愛無き世界に In a World Without Love
〜中国自動車道中1少女手錠放置死事件〜
第二章「手錠の男」
妄想:西田三郎
警告:このページに含まれるリンクの一部は、18禁です。いいか、言ったからな!!■2004/12/16 (木)第二章 〜手錠の男〜 25
「パーマネント・バケーション」
※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。8割6分くらいまでが妄想です。ククケンの休職生活は続き、その間ククケンが何をしていたのかというと、エロビの鑑賞とテレクラ通いだったのですね。いえ、エロビを観るのもテレクラに通うのも、犯罪でもなんでもありませんし、たといその人物の職業が教師であろうと僧侶であろうと神父であろと都知事であろうと、それを法律内で愉しむ限りは世間から誹られるいわれはありません。
ククケンのテレクラ通いは1992年からであり、正式に教師として採用される1年前から、彼はテレクラで知り合った女性と性的関係を持つことに悦びを見いだしていました。エロビ好きはだいたい1993年4月あたりから、と(恐ろしいことに)判決文にも書いてありますので、それは教師になって働きはじめたのと同じ時期にあたります。
判決文によりますとこの年に始まったククケンのエロビ愛好は、いわゆる制服もの、女子校生ものにジャンル限定したものであったといいます。しかも和姦ではダメ。必ず何らかの形で女子校生に扮した童顔の女優が手錠などで拘束され、強制的に性的搾取を受けるような内容が彼のフェイバリットだったとの事。
…はい、ここで手錠が出て参りました。
何故判決文にそのようなエロビの好みなどが引き合いに出されるかといいますと、刑事裁判では被告がその犯罪に至った経緯を、常識的かつ客観的に、馬鹿にも理解しやすいように説明する必要があるからです。
しかしここで注目すべきは、ククケンがテレクラやエロビに耽溺しはじめたのは、教師としての人生をスタートさせる1年前、およびその年であるということ。その頃のククケンは理想に燃える、ケツは青いが熱血漢の新人教師でした。それは否定できません。
つまりこれは一般的には受け入れがたい現実かも知れませんが、熱血漢の教師であることと、テレクラ&エロビ愛好者であるという相反するキャラクターは、ひとりの人格の中で両立可能なわけなのですね。
<つづく>
■2004/12/17 (金) 第二章 〜手錠の男〜 26
「恋のテレホンナンバー6700」
※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。8割6分くらいまでが妄想です。さて、ククケンが教師になる前にはじめたテレクラ通いですが、はじめの頃ククケンは性交の相手として、未成年や女子校生に拘っていたわけではありませんでした。そこに金品の授与等の法律違反があったか否かまではわかりません(と、カマトトぶっておきます)が、テレクラで知り合おうと、合コンで知り合おうと、はたまた遅刻しそうになって食パンをくわえつつ走っている時にぶつかったことがきっかけで知り合おうと、男女の仲は…それがファックだけのつながりであろうと…第三者が口を挟む筋合いのことではありません。
先生がテレクラで女性と知り合っていたのが問題だと?
いえ、まさか、そんなことはないでしょう。
先生はいちおう、教え子に尊敬され、敬われることも仕事のうちですので、授業中に自ら己のテレクラ武勇伝を吹聴するなど論外ですが、生徒にバレないようにコッソリやるくらいの慎みがあれば、何ら問題はありません。
先生だって人間です。
セックスがやりたくてやりたくてやりたくてやりたくてやりたくてやりたくてやりたくてやりたくてやりたくてやりたくてやりたくてやりたくてしょうがない時もありますし、その際にスティディが居ないこともしばしば。風俗に行くのもいいでしょう。ククケンのようにテレクラで見知らぬ女性と後腐れのない関係を持つのもいいでしょう。
或いはエロビを観まくり、思うさま手淫にふけるのも悪くありません。
ただ、生徒に手を出してはダメです。
男の性欲というものは実は、定期的に抜いてあげないと破裂する、牛の乳のようなものではありませんが、それでも尚かつ性的な欲求不満を顔からラードが出るくらいに堪えてフラフラになっているような人間が、教師として教壇に立っているのはイヤですし危険です。少なくとも教師キャリア初期にあったククケンは、その意味で健全でしたし、善良でした。
しかし…後にククケン自身が手を染めることになる犯罪への布石が、ここに全く見られないか、というとやっぱりそんなことは無いのであります。
<つづく>
■2004/12/20 (月) 第二章 〜手錠の男〜 27
「ハッピー・バースデイ・ノー・フューチャー」
※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。8割6分くらいまでが妄想です。
ククケンが、無害で善良なせんずり男から危険人物へと変貌したのは96年の教え子との交際→別れが引き金になったと私は考えています。しかしテレクラやその手のヴィデオに耽溺していたククケンは、どこにでも居る無害な若者であると同時に、後の事件への下地を形成していました。
まず、ククケンがテレクラに魅力を感じたのは、そこで得られる性交に至る男女関係が、非常に簡略化され、擬似的なものであったから。女生徒との交際が破綻も、テレクラ通いによって培われた男女関係観が大きく悪影響したことは想像に難くありません。テレクラでの出逢いは通常の恋愛関係よりもさらに直接的にファックの機会を得んとするものであり、それに至るまでのデートや会話はどうしても二次的かつ擬似的なものになる。
何を言うか、普通の恋愛だって結局はそうではないか、と、はるかニヒリズムの地平線から異議を唱えられるトッチャン坊や、否、賢明の徒もいらっしゃることでしょう。
それは違います。
恋愛や友情といった人間関係が困難であり、時に煩わしくさえ感じる所以は、当事者の自助努力によってそれを継続させねばならないところにあります。テレクラにおける男女関係は(金品の介在があれば尚更)一回性のものであり、そこに継続の努力は介在しません。まーファックにありつくことが至上目的なら、その後の関係を想定して本日の言動に気を遣ったりする必要はなく、とりあえずファックするまで保持すればあとはどうとなれ、という人間関係は非常に気楽ですね。
ククケンがそれに耽溺していたのであればあるほど、男女の関係に長期的な展望を持つ視点を失っていたことは確かでしょう。ヤっちゃえばあとはゴミ屑のように放り捨てる…ククケンにとってファック後の女性とは丸めたティッシュに等しい存在だったのでしょう。
<つづく>
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