わるいおまわりさん
作:西田三郎
「第5話」 ■罪と罰
あたしは応接室を出た。
廊下のソファに座っていたお母さんが立ち上がり、あたしに駆け寄ってくる。「ちゃんと……ちゃんと話した?……なにもかも、正直に警部補さんにお話した?」
背後には警部補さんが疲れた顔で立っている。あたしも正直言ってくたくただった……ようやく質問攻めから開放されてせいせいしていたところに、今度はお母さんが質問を連発してくる。
「すみません……お母さん、ちょっと入っていただけますか?お話したいことがありますので……」警部補さんが言った。「今度は……あなたがそこで待っててくれる?すぐに終わるから……」
「……わかりました」とお母さん。「ちゃんと待ってられる?……ここでじっとしてるのよ?」
「うん」
とにかくしばらくはお母さんとも警部補さんとも解放されるらしいから、あたしは心底ほっとした。
お母さんが応接室に入る。
あたしはひとり廊下に残された。警察署の廊下に見るべきものなんて何もない……そのままぐったりとソファに腰を沈める。ああもう、一気に疲れが襲ってきた。なんだか少し眠くなってきて、静かに目を閉じる。できればこのままずっと放っておかれたかった。でもまだ今日は始まったばかりで……これからどんな手続きあがあるのかさっぱり予想できない。と、誰かがソファの横に座る気配がして、あたしは薄目を開けて隣を見た。
ソファに座っていたのは、薄いグレーのくたびれたスーツを着た、40がらみの男だった。あたしの方を見ずに……ぼんやり正面を見つめている。何だか男は、あたし以上にひどく疲れている様子だった。あたしがちらちらと男を見ていると、男はポケットからタバコを出して、それを一本銜えて火をつけようとした。「……あの……」あたしは思わず声を出していた。「ここ、禁煙らしいですよ」
「……え?」男は言った「……そうだっけ……あ、そうだよな」
男が銜えていたタバコを、くしゃくしゃの紙パックに戻す。
良く見ると、戻しているタバコは吸いさしだった。
そんな風にしてタバコを吸う男を、あたしはこれまで見たことがなかった。「……君、あの……あれかな?その……なんつーか……男に“ワルサ”されたわけ?」
「えっ?」いきなりの単刀直入な質問に、あたしの眠気も吹っ飛ぶ。
「……あ、ごめん。俺、ここの一課のオマワリでさ。速見ってんだ……ごめんね、いきなり変なこと聞いて……あ、違ってたらゴメンね」
「……いや、その、あの……」あたしは思わず口ごもった。男は遠慮や社交辞令というものにはまったく欠けているようだった。
「……ああ、そうか。やっぱりされたんだ……お気の毒に」男は薄笑いを浮かべて言う「……じゃあアレだ。さっきまで生活安全課の女警部補さんに、質問攻めに遭ってたって訳か……いやはや、お気の毒」
「………はあ」あたしはなんとも言えない返事をした。
「まあ俺、全然担当が違うんだけどさ……それで、そのワルサした男ってのは……知ってる人?それとも……あれ?目だし帽被って茂みの中から飛び出してきたような奴?」
「……ええっと……」妙な気分だった。男の質問の仕方はさっきの警部補さんの質問の仕方とはまるで違っている……あたしは相手が刑事さんと名乗っているので、とりあえず正直に答えることにした。「……その、あの……前の方です」
「……はああ……“知ってる人”かあ……」男は斜め上30度くらいを睨んで、神妙な顔を作る。「……ってことは、アレだ。彼氏かんなか?」
「……まあその……はい、そうです」
「……あれ?……その……つーことは、アレ?デート中にヤラれちゃったんだ?……いや、違ってたら悪いんだけど……」
「………はあ……」正直に答えよう……ウソは疲れる「まあ、そんなとこです」
「……彼氏の部屋?……ラブホテルとかにいきなり連れ込まれちゃったとか?……それとも公園がどこか?」
「……ううん……その……後のほうです」
「デート中に公園で?……はああ……なるほど。」男はそういうと腕組みをして青い髭剃り跡を撫でた。「……そうか……公園をデート中に、いきなり暗がりにに連れ込まれちゃったって訳か」
「……はあ、まあ……」まあだいたいそんなとこだ。男はそのまま、ソファの上で身体をギッコンバッタン、まるでブランコのように揺すり始めた。脚をぴんと前に伸ばして……男の靴は、もうずいぶん磨いてない様子で、あちこちに小さな傷や凹みが目立った。少なくともお父さんはこんな靴は履いていない。三島も……あいつも、こんな靴は履いていない。
「……あのさ、ゴメン。俺、ぜんぜん担当でもなんでもないんだけど……あ、これは言ったっけ?……まあいいや。ちょっと参考までに、イヤなこと聞いてもいい?」
「はあ……」イヤなことって、どんなことだろう?これまでの質問も、そんなにイヤではなかったけど「……何ですか?」
「その……その彼氏とは、やっぱアレ?以前に肉体関係とかがあった訳?」
「……うーん……」あたしはちょっと黙ってから、答えた「……はあ、まあ」どうせ同じことをさっきの警部補さんにも話した直後だったから、抵抗なく答えることができた。それに……この男の質問はとっても興味本位で無責任で……お母さんのやたら非難の味を帯びた責めるような質問とも、警部補さんの同情と共感の素振りにコーティングされた、事務的で冷徹なものともかなり違っていた。
むしろあたしには、すっごく答えやすい雰囲気だった。「……そうか……結構、あったんだ。その……肉体関係」
「……いや、人と比べてどうかはわかりませんけど……」
「で、なんで彼氏、いきなり襲い掛かってきたりしたわけ?……やっぱアレ?その……しばらく“お預け”食らわせてたとか?」
「……いや、そういう訳でもないんですけど……」
「あ……その、違ってたら悪いんだけどさ……って、俺、こればっか言ってるね。まあいいや……あれかな?ケンカかなんかしちゃったんだ?」
「……うーん……ま、まあ……そうかな」
「……あれかい?君に他の彼氏ができたとか?」
……なんなんだろう?
この男はあたしに次から次へとカマを掛けてくる。それはどれもこれも……大枠でぴったり当たっている。いや、あいつがその“新しい彼氏”に値するかどうか……ってのは大いに疑問のあるところだけど。「まあ……そうです」あたしは答えた。
「ふーん……」男はそう言うと、またギッコンバッタンと身体をソファの上で揺すり始めた。
「……彼氏、君を殴ったりした?」男がその運動を続けながら言う。
「……え?」
「……君の服を破いたり……殴ったり……無理やりイヤなことをさせようとしたり……そんなことした?」
「…………」少し沈黙してから、あたしは縦に首をすこし動かした。
「……その男のこと、憎い?」男はそう言って、はじめてあたしの目を見た。
何日も寝てないような、異様に血走った目だったか、その目はかすかに笑っている。
ど、どうなんだろう……?正直言って、わからない。
確かに三島に関してはムカついていた……でも、“憎い”かどうかはまた別の話だ。「……多分……その、立件は無理だな」男は言った「気の毒とは思うけど……」
「そ、そうですか」あたしは言った。どうでも良かったけど。
「でも……そうするとその男は無罪放免で……またいい気になって、誰か君じゃない誰か別の子をぶん殴ったり、服を破いたり、ひどいことをやり続けるんだろうな。調子に乗りすぎて、司法の観点から見ても、どう考えても“犯罪”だって言われても仕方のないようなことをするまで……それも、ひどいことをされた女の子が……勇気を出して、警察に届けるまで」
「……そう……なんですかね?」
「……そうだよ。そんなことは……まあ君には悪いけど、よくある話だよ」男は言った「法では裁けない罪があって、それには罰がない」
「……はあ」そんなもんなのかな……と、あたしは思った。
「……なあ、これから俺、ヒマなんだ。ちょっと一緒に来ないかい?」
「……ええ?」あたしはここに来て本気で戸惑った「なんで……ですか?」
「法律の問題は別として……罪には罰が必要だ、って……そう思わないかい?」男が笑う……ヤニまみれの前歯がずらりと覗いた。「……まあ社会倫理や法規的な制限の話は置いといて……君、今のままじゃ……腹の虫が収まらないだろう?」
あたしはしばらく考えた……別にそこまで三島が憎いかと言えば、はっきり言ってしまうとそんなことはない。でもムカついていることは事実で……とにかくこの男についていけば、この気が狂うほど退屈で疲れる警部補さんの質問攻めや、お母さんの泣き顔からはひとまず解放されそうだ。「……行く?」男が聞いた。
「じゃあ、行きます」あたしはそう答えた。
<つづく>
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