確かにシークァーサーの味がした
作:西田三郎
「第1話」■飛行機。グルメ。ソナチネ。
はっきり言って東京から沖縄までなんて飛行機に乗ればひとっ飛びだ……と、そう思っていたがそうでもなかった。
なんと2時間半もかかるというじゃないか。
「のぞみ」で新大阪まで行くときと同じだ……大阪へは何度も出張で出向いたことがあったが、沖縄に行くのはこれがはじめてだ。何故、沖縄なのかと聞かれたら……特に理由はない。
多分、数日後……いや、最短で明日だろうか?誰もがそう考えるだろう。
何故、よりによって沖縄なのか?妻は頭を捻るだろう。両親だって、多分いろいろ考えるに違いない。娘はまだ3つだが……大きくなって、ひとりでものを考えられるようになったときに、やはり同じようにいろいろと想像を巡らせるだろう。会社の人間だってそうだ。会社以外の世間だって……マスコミも、司法当局者もきっとあらぬことを考え、それに関しては様々な憶測が飛び交うに違いない。
まあ、勝手に考えろ、だ。
おれが何故、死に場所を沖縄に選んだのかってことに関して、この国中の人間が推測や憶測を巡らしているときには……もうおれはこの世にはいない。なんで沖縄なのか?
そうだなあ、敢えて理由を述べるとするなら……あくまで、“敢えて”だよ。
暖ったかそうだからかな。だいたい、今年の冬は寒すぎた。毎日毎日コートにくるまり、手袋をしてマフラーをぐるぐる巻きにして街を歩き……アホみたいに暖房の効いた屋内で、のぼせ上がった脳がろくでもないことを考え出す。
昔からおれは、寒いのが大の苦手なんだ。
それに暖房も苦手だ。
人間、寒い状況にいると躰だけじゃなく心まで縮こまってしまう。
俺が巻き込まれることになったあの大騒動がなんでこの国で起こったかといえば……それはかなりの確立で、今年の冬の寒さと関連してるんじゃないだろうか。寒い気候の中では、人間は自然と背を丸め、分厚いコートの中で躰をすくめ、帽子やマフラーで視界を狭めて……自然と自分の身の回りを広く見回すことができるような、そんな余裕を失ってしまうものだ。
気候が寒く、風が冷たいからといって……それによって人の心まで冷たくなるなんてのはあまりにもバカバカしくて紋切り型すぎる考え方だ。寒い気候が人の心を荒涼とさせるなら……北海道に住んでいる人間は皆、ツンドラのように冷たくて狭い心の持ち主、ということになってしまう。
ああ、そういえば……沖縄と同じく、おれは北海道にすら行ったことがない。
“札幌雪祭り”って、もう終わったんだっけ?まああんまり興味はないが。北海道はいろいろと食い物が旨いらしい。あの社長がそう言ってたっけ。伝え聞くとこによるとジンギスカンの焼肉が美味しいという。さんざっぱらラム肉を腹に詰め込んだあとに、その漬け汁にジャスミン茶を入れて啜る……これがまた最高らしい。想像もつかない味だが。それに……今は冬だ。冬にはいろんな魚介類が旨いらしい……カニに鮭にホッケ、ウニにイクラ……やっぱり、死に場所は北海道にしとくべきだったかな?いやいや、俺は寒いのが苦手なのだ。
北海道の食道楽は今度にしよう……あ、いけない。
無いんだっけ、“今度”は。それに引き換え……沖縄にはどんな美味いものがあるんだろうか?
知っている限りでは、ゴーヤチャンプルーソーにメンチャンプルーにソーキそば、ミミガーやらハナガーやら何やらかんやら。比較すれば、個人的には北海道ほど胸躍るものはないが、何と言ってもそういう食い物を沖縄特産のオリオンビールで流し込むと最高という噂だ。
これもあの社長が言っていた。
それに……おれは酒が大好きだ。沖縄といえばやっぱり、泡盛だろ?
焼酎は何でも好きだが、泡盛……特に古酒(クース)をシャキシャキに削った氷で一杯やると、ほかの焼酎が飲めなくなるとか。それにあわせてアンダンスーという油みそをツマミにするのが最高だって話だな……あの社長が言うには。いかん、飛行機の中からしてすでに腹が減ってきた。
さっき味の無いサービスのサンドイッチを食べたばかりだというのに。飛行機の狭いシートの中で身をよじりながら……不思議なことに心はウキウキと高鳴っていることに気付いた。ああ、早く沖縄に着かないかなあ……などと、気分はまるで遠足に向かう小学生である。
いや、これは確かに遠足に近い旅行だった。
大人になってからこっち……つまり、お金を貰って働くようになってからこっち、日本中の様々な場所に出かけた。ほとんどは仕事の出張でだが、その中に沖縄と北海道は含まれていなかった。
だいたい、出張で出向く地方遠征ほどつまらなく、人生を何か空しいものに思わせしめるものはない。日本国中、どこに出向こうと一緒だ。着いたとたんに仕事に追われ、得意先を回り、夜は日本国中どこにでもあるような飲み屋での接待。こっちが接待する立場であろうが、逆に接待を受ける立場であろうがそれは変わらない。ぬるいビールに、ぬるい水割り。乾燥したおつまみに、これまた全国どこに行ってもまるで全国的なマニュアルに基づいて提供されているかのようなホステスたちの微笑み。……何もかもが終わったときには、すでに時間は深夜2時を回っている。死んだような躰をタクシーに押し込み、そのままホテルへ。そして狭いバスルームでシャワーを浴びて、法外な値段の備えつきのビールちびちびやりながら、備え付けのテレビで有料番組を見る……いつの間にか眠りに落ちていて、目が覚めるとベッドサイドには四分の1ほど残った缶ビールが時計や眼鏡と一緒に並んでいる……すっかり気が抜けて人肌にぬるくなった小便色の液体。
たまの休みに……そう、まだ娘が産まれていない頃は、よく妻とも旅行をした。妻は飛行機が苦手なので、海外にはあまり出向いたことはない。だから主に移動は車か、もしくは電車だった。二人では温泉や山の上のホテルによく出かけた……全国のいたるところにある、温泉と山のホテルに。最近は下手な海外旅行よりも豪勢な国内旅行のほうが出費が嵩む。いい宿を取り、いい食事をすれば……それなりの大名旅行だ。無論、おれは稼いでいたのでおれたち夫婦には有り余るほど金があった。さっきも言ったように、おれはかなりの食道楽だ……あの社長ほどではないが。或いは妻は、あの社長以上に食道楽だ。おいしいものに目がない。そんなわけで、おれたち夫婦は似合いの夫婦だったといえる。おれたちは全国津々浦々に出かけては、山海の珍味に舌鼓を打った。伊勢に出かけては生牡蠣をたらふく食べて、浜名湖に出かけてはたっぷりと脂の乗ったうなぎを腹に詰め込んだ。京都の料亭では味は薄いが値段だけは張る料理を味わった。
ごちそうを前にして、二人で食事をしているとき……おれたち夫婦はこのうえなく幸せだった。しかしおれは、妻との旅行すら心から楽しんだことはない。
どんな場所に居ても……おれの携帯電話の電源は切られることがなかった。
おれはここ数年……いや、十数年か?……携帯電話の電源をオフにしたことがほとんどない。おれに連絡がつかないことによって、東京で右往左往せざるを得ない人々のことを考えると、おれは恐ろしくて携帯電話の電源を切ることができなかった。おれはどこにいても、何をしていようと、連絡を絶やすことの出来ない人間だった。携帯に掛ってくる電話には、どんなことがあっても出なければならないし、電話を通して様々な指示を与え、どこに居ようと物事が滞りなく進行するよう、的確に采配を振るわねばならない。よって……そんな訳でおれは、いつの間にか携帯の電波が届かない場所には足を向けないようになっていた。地下の喫茶店でコーヒーを飲むことは無いし、映画館やコンサートや美術館にも行かない。当然、演劇を鑑賞したりもしない。
最後に映画を観たのはいったいいつだっけ……?最後に観た映画のタイトルは?
確か、ビートたけしが出ているヤクザ映画だったか。
映画の中でたけしは、東京のヤクザを演じていた。
何らかの事情で……確か抗争かなんかだったが、沖縄に行くことになる。そして事情はよくわからないが、映画の中のたけしの手下は、次々に殺されていく。で……どういう事情だったかはこれもまたよく覚えていないのだが、たけしは島の離島に匿われる。その後、延々とたけしが青い空と真っ白な白浜で、花火をしたりフリスビーを標的にしてピストルを撃ったりするような退屈なシーンが続く………確か、おれはそのあたりで寝てしまった。
突然目が覚めたのは、画面の中でたけしがピストルで頭をぶち抜いて自殺したからだった。画面を見ると……たけしは青い軽自動車の中で頭から血を噴いていた。
なんとなくそんなことを思い出していて……ふと気付いた。
そうか、おれが自殺の場所として沖縄を選んだのは、あのたけしの映画のあのシーンが……頭の隅に記憶として刻み付けられていたからかもしれない。
とにかくおれが携帯が鳴り出すことを気にすることなく、映画を観たのはあれが最後だった。
あれ以来……おれは一本の映画も観ていないし、演劇にもコンサートにも美術館にも行ったことはない。しかし……今の俺にそんな心配はない。
何故なら飛行機に乗る少し前……空港のゴミ箱に携帯電話を捨ててきたからだ。
一緒にノートパソコンも捨てた。
携帯とパソコンが手元にある限り、おれはどこに居ても会社に居るときと同様に仕事をすることができたが……今はもう、そんな必要はない。空港の清掃担当者は、パソコンと携帯の処理に往生するだろうなあ……。
そんなことを考えていると、いつの間にか飛行機は那覇空港に着陸した。
思ったより2時間半は短い。
<つづく>
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