確かにシークァーサーの味がした

作:西田三郎
「第2話」

■那覇空港。コインロッカー。騒ぐ女。

 やはり思っていたより沖縄は暖かい。

  そう思っていつも東京で来ていた綿入れのコートではなく、少し薄めの綿のレインコートを着てきたのだが、やはりゲートを潜るなりさっそく汗ばんできた。

  周りを見回すと、ほとんどの乗客の男性はジャケット一丁だった。中にはジャケットを小脇に抱えてシャツ一の人も居る。女性と言えばみなカーディガンやパーカーや、もしくは薄手のセーター一枚。
 
  彼、彼女らがもともと沖縄の人間で、故郷に帰ってきたところなのか、もしくはおれと同じように東京から沖縄に着たばかりの旅行者なのかは判別つきかねた……心なし、顔の造作の彫が深く、眉毛や唇がしっかりしてるタイプの人は……ともすれば沖縄出身者なのだろう。いや、必ずしもそうと言い切れないだろうが……。

 とにかく人に覚えてもらうのには苦労しがちな薄い顔立ちで、レインコートを着込んで汗ばみながら空港内を歩くおれはどこからどう見ても旅行者であったに違いない。

 実際のところ、おれは旅行者なんだろうか?

  そうであるとも言えるし、そうではないとも言える。

  ちょっとセンチメンタルにものを考えるのであれば、これからおれは住み慣れたこの世界から別の世界へ旅立とうとしている旅行者である。実際、死んでしまってから自分の魂がどんなところへ行くのか……というか、そもそも旅立つ先なんていうものがあるのかどうか……はっきり言って見当もつかないし、その結果に関しては期待もしていない。

 しかしまあ……とにかく誰に邪魔されることもなくここまで来ることができたということは、とにかくおれは自分が少しでも逃れたがっている何かからの逃走において、第一段階をクリアしたということだ。
  うん、ここまでは大変結構。

 ともすれば、あのまま東京に残って、自らの運命と向き合い、それと正面から闘争すべきだったのかも知れない。妻も娘も、両親も居るんだし……それに持ち家もある。社会的・法的・倫理的・道徳的・同義的、ありとあらゆる理性的基準を総動員するまでもなく……おれがこんなにして沖縄くんだりまで逃げてきたことはどうしようもなく卑怯で、恥ずべきことなのかも知れない。

 いやいや……この陽気の中だ。
  この暖かさの中では、とてもまともにもの考えることはできない。

 おれはコートを脱いで小脇に抱えると……適当なコインロッカーがないかを探した。
 
  幸運なことにコインロッカーはいたるところにあった。
  料金も東京と同じ。うん、悪くない。
  コートをサッカーボール大に丸めて、ロッカーの中に放り込み、鍵をかける。
  チャリン、という音とともに小銭が機械の奥底に飲み込まれていく。
  おれはポケットに鍵を仕舞いながら、ロッカーの扉に張られた注意書きを読んでいた。

 “万が一、鍵を紛失された場合は、実費10,000円を頂きます

 はあ。この鍵が10,000円?……笑わせるよな、実際。
  それこそ鍵を失くしたら自殺したくなるだろうな。

 「………てか、あんた、あたしが今どこにいるかあんたわかる?

 突然背後から女の声がして、おれはその方向に振り向いた。

 ロビーのド真ん中に立ち、行きかう人々の通行をこれ見よがしに邪魔しながら、ひとりの背の低い痩せた女が立っている。その女がおれと同じ旅行者であることは明らかだった。何故ならその女は、自分の背丈以上にでっかく見えるボアつきの黒い防寒コートを、まるで死んだ犬みたいに抱えていたからだ。

 「……ちょっと、切んないでよ。ねえ、ねえったら。……あたしが今、どこに居るか気になんないわけ?」女はかみ締めた唇をさらきつく……食いちぎるように噛んだ。「……実家?……なわけないじゃん。ってか、あんた、あたしの実家にすら連絡してないわけ?……え?ユウコん家?……バーカ!バーカ!バーーーーーーーーーカ!!!……なんであたしがユウコん家なんか行かなきゃなんないのよ?バッカじゃねーの?……ってか、あんた今ひょっとして、ユウコん家に居るんじゃないの?ねえ、そうでしょ?……え、まさか、マジでそうなわけ?……って、あんた、ユウコともそういう仲だったわけ?……え、ちょっと、誤魔化さないでよ、ねえ、ちょっと、何ヘラヘラ笑ってんのよ……ねえ、まさか、そこにホントにユウコ居るわけ?……ちょっとユウコに代わんなさいよ。ねえ、ホラ、ユウコ電話に出しなさいよ………ねえユウコ、聞こえてんでしょ?……何か言いなさいよ!!ホラ!!!」

 はじめその女を人目見たときは……沖縄にやってきた家族連れの一人娘が空港ではぐれてしまったのかと思った。
 
  そんな風に思えるくらい、その女はチビで頼りない体つきをしていた。
  あまり化粧っけのない顔に……長い直毛の黒髪。それなりに気を使えば美しい髪なんだろうに、それをえらく乱暴に、かつてきとうに後ろで束ねている。まるで自分で自分の髪をいじめているようだった。女の顔はこの陽気の中でも少し青ざめて見える……もともと肌が白いんだろうが、多分電話口の向こうの相手に対する怒りが、彼女からますます気色を奪っているのだろう。

 しかしそれにしても……いくら旅先とは言え、女の人目を憚らない興奮ぶりはかなり滑稽だった。
  おれはしばらくロッカーの前でその女を観察することにした。

 「……やっぱそうなわけ?そこに居るんだ?ユウコ?……ってか、やっぱ、そこ、ユウコん家なんでしょ?……え?おかしい?おかしいのはアンタでしょうが!!……だいたいアンタ、どうなってる訳?……アタシの友達、ほとんど全員食いまくりじゃん!!なんなの?あたしは?あたしはあんたにとって仲介人かなんか?……ちょっと待ちなさいよ、何ヘラヘラ笑ってんのよ……って、何?え?もしかして、あんた、ミユキともヤってたわけ?………え、マジ?あたしと付き合う前から?………って………それじゃ何よ。あたしはミユキにあんた、押し付けられてたってわけ?………えええええ?ってそれ、マジかよ!……どーなってんの?時系列で話しなさいよ時系列で!!!!

 女は小脇に抱えた死んだ犬のようなコートをぶんぶんと振り回す。

  気がつくとおれ以外にも彼女を遠巻きに眺めている人間が、少なくとも20人は居るようだった。  ……沖縄についたばかりで、この土地の人間の人柄や恋愛感というものがどういうものかというのは想像がつきかねるが、それにしてもこの女の一連の大騒ぎは沖縄の人間から見ても相当面白い見世物らしい。……あ、ここは空港だ。別に彼女を見ている人々が全員沖縄の人間とは限らないのだが。

 「……このけだもの!色魔!スケベ!変態!……一体何考えてんのよ?何考えて生きてんのよ!!……ああそうですか。あたしは確かにユウコよりもおっぱい小さいわよ。ミユキよりも小さいわよ。あんた巨乳スキだもんね……で、たまには……ってんであたしみたいなのにも手出して見た、と。そういう訳?……ねえねえ、知ってる?おっぱいスキな男ってみんな、マザコンなんだよ。そう、あんた今だから言うけどさ、マザコンそのものじゃん……いい年してお母さんに部屋代払ってもらってんでしょ?ええ?あたしがあげたジャケット、一回も着てくれたことないじゃん……で、『何で着てくんないの?』ってあたしが聞いたら、『おふくろが似合わないって言うんだよ』ってあんた言ったよね?……あーっはっはっはっは!このマザコン!あんたなんかマザコンじゃん。ああもう、ユウコ聞いてる?……そこで聞いてんでしょ?……ね、あんたの男、マザコンだから。あんたも気をつけたほうがいいよ?……ねえ、もしもし?ユウコちゃーん?聞いてますかあ?」

 そうなのか……おれは思った。それは初耳だ。
  そういえばおれも胸の大きな女が好きだ。妻の胸は……結構大きかった。そういう女を好むおれは、やっぱりマザコンなのかも知れない。
  おれは改めて女の胸を見た……うん、確かに情けないくらい乳がない。

 「……そんなわけでね、あたしが今どこに居るかわかる?……ううん、あんたの想像もつかないとこだよ。この世の果て。プエルトリコかも知れないし、ボラボラ島かもね。ひょっとすると、××駅のホームかもよ?……まあいいや。あたし、これから何するかわかる?………知りたくない?……あんたのしたこと、ぜーんぶ書いたノート持ってんだ。あたし」ここで女はニヤーーーーっと……気持の悪い笑みを浮かべた。「……これを枕元に置いてえ……すっげーやり方で自殺してやっから。写真週刊誌にあたしの死体写真載るくらいに。うん、袋とじになるくらいやったるからね。そうすると、どーなると思う………?あたしの遺書が出版社の目に留まって、出版されて、あんたのやったことが全国に知れ渡るってわけ。あっはっは……楽しいでしょ?あんたは可愛いそうな女の子もてあそんでボロ雑巾にして捨てた鬼畜として、全国にその名を知られるわけ。あっはっは。ざまーないね、まったく。ねえ、楽しみでしょ?………えっ?……ちょっと?……もしもし?……もしもーーーーし!!ねえ、切ったの?ねえったら?もしもし、もしもーーーし!!

 おれだって多分、電話を切るだろう。
  あの女の彼氏は相当、やさしい男に違いない。おれだったら多分、あの三分の一も話を聞かずに電話を切り、電話の電源をオフにしてそのまま電話番号を換えるかも知れない。

  女はしばらく青白い顔のままその場に立ち尽くしていた。
  泣くでもないし、新たに電話をかけなおすわけでもない。

 しかし女は……そのままジーンズに包まれた固そうな尻をぷりぷりさせながら空港のゴミ箱まで歩み寄ると、携帯電話をそのままそこに投げ捨てた

 途端に、おれの中で女に対する親近感が5倍増しになる。
 
  そのまま女の小さな尻を見ていると……何と女はこっちに向かって歩いて振り向いた。 思わずロッカーのドアに背をつけてしまう。女は一直線にロッカーまで歩いてきた。
  正直な話……おれは殴られるのではないかと思って見まがえたほどだ。

 しかし女はおれがコートを仕舞ったロッカーの2つ隣のドアを開けると、その死んだ犬のようなコートを放り込み、足で押し込んだ。おれはコートのことを気の毒に思いながら、さらに女に対する親近感を8倍増しさせていた。

 と、女がおれの視線に気付いて顔を上げた。
  一重瞼の釣り目が、見事に逆八の字に釣りあがっている。

 「何見てんのよ?!」女は言った。

 

<つづく>




 
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