電話の主はわかっていた
 昨日も夢に現れた、あの男だ。
 いや、違う。男が勝手に、わたしの夢に現れるのは自分だ、と言っているだけの話だ。
 わたしは立ち上がり、電話機に駆け寄ると、受話器を上げ、それを耳に当てもせずに電話機にたたきつけた。
 そして電話のモジュラージャックを引き抜いた。
 昨日も同じことをしたような気がする。いや、それも夢だったろうか?
  と、今度はわたしの背後で携帯が鳴り始めた。テーブルの上だ。
  またわたしの全身が総毛立つ。
  わたしは立ち上がり、ゆっくり携帯の方へ歩いていった。毎日ほとんど肌身離さず持ち歩いている赤い携帯電話。わたしはいつも着信をアラームとバイブの両方に設定している。テーブルの上で小刻みに振動するそれは、まるで生き物のように見えた。
 そっと手を伸ばした。指が触れ、その振動が伝わる。
 昨日電車の中であの男から受けた敏感な部分への愛撫が蘇る。
 それを昨夜、公一から受けた愛撫でかき消そうとすると、今度はその後に見た夢が蘇ってきた。
 携帯電話は振動を続ける。液晶を見た……「番号非表示」。
 電話を切ることもできたろう。そのまま電源を切り、その日は携帯を持ち歩かない。
 そういう対処もできたかも知れない。
 しかしわたしは電話に出てしまった。なぜか理性は働かなくなっていた。
 「もしもし…」わたしの声は小さく、少しだけ震えていた。
 「…伊佐美ちゃん?」あの男の声。低いけど神経質そうな、あの声だ。
 「……あなた、一体誰なんですか?」できるだけ強い口調でそう言おうとしたが、出来なかった。「何のつもりで、こんなことするんですか?」
 「……まあ、そう焦るなって。会社に行く時間までに、少しあるだろ?
 「……いやです。もう切ります」
 「……おれが誰か知りたくないの?」男が戯けた声を出す。「…知りたいでしょ
 「興味ありません」なんとかしなくては。電話に出てしまった以上、男のペースに巻き込まれてはいけない。
 「…ふーん…じゃあ、なんで昨日またおれの夢を見たの?」
 「………」思わず絶句した。
 「ねえ……、その前にダンナさんとエッチしたでしょ。
 「……はあ?」素っ頓狂な間抜けな声を出してしまった。いけない、わたしは平常心を失っている。
 「……でも、ダンナさん、挿れてくれなかったよねえ?
 「…ちょっと…ちょっと待ってください……」
 「……どうしたのかなあ、ダンナさん。お仕事が忙しくて、疲れてんのかねえ?」
 「……あの……」
 「……いくら朝が早いからって、そりゃないよねえ……伊佐美ちゃんがまたおれの夢を見ちゃったのも、しょうがないよ。…だって、ソレ、ダンナさんのせいだもん
 「……なんで……」また全身に鳥肌が立つ。この男がカマをかけているのではないことは明らかだった。「……なんで、そんな事……」
 「……ねえ、昨日の夢のなかのおれと、ダンナさん、どっちが良かった?
 「…そんな…」
 「……まあ、おれもいつも挿れないからね。ダンナさんと一緒か。」
 「………」
 「……でも、どうなんだろ。ダンナさんとおれ、どっちが君のこと知ってるだろ。…ええと、そのつまり、君の躰のこととか、君がされる好きなこととか
 「………切ります」
 「…ちょっと待って……今日はちゃんと会社行くんでしょ?」
 「……あんたには関係ないでしょ!」わたしは電話を耳から離そうとした。すると男が大きな声を出した。
 「…だから待ってって……!!
 「……なんですか」愚かにも、わたしは受話器にまた耳をつけた。
 「……また、電車で会おう。それでいつか、それ以外の場所でも会おうよ…」男が嗤いながら言う。「夢の続き……したいでしょ、伊佐美ちゃんも。」
 今度こそ有無を言わさず、携帯の電源を切る。
 携帯を居間の畳に放り投げた。多分、壊れやしないだろう。
 心臓がバクバクと息づいている。
 耳の奥でも、裸足で床に立つ足の裏にも、その脈を感じる。
 そこからわたしの鼓動が部屋全体に広がって、部屋を揺らしているようだった。
 目が回った。立ちくらみのように、景色が白くなっていく。
 今日も、会社を休もうか……そんなことも考えた。
 しかし、休む理由は?
 何とでもでっち上げられるけど、わたしはあの男が怖くて会社を休むのだ。それは厭だった。日常生活に突然侵入してきたこの侵略者に屈するようで、それだけは我慢ならない。
 男は電車で会おう、と言った。ということは、今日もあの満員電車の中に現れるのだろうか?
 恐怖と、その対局にある奇妙な感情がわたしを支配していた。
 どんな感じと言ったら判るだろうか?
 …子どもの頃に隠れん坊をして、鬼に見つかるまで息を殺しているような、そんな感じ?
 だめだ。言葉ではどうも上手く言いあらわせない。
 何故ならその感覚を感じているのは躰で、頭ではないからだ。
 
 わたしはそのまま寝室へ行くと、ありとあらゆるものをひっくり返した。
 布団の中を調べ、押入を調べ、天井を調べ、天袋をしらべた。
 しかし、盗聴器や隠しカメラの類は見つからなかった。
 そうこうしているうちに、家を出かける時間がやってきた。
  <つづく>

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