インベーダー・フロム・過去
作:西田三郎

「第13話」

■シラハマシマハラ

 目が覚めると、真っ暗だった。
 目が見えなくなったんじゃないかと思って、わたしは焦った。
 半身を起こし、そのまま必死に目を開いて何かを見ようとする。
 しかし何も見えない。ここがどこかもわからない。
 落ち着け、落ち着け…自分に言い聞かせた。
 わたしは混乱する自分を沈めて、わたしが今知りうる情報を頭の中でまとめた。
 
状況その1…わたしは目が見えない。
状況その2…ここがどこなのかわからない。
状況その3…今がいつなのかわからない。
状況その4…なんでこんな状況に自分が置かれているのか、さっぱりわからない

 状況その1のはすぐに片づいた。顔に手を伸ばすと、なにか布のようなもので目隠しをされていることがわかった。…でも、目隠しを外すべきだろうか?
 わたしは迷った。
 ここは安全な状況なのだろうか。自分はなにかベッドの上のようなところに寝かされている。掌を滑らせると、冷たいシーツの感触がした。耳を澄ます。気持ち悪いほど、静まり返っていた。周りに人の気配はない…しかし、どこか遠くで、ドアを閉めるような音がした。と、鍵をちゃりちゃり言わせながら絨毯の上を歩く靴音。近づいてきて、通り過ぎ、小さくなっていった。今自分がいる部屋の中からの音ではない、外の廊下からの音だ。
 多分ここはホテルかなんかの一室なんだろう。
 それにしても部屋の中は静まり返っている。
 
 それと…これに気付いたときには全身に鳥肌が立ったが、わたしはどうやららしい。
 お尻の皮膚が直接シーツの布に触れていた。
 あまり笑えるような状況ではない。が、はじめて味わう焦りでもない
 学生時分は、こんなことはしょっちゅうだった。よく今まで生きてこられたと思う。
 
 部屋の中に人の気配はなかった。それを充分に認識してから、わたしは意を決し、ゆっくり目隠しを外した。
 いきなり眩しい光が入ってくるようなことはなかった。室内は薄暗いが、カーテンをした窓から少しだけ光が入っている。ビジネスホテルのツインルーム。まったく見覚えのない景色だった…とはいうものの、日本中のどこにでも無数にある、何の変哲もないビジネスホテルのツインルームである。
 隣のベッドには、使用した形跡がない。ベッドメイクされたままの、しゃっきりしたベッド。
 わたしはゆっくり起きあがった。胸の上まで掛けられていたシーツがはらりと落ちる。
 やはりわたしは素っ裸だった。
 ざわざわと、心が騒ぎはじめた。素っ裸なだけではなく、わたしの太ももの内側では、べったりとこびりついた何かがそのまま乾燥して、かさかさしていた。
 懐かしい感覚だった。
 
 学生時代に何度も繰り返したことだ。昨日わたしは、誰かとやったのだ。それも激しく
 
 ベッドサイドにあるデジタル時計を見る…AM 6時28分。
 気が遠くなった。静けさが耐えられる限度を超え、耳鳴りと重なった。
 そういえば、頭もものすごく痛い
 寒気を感じて、吐き気もする。いや、吐き気のほうはヤバい。認識した途端にこみ上げてきた。
 わたしはベッドから降りた。まるで踊り狂いながら服を脱ぎ散らかしたかように、部屋のいたるところにわたしの服があった。カーディガン、ブラウス、スカート、ブラジャー。パンツなんか、部屋の照明のランプシェードの上に引っかかっていた。
 自分で脱いだのだろうか。それとも誰かに脱がされたのか。さっぱり思い出せない。
 窓の横にしつらえられたテーブルの上には、飲み干して潰したビールの缶がふたつ。そして灰皿には、銘柄の違う、3種類の煙草の吸い殻が堆く積もっていた。口紅がついているもの…マルボロ・ライトはわたしが吸ったのだろう。昔、よく吸っていた煙草だった。
 それより気分が悪いんだった。
 わたしは出入り口の手前にあるドアを開けた。ホテルの部屋の作りから考えて、よっぽどのことでもない限りそこはユニットバスになっている筈だ。事実そうだった。
 便器の便座は上がっていた。
 わたしはそれに倒れ込むようにして、ひとしきり吐いた。苦い胃液しか出てこなかった。
 一体昨日、何を飲んだのだろう。ほんとうにひさしぶりの酷い二日酔いだった。
 生理的に胃が痙攣するままに吐いたあと、吐瀉物を流し、トイレットペーパーで口を拭きながら立った。洗面台は濡れていた。使い捨てカミソリと歯ブラシがひと揃い、使用されて洗面台の上に載っていた。わたしは蛇口から水を出して、顔を洗い、口を濯いだ。
 ようやく人心地がついて、顔を上げて鏡を見た。
 
 自分の裸をこんなにゆっくり見ることなんて、何年ぶりだろうか。
 わたしは自分が思っているより、自分の肌が白いこと気付いた。そして、わたしの頭の中にあった自分の裸より、鏡に映る躰はほんの少し、肉付きが良かった。青白くなっている顔は、見られたものではなかった。一昨日の晩、公一とあれほどやりまくって、昨日の朝は目の下に隈ができていたのだった。目の下の隈は、さらに色濃くなっている。そういえば…昨日の朝の時点で枯れていた喉は、さらに酷くなっていた。からからに枯れた喉に、胃液が逆流したのだ。喉がひりひりして、わたしは3回ほどうがいをした。
 
 もう一度鏡を見る。
 さらに注意深く目を凝らした。
 左の首筋と、右の乳房の上部分、左の脇腹と、右足の付け根に、虫に噛まれたような跡がついている。確かめるまでもなく、それはキスマークだった。さらに調べると、左右の太ももにそれぞれ二つずつ、同じものがあった。…夕べわたしとやった男は、跡をつけるのが好きな男らしい。昔、荒れた生活を送っていたとき、何人かのそういう男とやった。首筋やにの腕やおっぱいを、わざと強く吸って、跡をつたがるのである。なぜそんなことをしたがるのかはよくわからないが…まあつまり、自分がこの女を征服した、という達成感の現れなのだろうか。山の頂上にうち立てられる旗のような。…それとも、犬がおしっこをするようなマーキングの一種かも。つくづく男とは下等で、ガキっぽいが、その中にもさらにガキっぽいのが居るのだ。
 或いはキスマークは、それをつける相手が自分のことを忘れないようにするための印なのかも知れない。
 忘れないでほしい、という切なる願いなのかも。

 ふつうはそんなものは全く必要ないだろう。まともな人間には、記憶力がある。
 しかしわたしのような女には、必要なのかも知れない。キスマークをつけられても、忘れるときは忘れるのだ。現に、わたしは昨日のことをまるで覚えていない
 
 内股におしっこを漏らしたように何らかの液(何かはわかってるけども、先入観できめつけるのはよくない)が乾いた跡があったことには気付いていたけども、両方の乳首がかさかさになって荒れていることに改めて気付いた。多分ゆうべ、盛大に吸われたのだろう。しかし、乳首がこんなになっていたのは、昨日の朝からかも知れない。公一も一昨日の晩は、わたしの乳首を激しく吸った。或いは……いや、もう考えるのは止めよう。
 

 わたしは取り敢えずシャワーを浴びた。
 乾いた液がこびりついていた内ももは、特に綺麗に洗った。躰のいたるところを嘗め回されたのだろうか、熱いお湯をかけるとひりひりする部分がたくさんあった。いちいちどこかは言わない。想像にお任せする。
 しかし熱い湯を浴びていると、躰全体にまとわりついていた淫靡な空気の名残りまで、洗い流せるような気がした。何だかよくわからないが、ほんの少しの、くしゃみ程度のカタルシスがあった。
 頭の中にも常識が帰ってきた。

 昨日は会社に行かなかったのだろうか。いや、行かなかったのだろう。ひょっとして無断欠勤したのだろうか。なんとも言えない。記憶を無くしている間に新幹線にでも乗ったのではない限り、今から身支度をしても会社には間に合うだろう。…それにしても、わたしとここに泊まっていた男はどこに消えたのだろう?
 
 躰をきれいにして、バスルームに備え付けのドライヤーで髪を乾かし、部屋中に脱ぎ散らかしてあった服を拾い集めて身につけた。通勤に使っているトートバッグは部屋の隅にあった。お財布などの貴重品が無くなっていることもなかったので、安心した。ファンデーションと口紅はいつも鞄に入れているので、なんとか顔を作ることもできた。すべて身支度を終えても、まだ8時前だった。
 さて。チェックアウトするか。チェックインした覚えはないけれども。
 部屋に忘れ物がないかどうか確認するため、わたしはカーテンを開けた。眩しい朝の光が入ってきた。拍子抜けすることに、ホテルは会社の最寄り駅のすぐそこだった。いつもこのホテルの前を通って通勤している。
 朝ご飯をどこかで食べる時間もありそうだった。
 
 わたしはもう一度ベッドサイドの時計を見た。AM 7時58分。
 あれ…?
 朝日に照らされたベッドサイドテーブルの上に、何かが浮かび上がった。先ほどはまったく気付かなかったものだ。それは透明の液体で書かれて、乾燥していた。わたしは赤くなった。指についたあれで書き殴ったらしいその文字は、あきらかにわたしのものだった
 
 シラハマシマハラ
 
 そう書いてあった。わたしはそれを忘れないようにこの忘れっぽい頭にたたき込むと、チェックアウトの前に濡らしたティッシュペーパーで、それをきれいに拭い取った
 
 フロント係に聞くと、わたしの同室者は5時前に払いを済ませてチェックアウトしたらしい。
 宿帳によると、男の名前は、「島原」だった。
 これでシマハラの謎は解決だ。…でも、シラハマって何だ?
 
 そしてさらに大きな謎がもうひとつ。
 
 部屋を出る前に、もう一度忘れ物がないか念入りに確認した。ベッドに、目隠しとしてあたしにつけられていものがあった。それは赤茶のネクタイで…わたしはそれに見覚えがある。
 
 そのネクタイは公一のもので…昨日の朝、彼が身に付けていたものだった。
 

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