愛無き世界に In a World Without Love
〜中国自動車道中1少女手錠放置死事件〜
第一章「許されざる者」
妄想:西田三郎■2004/10/14 (木) 第一章〜許されざる者〜 7
「新たなる千年紀へ」
※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。3割4分くらいまでが妄想です。この悲惨な事件をわたしが知ったのは、2001年7月25日の夜遅くでした。
その頃も今と変わらず、自由時間をねっとさーひんで潰す毎日でしたが、その日のYAHOO!ニューストピックスに
「高速道路で少女死亡、手に手錠?」
の文言が脳天気に輝く“NEW!”のアイコンとともに表示されていたのを発見した時のショックは、今もなお忘れることができません。
『なななな…なんですと?手に手錠?高速道路?少女?』
同2001年6月8日、タクママモルというトチ狂った無職の虚け者が、勝ち組エリートのご子息ご令嬢が通うことで有名な、大阪教育大学付属池田小学校に、デバ包丁で武装して乱入。
将来を嘱望され、そのハナクソひとつにしてもタクマくん一人の命の対価として釣り合わないほど、優秀でかわいらしい天使のような子供達の尊い命8つが、ひたすら陳腐な似非ニヒリズムに依って奪われたのです。
そんな事件に日本国中が(((;゚Д゚)))ガクガクブルブルし、コイズミ首相も事件当日に「なんなんだあの犯人は。刑法を見直してでも厳罰に処すべき也(※注1)」とフライング発言をし、ちょうど米帝でレコーディング中だったわが命のともしび、わが肉のほむら=宇多田ヒカル様もこの事件を受けてショックを受けられ、セカンドアルバムの収録曲だった「Distance」のタイトル曲のバラードバージョン「Final DIstance」をタクマ奴に生命を奪われた一人の少女(ヒカル様のファンだった)にDedicateしたりと、日本中が揺れに揺れていたのですね。
そこに来てこの事件です。
わたくしは神を、とりわけ基督教の神を信じませんが、2001年は新たなる千年紀の始まる年。
タクマの事件が6月、そしてこの中国自動車道中1少女手錠放置死事件が7月、そして9月11日には米国に於きまして同時多発テロが発生した訳で、何だか邪悪のエナヂーが満杯になった地獄より溢れだして、我々の日常を浸食し始めたことを感じ、薄ら寒くなったりもしたものです。
わたくしは次第に、この件に対してルシオ・フルチ的な安っぽい終末感を垣間見て、のめりこんでゆくわけです。<つづく>
(※注1 2004年タクマの望み通り死刑執行。タクマは地獄に堕ちましたが…遺族の方はなんか納得できません)
■2004/10/15 (金) 愛 第一章〜許されざる者〜 8
「人が、犬を、噛んだ」
※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。4割8分くらいまでが妄想です。当時のわたくしの中ではこのような考えが渦巻いていました。
『幼気な少女を拉致・監禁し、手錠を填め、なんやかんやした上で、車から蹴り出して殺す…こんな頭の悪いエロ漫画みたいなことを、現実の世界でやりたいと願い、さらにそれを実行に移す畜生以下の人間が存在するとは…否、偽善は止めよう。何故なら幼気な少女に怪しからんことをしたいと願う心は、健康な成人男子なら誰にでもあるはずだ…ないか?…己にはあるが…いや、何れにせよ、12歳といえば生物学的見地からも十二分にファッカブルな年齢であり、まして彼女はちゅうがくせい。其れに欲情するは別に異常ではない。何故なら金八先生で杉田かおるも妊娠・出産していたではないか。元SPEEDの島袋寛子だってちゅうがくせいのくせに男問題でSPEEDを解散に追い込んだうえ田中角栄以来の小卒の有名人なったではないか。さらに、モー娘。たち、あれはどうか。(実はよく知らない)それに対して日本国の男子が公然と萌えても変態呼ばわりされることはないではないか。にんげんよもうよせこんなことは。あああああ…。』
要約しますと、まーこの事件も所謂『ロリコン犯罪』のひとつに過ぎない。そんなのは珍しくともなんともない。
だからヘンに恐怖するのは間違ってるのだ、と。そう思いたがった訳ですね。
大学の般教で採ったジャーナリズム学の先生も仰ってたではないか。
ジャーナリズムとは「Man bites dog(人が犬を噛んだ)」ことを取り扱ってこそはじめて存在意義を持つのであって「Dog bites man(犬が人を噛んだ)」などとアタリマエのことを採り上げても何の意味もない。
そうそう、それそれ。なーんだ。普通のロリコン犯罪か。
ではそんなに気に留めることもあるまい…と、無理矢理そう思いこもうとしました、が、わたしの中の不安はそれに逆らって高まっていくばかりです。
(※あと2回ほど、この調子で脳内妄想が続きます。つき合ってらんねえや、という人は飛ばしてください。)
<つづく>
■2004/10/16 (土) 第一章〜許されざる者〜 9
『手錠と少女と、喚起される問題意識』※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。3割2分くらいまでが妄想です。
そうです。
この事件の特異性は即ち、のの子たんの手に填められていた『手錠』です。
ほんらい手錠とは、警察官などの法執行官が、凶暴かつ危険きわまりない被疑者の抵抗と逃走を封じ、安全かつ円滑に法の裁きの元に移動せしめるために使用するもの。
元々は戦争時に於いて敵国より拘束した捕虜の逃亡・抵抗を封じるために発案され(75へぇ)、その拘束力を以て奴隷や暴力衝動を制御できない精神異常者の管理にも使用される便利グッズ…。
しかし、其のまてりあるは『少女』という触媒によって、ほんらいの目的を外れ、我らに怪しからぬ妄想を想起させざるを得ません。
『手錠』は少女の肉体を拘束すると同時に、その若齢から侵略者の性的搾取に対して只で十分な抵抗力を持ち得ない少女をさらに無力な存在にせしめ、その肉体を陵辱者が好きなようにあんなことやこんな事をするのを容易たらしめるのです。
こんなことを大きな声で言うどころか、ホームページにうぷして全国に知らしめるのもなんですが、12歳の少女が手錠姿で発見されたと聞かされたとき、わたくしを含む国内の健康な成人男子全員は、その少女が辿ったあまりに哀れな運命に深く同情するよりも先に、激しく欲情してしまったのであります。
「そんな君、己は君のやうな変態ではないよ。巫山戯るのもいい加減にしたまへ」
と、あからさまに不快感を表明される見知らぬ読者のあなたを、わたくしは誠意と真心を以て『偽善者』と呼ばせていただきましょう。
さあ、「じゅうにさいのしょうじょにテジョウ…じゅうにさいのしょうじょにテジョウ…じゅうにさいのしょうじょにテジョウ…」と10回繰り返して言ってみましょう。その後で欲情を自らに感じたら、あなたは生物として万全に機能している個体であると言えます。それでも不快感しか感じないのであれば、あなたは単に強情な偽善者です。
わたしがこの事件に対して過剰な問題意識を抱いたのも、この「しょうじょ」と「テジョウ」のセンテンスに依るところが大きいのですね。
(そういえば、『赤坂少女監禁事件』もそうですね)
<つづく>
■2004/10/17 (日) 第一章〜許されざる者〜10
『現実の砂漠へようこそ』
※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。2割5分くらいまでが妄想です。手錠で拘束したうえで少女への性的搾取を行うという、このうえなくぞましく、かつ甘美な構図に我々が既視感を感じずにおれなかったのは、それがポルノグラフィという名のフィクションの世界において、これまで何万遍も繰り返されてきたありふれた構図だったからにほかなりません。
ポルノグラフィは現実社会に悪影響をもたらすのか、或いは悪しき衝動を消化して犯罪を抑制するということで社会的存在意義を持つのか、という論争はもはや卵が先か鶏が先か、邪馬台国はどこにあったのか、靖国神社には何が埋まっているのかという論争くらい苔生していますので、敢えてここでは繰り返しません。
はっきり申し上げてこの『中中手錠事件』の第一報からわたくしが受けた印象は、ポルノグラフティを想起させる事件、というどころかそのまんまエロ漫画やないけ、というものでした。
エロ漫画の中でも特に最下層の、絵も下手でストーリーも定食のようですが、エロ描写だけは本能の赴くままに妄想の限りを尽くして描ききる、恐らくは童貞と思われる作者の手に依る作品。
そうした作品にみられる、愛や成熟したエロチシズムや他者への思いやりなど、社会生活上、性交に至るまでに必要不可欠な要素の全てを凌駕する、エロへの好奇心と情熱(そこには己の発射の快楽を得る為には他者の生命さえも犠牲にする冷え冷えとした自己中心性と、過剰に幻想化された性への憧憬がある…例:男(陵辱者)「なんやかんや言うてもカラダは正直やのう」少女(被害者)「ああ…ダメ……いや…やめて…(中略)…でも、やっぱりいい!もっと!」的なご都合主義)、それがそのまま現実世界に表出したような即物性と虚無性を、わたくしは感じずにはおれなかったのです。
しかし…そんな爛れた欲望がエロ漫画というひとつの具体的な商品として通用するほど、この現実世界にはそうした欲望への需要が厳然と存在するのです。そのフィクションの世界で飼い慣らされるべき欲望へのいけにえとして、このノノ子たんをはじめとする数多の少女たちが犠牲になっているとするのであれば…もはや我々も笑って見過ごすことはできないのであります。
<つづく>
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