愛の這ったあと
ある寝取られ男の記憶の系譜作:西田三郎
■15 『緑の屋根の家に訪れてみた。わたしは不法侵入をした。』
翌日の夜、わたしは一人だった。
どの女も都合がつかなかったので、テレビを見ながらビールを飲んで、時間をつぶすしかなかった。
それにしても最近のドラマはほんとうにおもしろくない。お笑いバラエティもおもしろくない。わたしのここ数ヶ月の生活のほうがよっぽどドラマチックで、笑えるというものだ。
テレビを消すと、ほんとうにやることがなくなった。ふと、窓から外を見た。
西側に、あの緑の屋根の家が見えた。
その日は月が出ていなかった。まだ家もまばらな新興住宅地のこの界隈では、月のない夜はかなり暗い。白い壁がぼんやりと幽霊のように闇の中に浮かび上がっているが、あのファンシーな緑色の屋根は真っ黒に見えた。
あのときは……あのいかれた女の下の口を塞ぐことでうやむやにしてしまったが……あの女が言っていたことも、確かに気になる。
あの家の主人……頭の薄い腹の出た中年男は、わたしの目の前で溶けてしまった。
自分の妻との情熱的な、偏執狂じみたセックスを語りながら。
溶けてしまった男の言うことを信じるのも何だが……ことの発端は、わたしがあの男の妻と肉体関係を持ったことらしい。わたしは今、現在そうしているように……妻がいながらさまざまな女と欲望のままに性関係を持ち、そのうちの一人があの家に住む、男の妻だったらしい。
しかし、わたしにはそんな記憶はおろか……あの男の妻だという女の記憶すらまったくないのだ。あの男が溶けてしまってから、あの家であの女……あの男の妻は、ひとり暮らしているのだろうか?
いったい、どんな女なんだろう?
まったく記憶がないとはいえ……一度はわたしと肉体関係を持った女だ。
それに……今晩、わたしの相手はいない。
わたしはゆるりと立ち上がると、縁側に出てビーチサンダルを足に引っ掛けた。ぬるい風が吹いてる。全身を愛撫するような、湿った舌のような風だった。
わたしは垣根を乗り越えて……あの男が立っていた場所……あの男の成れの果ての水たまりがあったあたりを踏みしめた。ぎゅっ、と足が地面に沈み込んだ気がしたが、それは気のせいだった。わたしはゆっくりとその家に向かって歩き始めた。ビーチサンダルを、ペッタンペッタン言わせながら。
家に明かりはついていない。人の気配はまるでなかった。
誰もいないかも知れない。というか、あの家に人がいる気配はまるで感じられない。
それでもわたしは引力に引き付けられるように、あの家に向かっていた。
一歩歩くたびに、下半身がまたずきん、とうずいた。まったく、我ながらどうしようもない。家の前には、あの趣味の悪い色のラパンが止まっていた。
もともと趣味の悪い色だったはずだが、こう暗い夜の闇の中ではそれほど悪くないように見える。さて、どうしようか。
わたしはインターホンの前で、ぼんやりと立ち尽くした。
ピンポンと鳴らして、こう言うべきなのだろうか?「こんばんは!……以前、あなたと肉体関係を持った男です!僕は覚えてませんけど、いかがお過ごしですか??」
……あほらしい。
ビールの酔いのせいもあったし、ここのところの日常の日現実性もあってか、家の裏手に周りこんで垣根を乗り越えて庭に侵入するくらい、どうということではなかった。やはり家の中に人の気配はない。
庭は小さくて、うちの家と同じくらいの広さだった。
そのままわたしはガラス戸が閉じられた窓まで行って、手で影を作り、家の中を覗き込んだ。
真っ暗で、視覚に応えるものは何もない。
ここまで来たんだから、と思ってガラス戸に手を掛けた。
するり、と自動ドアのようにガラス戸が横に滑った。わたしは思わず笑ってしまった。「無用心ですよ……」
一人でくすくす笑いながら、ビーチサンダルを脱いで家の中に入った。
完全な家宅侵入罪だ。いや、それすらも笑える。家の中は思っていたより涼しかった。廊下を横切って、和室に入った。畳の感触を足の裏で感じながら、しばらくぼうっとその場に立ち尽くしていた。
人様の家の居間に。「……うっ………」
そんな声が聞こえたときは、さすがのわたしも飛び上がった。
人んちに勝手に侵入しておいて、驚くほうがおかしいのだが、誰もいないと思っていた家の、漆黒の闇の中でそんな声を聞いたわたしの気持ちにもなってみてほしい。無理か。「……あっ……うっ……」
女の声だった。
わたしは和室から廊下に出た。声は2階から聞こえてくる。「はっ……んっ……」
そこでわたしは奇妙なことに気づいた。
この家の構造は……わたしの家とまるでそっくりだった。玄関のたたきから廊下が続き、一階には和室一室とダイニングキッチン、風呂、トイレ。玄関からすぐの場所に、2階に続く階段がある。2階には寝室が二つあるはずだ……外からは気づかなかったが、これはそっくりというか……まるで同じ家である。
いやいや、それほど不思議なことではないかもしれない。
何せこの界隈は新興住宅街で、狭い区画内に同じ施工業者が同じタイプの家を建てるのはそれほど珍しいことではない。
「うっ……ふっ………」わたしは自分の家と同じ造りの階段を登っていた。
2階の寝室……たぶん、わたしの家と同じ造りならば、寝室の位置も同じだろう……目指して、足音を殺しながら階段を登る。いやでも既視感を感じた。今回、手にビニール傘はない。
でも、何もかもあのときとそっくりだ……心臓の鼓動が高まっていく。「はっ………あっ……あっ……」
…… ブウウウーーーーーーン………ブウウウウウウウーーーーーーン…ブウウウーーーーーーン……近づくと、蜂の羽音のようなモーター音が聞こえた。
余計な勘を働かせずとも、それが電気で動くなんらかのいかがわしいおもちゃであることは理解できた。
口の中がからからになり、耳の奥で鼓動が弾けそうになっている。
2階の廊下につくと、音はもっとはっきりと響いてきた。「あっ……うっ……あっ……んっ……」
……ブウウウーーーーブウウウウウウウーーーーーーン…ウウーーーーーーンブウウウーーーーーーン寝室のドアに手を掛ける。脳裏に浮かんできたのは、とてもグロテスクな光景だった。
アメーバのような海綿体動物と化した男が、裸の女に絡みついている情景。
そして女は、その海綿体生物によっていかがわしいおもちゃを性器に押し込まれている。
浜辺に打ち上げられたクラゲのように、平べったくなったあの男の顔が床からわたしを見上げて挨拶をする……『やあ、ご主人。ごきげんはいかがですかな?』……いやあ、薄気味悪い。これくらいとんでもなく薄気味悪いことを想定しておけば、ドアの向こうに何があろうと、何がいようと、それほどたじろぐこともないだろう。
わたしは深呼吸して……ドアを開けた。
想像以上の……想像以下の光景がわたしを出迎えた。
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