確かにシークァーサーの味がした
作:西田三郎
「第3話」■米軍基地。タクシー。砂浜へ。
タクシーが走っても走っても……道の両側に聳え立つフェンスは途切れることがない。 フェンスの向こうには本土のどこでもお目にかかれないような広大な芝生が広がっていた。そういえば、いつかあの社長に連れて行ってもらったゴルフ場もかなり広大でその芝の美しさに唖然としたものだが……今道の両脇に広がっているフェンス越しの芝生には到底及ばない。青い空に美しい芝生。どこまでも続く芝生。
そういえばあの社長はゴルフが下手だった。
運転手は無口だった。
東京でもくだらないことをぺちゃくちゃ喋る運転手は嫌いだ。
それにおれはその時、まったく口を効く気分じゃなかったし……それは後部座席で隣に座っている女も同じみたいだった。
女はおれの右隣に必要以上の距離を置いて座り、開け放たれた窓に肘をかけ、頬杖をつきながら外を見ている。延々とフェンス、フェンス、フェンス。少し見上げれば青い空。そればっかりで実に退屈な眺めだ。事実、女の横顔を見ると、その風景を楽しんでいるようにはちっとも見えなかった。そういえば……ひとくちに米軍基地といってもいろいろあるに違いない。
まったく興味のない話題ではあったが……考えてみれば今を逃せばもう一度聞くチャンスは二度と訪れないのだ。おれは少し身を乗り出して、運転手に尋ねた。「この両側のは……空軍の基地?海軍の基地?海兵隊の基地?」
「さあ……」運転手は言った「僕も沖縄に来てまだ3ヶ月なんですよ。すみません」会話は終わった。
苦笑いを作って女のほうを見たが、女はその短い会話にもまったく無反応だった。女はさっきまで髪をまとめていたゴムを外していた。
女の長い髪が風にそよぎ、その毛先が狭い車内でできるだけ距離を置いているおれの横っ面をびしびしと打った。
女はまったく意に介する様子ではない。
「……楽しい?」おれは女におずおず声を掛けた……聞き取れないなら聞き取れないでいい、というくらい小さな声で。
「……え?」女がおれに振り向く。そしておれを睨んだ。「何か言った?」
「……いや……その、ずっと外見てるから……」
「……見なきゃソンじゃん。せっかく沖縄まで来たんだし」と女はまた外を見る。
「沖縄ははじめて?」今度はもう少し大きな声だった。
「おじさんは?」
どうせもうすぐ死ぬわけだし……なんと呼ばれようと平気だった。「……ああ、初めて。……って、そういえば名前、まだ聞いてなかったよね」
「りみ」女が顔をこちらに向けずに答えた。
「……嘘だろ?」……さっきカーラジオからなぜか今頃『涙そうそう』が流れていたからだ。「まあ、いいけど」
「おじさんは?」その女……“りみ”が振り向く。今度は睨まれなかった。「……名前なんての?……“おじさん”って呼ばれるのがスキなんだったら、そう呼ぶけど」
「それも悪くないなあ……」事実、悪くないかな、と思った。睨まないりみの顔は……そりゃ絶世の美女ってわけでもないし、稀代の美少女って言うには少々年を食いすぎているが……それなりに魅力的だった。ケイタイを捨ててしまったのでもうそれは叶わないが、振り向きざまの彼女の顔は、思わず写真に収めて待ち受け画面にしたくなるくらいには魅力的だった。薄い顔立ちに薄い眉。薄いまぶたに薄い唇。
「りみ」とは名乗ったが、まったくもってその顔は一般的な沖縄人女性(それほど数を知ってるわけでもないが)と比較しても印象的ではない。むしろそれとは対照的だった。実際の話、ケータイに写真として抑えておかないと明日には忘れてしまいそうな顔だ……しかし、その顔はどこか涼しげで、弱っていたおれの心が好意的に解釈した結果、どこか儚げで……なぜかおれの胸はズキンと高なった。
いや、これから死のうっていう人間はやっぱりまともではない。こんな少女のおもかげを残す自称“りみ”に“おじさん”と呼ばれ続けるのも案外悪くないのではないかと思ったりした。
「どうする?“おじさん”で決定?」とりみ。
「うーん……」
「あんまり人前では呼びたくないね、あたしも」りみがまたぷい、と外を向く「……あたしもいい歳してんだし」
「……ホリエ」とりあえず名乗ることにした。「ホリエってんだよ」
「………」りみが横目でおれの顔を見る。冷ややかな目だが、その目は少し笑っていた。「嘘でしょ?」
「いや、ほんとだよ」
「……まあ、どうでもいいけど」実りのない会話を続けているうちに、いつの間にかおれたちを乗せたタクシーの両側からフェンスは消えていた。
「もうすぐ砂浜ですか」おれは無口な運転手に声を掛ける。
「みたいですね」運転手は言った。前方をじっと見たまま、身じろぎもしない。
「海開きはまだよね」とみり。
「じゃないですか」
「まだだよ、いくら沖縄でも」なぜかおれが助け舟を出した。
「ちっ」りみが舌打ちする。
「……なんでまた海に?」とおれはりみに聞いた。海に行きたいと言い出したのはりみだった。「まだ泳ぐには早いと思うけど……」
「あんた何しに沖縄来たのよ」みりは窓から近くなる海を見ている。「ホリエさん」
「何って……」確かに沖縄まで来たのだから海くらいは見ておかないといけないのは道理だ。
そうだな……とおれは思った。
今すぐ、という訳にはいかないが、海で溺れ死ぬ、というのも悪くはない。
たとえば、夕暮れ時に砂浜で酒でも飲む。当然、沖縄まで来たんだから泡盛を。たしか古酒(クース)って言うんだろ?あれ。強いのでは40度を越えるやつもあるらしいが、それでも結構飲みやすくて口当たりはまろやかだと言う。あれを一本ほど一気に開ける……40度もあれば、それほど酒に強くない(だが酒は好きだ)おれだったら多分かなり酔っ払えるだろう。そしてそのまま……砂浜に首だけ出して埋めてもらう。よく夏の海水浴場でやるよりもしっかりと埋めてもらって……自分の力では起き上がれないようにする。できるだけ波打ち際近くにだ。そのままおれはぐうぐう眠り込む……あとはただ潮が満ちてくるのを待てばいいわけだ。
しかし……埋めてもらうとするなら、一体誰に?
おれはりみをちらりと見た。
今のところ、彼女に頼むしかないだろう。
彼女はそんなことに応じてくれるだろうか?……ふつうは無理だわな。それに……せっかくの泡盛なんだから、できれば何かツマミと一緒に味わいたいものだ。豆腐よう(あの社長が旨いと言っていた)か、島らっきょうでも……いや、そんなツマミを一緒に味わってるとちゃんと酔っ払えないかも知れないな。
「……着きましたよ」
気がつくと車は停車していた。
りみが一目散に空いたドアから飛び出す。……代金のことなど、まったく頭にない様子だ。おれは無口な運転手に支払いを済ませると、続いて車外に出た。
道路を挟んで……すぐのところに白い砂浜があり、その向こうは青い海で、そのさらに向こうはそれより青い空だった。海風がおれの目の前に立っているりみの髪を撫ぜて……その毛先がまたおれの顔を撫ぜた。
<つづく>
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