終電ガール
作:西田三郎■終電ガール2号 デビュー
今のところは大丈夫だ。自分に目を留めるものは誰も居ない。
次の金曜の晩遅く、そのターミナル駅は人でごった返していたが、人並みの中をたった一人で逆流するように不器用に歩いてみても、周りの人間は誰も違和感を感じないようだ。
満はその日、塾をサボった。
そして、学習塾のあるこのターミナル駅のトイレの個室で、こっそりとリュックに入れていた姉のセーラー服を出して、着替えた。トイレに人が居ないタイミングで個室から出て、トイレの外の人通りが切れたチャンスを狙って外に飛び出してみた。鏡で自分の姿をじっくり確かめている余裕などなかった。どうしても小走りになりがちの歩調をなんとか平均並に落として、それで周りに自分の奇異を咎める視線がないことを確認すると、俯きがちだった顔を少し上げてみる。
人々は自分に目もくれずに、忙しい週末の駅の通路を通り過ぎてゆく。
“成功……かな………?”
満はまだ半信半疑のまま、おずおずと道行く人の顔を見上げては、また視線を落とした。
端から見ても…満はどこからどう見ても女子中高生にしか見えなかった。
スリムでしなやかな体つきをした、少しボーイッシュな少女。
少しあどけなさを残した顔は少々自信なげだが、それがその年代の少年少女だけが持ついたいけを醸し出しており、その中を曖昧に漂う中性的な魅力は、同年代の少女と比較しても決して引けは取らなかった。
まあ、少年が少女に女装しているので中性的なのは当たり前と言えば当たり前だが。
ときおり、通り過ぎてゆく男達の中に、満に視線を留めるものもいた。その度に満は背筋に冷たいものを感じたが、心配は無用だった。男達は満の奇異に目を留めていたのではなく、美しさに目を奪われていたのだが、それを認めるほどの自信はその時の満になかった。時折、すれ違った後で立ち止まり、スカートからすらりと伸びた満の白い脚の、特に膝の裏側あたりへねっとりとした視線を投げかけてくる好色な親父も居たが、それもまた満の知るところではなかった。
さて、満は何も女装して無目的に歩くために塾をサボったのではなかった。
満は駅のホームに降りると、人混みの中を行ったり来たりしながら、桐東さんの姿を探した。
桐東さんと何の約束をしたわけでもないし、本当に彼女がこの駅を利用しているかどうかさえ判らない。ただ、先週の金曜、はじめて桐東さんのことに気づいたのは、この路線の最終に乗ってしばらくしてからの事。途中に多くの人が出入りする駅はないし、第一、乗り降りの少ない駅から桐東さんのようなセーラー服を着た少女(ではないのだが)が乗り込んできたら目を引く筈である…。そんな理由から、満は桐東さんが、この駅から電車に乗った可能性に賭けた。
満の読みは当たり、ほぼ10分後、桐東さんは見つかった。
場所はホームの端の喫煙コーナーだった。口に銜えているのはあの両切りの煙草だろう。女子高生の振りをしている時くらい煙草を我慢できないものか、と満は思った。今日の桐東さんは、満が着ているものと同じセーラー服に、紺色の薄いカーディガンを着ていた。そして、彼女の本性の一部である、あの赤いセルロイドの眼鏡を掛けている。
桐東さんは携帯電話で誰かと話していた。
「…?二人?二人なんて聞いてないよ。石川ちゃん、直前でそーいうのはダメ。ダメダメ。あたしヤだもの。悪いけどさ、友達には返ってもらってよ。ね、石川チャン、わかった?…聞いてんの。わかった?一人で着てね。ぜったい、一人でよ。いいね?」
桐東さんは携帯の電源を切ると、ブワーッと口と鼻の両方から煙を吐いた。
まだ満には気づいていない。満は桐東さんの位置から5メートルの位置に立ち、声を掛けるべきかどうすべきか悩んでいた。 しばらくして、何げなしにこっちに顔を向けた桐東さんの視線が、満を通り過ぎ、背後を漂い、あわてて満に戻ってきた。 満を認識した桐東さんは、目を細めて満を凝視した後、大きく目を見開いた。
「…あ…あんた……」さすがの桐東さんも、言葉を失った。
満を指さし、ぽかんと口を開いている、口の端にくっついた煙草が、ぶら下がっていた。
満は慌てて駆け寄って自分の唇に指を当てた。
「シーっ!!桐東さん、今晩は」できるだけ小声で言う。声変わりしても高い声は相変わらずだったが。
「あの…あの、あんた、何やってんの?何のつもり?正気?」
「驚かせてすみません。探してたんですよ、桐東さんのこと。この前はありがとうございました。桐東さんのおかげで、長年の悩みを解決する方法がわかったんです…」
「で、そんな格好して人混み歩いてるワケ?…ちょっと待ってよ。あたし何言ったっけ?いずれにせよ、あたしの所為にしないでよ」
「桐東さんが、好きなことを好きなのに理由はないって言ってくれたんじゃないですか。それで判ったんです。好きなことをしないで、我慢して苦しんでいる理由なんてどこにもないって」
「あたしは何も女装して歩けなんて言ってないよ!」
「…だからその…話せば長いんですけども、ぼくはこれまでずっと悩んできたんです。そんな欲求を持つこと自体が、いけないことだって。でも、そうじゃなかった」
「28のババアがセーラー服着てオッサン相手に痴漢ごっこさせてるのが許されるなら、男が女装して電車に乗るのも許されるって…そういうこと?…あはは」ようやく桐東さんは笑った。
「あの…似合いませんか…?」上目づかいで、満は桐東さんを見た。
その頃には桐東さんは、もう落ち着きを取り戻しはじめていた。驚きの新鮮さがたちまち消え、また意地悪で冷笑的な光が彼女の目に戻る。桐東さんは、煙草を吸い殻入れに捨てると、そのまま3歩ほど後に下がった。そして芝居がかった仕草で、もじもじと立っている満の姿を、両手の指で作った四角形から覗いた。
「…いや、イイ」桐東さんは言った。「怖いくらい、イイよ、あんた」
「ほ、本当ですか?」ここは喜んでいいとこだろうと、満は判断した。
「……うん、何か、男にしとくのもったいないよ、ホント」
その言葉に、満がささやかな幸せのぬくもりを心の底から感じている時、ホームに電車が入ってきた。
終電の1本前の普通電車だった。
電車から降りてくる人々。その群の中に、“石川”が居た。
満は“石川”が立ち止まって、自分と桐東さんを見ていることに気づいた。
「…あ、石川ちゃん…」桐東さんが言った。
「…誰?その子。可愛いじゃん」石川がニヤつきながら言う。
石川は40歳くらいで、中肉中背。頭にはやや薄くなったところの目立つサラリーマン風の男だった。どうということのない、無個性な男だ。満を上から下まで舐め上げるように品定めする、その異常に好色な視線を除いては。
「…あ、えーと、あのこの子は……」桐東さんが頭を掻く。
「…兄妹?」そう言いながら石川は一歩満の方へ歩み寄った「違うよねえ、似てないもん」
思わず満は一歩、後じさった。燃えるような石川の劣情を感じ、胸の鼓動が早くなる。
「違う違う」そういって桐東さんは満を庇うように、石川と満の間に入った。「友達よ、友達」
「…なあんだ……」石川の視線はまるで熱いコールタールだった。「二人居るなら、おれも友達呼んで良かったんじゃないの?断っちゃったよ。桐東ちゃんが絶対一人じゃなきゃイヤだっていうから……」
「あの、ね…この子は……」と、桐東さん。「まだ見習いだから、触っちゃダメなの」
「見習い?」思わず石川と満も声がハモる。
「うん、ちょっと今日、見学させたろうって思ってね。だからこの子も来たの。ね?そうでしょ」
桐東さんが“とりあえず話を合わせとけ”というサインを目で送ってきたので、満はコクンとうなづいた。
その様子を、ねばつく石川の視線が捉えている。
「…その子触っちゃダメなの?いくらだったらいいの?」石川が満の前髪に手を伸ばした。
「ダーメ」桐東さんがその手を制する。「とりあえず、今日この子は見てるだけ。いいでしょ?それで。なによ。あたしだけじゃ不満?」
「…そんなことないけど…」石川が自分の顎を撫でながら言う。一瞬、石川の視線が満の頭の上の辺りを彷徨った。「……まあ、いいか。逆にそういうのも、いいかも」
やがてホームに、最終の急行が入って来た。
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