わるいおまわりさん
作:西田三郎
「第9話」 ■わるいおまわりさん
それから小一時間くらい経って……あたしは速水と、あの建てかけでほったらかしになっている植物園の裏に居た。今日は平日なので、ますます誰も他の人がここに入ってくる心配はないだろう。
見上げると今日もいいお天気だった……昨日と同じで。足元を見ると、ボタンがひとつ転がっている。
まあ普通に考えればあたしのブラウスのボタンなわけだが……ひょっとすると別の誰かのボタンかも知れない。一体ここで、何人の女の子がブラウスの前を引き裂かれたのかね?
いやそりゃまあ、男同士や女同士ってこともあるかも知れないけど。「……ふうん……ここでヤられちゃったわけか……さっきのバイブ君に」速水が言った。「……なるほど、いかにもそういう気分になりそうなとこだわ。……まあ彼はこれから、夢でこの風景を思い出して、飛び起きるんだろうけどな」
「………いっつもここだったんですよ」あたしは言った「あいつ、ここが好きだったんだろうなあ……」
「おれもこういうところは嫌いじゃないけどね」速水は言って、先ほどの吸いさしのタバコを銜えた「……ああもう、誰も来ないとこってしあわせだよね」
速水が壁を背に、地面にしゃがみ込んだ。
地べたに座り込んでも問題ないくらい、どうでもヨレた汚れたスーツだった……彼が気にしないのも無理はない。煙草に火をつけて、煙を吐き出す。
タバコの煙はコンクリートの壁を越えて、その上の青い空に向かって登っていった。あたしは速見の横に座り込んだ。
とても気分が安らいだ。「……あの」とは言うものの、何もいい話題は思い浮かばない。「……ケーサツのお仕事って大変ですか?」
「……うーん……」速水は首をかしげて言った「……高校生だった頃よりはましかなあ」
「……最近、誰か捕まえました?」
「……最近は、さっぱり」
「やっぱり……その、ピストルとか持ってらっしゃるんですか?」
「いや……見たことも触ったこともないな」
「……結婚されてるんですか?」
「……黙秘する」
「……なんであたしに声掛けたんですか?」
「きみが可愛いかったからだよ」
「……なんであんなことしてくれたんですか?」
「正義を愛してるからだよ」それくらいで会話は終わった。やっぱりテレビで見るお巡りさんと、ほんもののお巡りさんは大違いだ。あたしが所在なげに青空を見ていると……速水はくしゃくしゃの煙草のパックを差し出した。
「吸う?」
「……あ、いえ。あたし吸いません」
「……あ、そうか。………じゃあ……」そう言って、速見はスーツの内ポケットを探った。「これはどう?」速水があたしの目の前に突き出したのは、キャンディの包みだった。
「……ああ……どうも」あたしはそれを受け取る。
「甘くないよ」速水はそう言ってもうひとつキャンディの包みを自分のために出した「……あれでしょ?甘いものは良くないでしょ?……太るから」
「……はあ」
包みを開けた。
……中に入っていたのは、これまでに見たどんなキャンディとも違っていた。
薄紫色の、直径3センチくらいのタブレット。あたしはそれを指でつまんで、目の前に持っていった。……どうも……只のお菓子ではないらしい。
「……ああ。煙草より身体に害はないから」
「……これって……」
「……うん、あんまり売ってないやつだよ。ホラ、俺、こんな仕事してるじゃん。……いろいろ珍しいものが手に入るんだよ」速水は自分の錠剤を口の中に放り込むと、ほんものの飴玉のように口の中で転がし始めた。
カランコロン、カランコロン。
大の大人がそんなことをしている様はちょっと滑稽だった。
「……あの……苦くないですか?これ」
「うん。甘くもないけろれ」あたしはそれを口に放り込んだ。
確かに、何の味もしない。
カランコロン、カランコロン。
あたしもそれを口の中で転がした。「……で、これ、舐めれるろろうなるんれすか?」あたしはその錠剤を確実に口の中で溶かしながら速水に聞いた。「やっぱ……あれれすか、へんらもろがみえらりするんれすか?」
「いや、そんなころはないよ」と速見。「……そうららなあ……らんちゅーか……気分と、かららが、すっとかるくなるんだ……いやなことはれんぶわすれられる」
「はあ……すごいんれすね」カランコロン、カランコロン。
あたしたちは錠剤を口の中で溶かし続けた。
そのまま、ずっとあたしは空を見ていた。この空間にだけ開かれた、四方4メートルくらいの青空。じっと見ていると、ゆっくり、ゆっくり雲が流れていく。
ここにも雨が降ったり、冬には雪が降ったりするのだろう。
口の中で錠剤が溶けていく。何回か、鳩の群れが4メートル正方形の空を通り過ぎた。左から右へ……右から左へ。
雲はゆっくりと流れ、やがて渦巻き始める。
時折現れる鳩の群れは……薄い灰色の影を残して、空に複雑な模様を描き始める。
「……ああ、なんか、きれい」
あたしはもう、ちゃんと喋ることができるくらいに口の中の錠剤を溶かしていた。
速水が、口の中でガリガリと残った錠剤を噛み砕く音がする。その音も……なんだかエコーが掛ったように……まるで洞窟の中にでも響く足音みたいに聞こえてくる。
「これ、噛んでも大丈夫ですかあ?」あたしは速見に聞く。
「ああ、噛んじゃえ、噛んじゃえ」そういう速水の顔は、まるで人が変わったように光輝いていた。あの土気色の疲れきった顔色はどこに行ったんだろう?「……ガリガリいっちゃえ」
ガリガリ。あたしはほんの少し残っていた錠剤の残りを噛み砕いた。四方を取り囲む4メートルのコンクリートの壁が、一回り狭くなったように感じる。まあ気のせいだろう。こころなしかこの空間の気温が上がったようにも感じる。まあ気のせいだろう。いつの間にか速水の肩があたしの肩に触れていて、そこがずきんずきん、と脈づいているように感じる。まあそれも、気のせいだろう。
速水の横顔を見た。
速水もぼんやりと空を見上げていた。
あたしは速見のことが好きになりそうになった。これも多分気のせいだろう。
しかし、あたしは昨日まで……いや、それより2、3日前だったか……そんなのはどうでもいいけど、あの三島のことだって好きだった。いや、ほんとうに好きだったのかどうかはわからないけど、少なくともそんな風に感じていた。で、その次にあいつのことが好きになったのかといえば、それはよくわからない。
しかし今、あたしは三島のことが好きではない。むしろ、胸がむかつくくらい嫌いだ。
さっき、速見が見せてくれたデジカメの写真……お尻にバイブレータを入れられて、泣き叫んでいる三島の姿を見て、あたしは大笑いした。可愛そうだなんて、これっぽっちも思わなかった。むしろ、ざまあ見ろ、と思ったくらいだ。
そんなもんだ。相手が好きとか嫌いとか、そんなことには実はあまり大差はない。あたしは速見の息づくかたに頭をもたせかけた。
「……速水さん」あたしは言った「……速水さん、悪いおまわりさんですね」
「……そんなにほめられると、照れるなあ」速水は言った。
「……あたしのこと、可愛いって言いましたよね」
「ああ、言った……今もそう思っているよ」
「じゃあ、キスしていいですか」あたしは言った。なんでそんなことを言ったのか、ほんとうにわからない。
気がつくと、あたしと速見はキスをしていた。
酷く濃厚なキスで、舌と舌が絡み合って、そのなんだかよくわからない薬を含んだお互いの唾液が、あっちに行ったり、こっちに来たりした。「……ん………」あたしは目を閉じていた。目を閉じていると、すっごく良かった。
速水の手が、そろそろとあたしのジャケットの中に伸びてきた。
キスでこんなにいいんだから、それ以上のことをされたらもっと気持ちいいはずだ、とあたしはぼんやり考えた。
<つづく>
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