終電ガール
作:西田三郎

■終電ガール1号
 
 さらに人が乗り込んできて、満の躰が少女の躰に密着する。
 思いがけない急接近だった。これでは目線を合わせないどころの話ではない。
 少女の後に立った男は、少女の左肩に顎を乗せるように彼女の背中に張り付いている。少女の右の肩に乗っているのが、満の顎だった。満とその男は、少女の躰をサンドイッチにして向かい合う格好となっていた。
 少女の匂いを嗅いだ。金木犀の匂いがした。同年代の少女からは香らない、貴重で静かな香りだった。
 さらに自分の胸に、少女の胸が押し当てられているのを感じた。
 思ったより豊かな胸。いや、少し豊か過ぎるかも知れない。大きな胸の脂肪が、満と少女の間で押しつぶされている。満は自分の鼓動が少女に伝わっていやしないか、気が気ではなかった。
 「…うんっ…」電車が動き出すと同時に、少女が小さく唸った。
 満の頭に自分の頭を押しつけるように、窮屈な中で少女が身じろぎする。少女の熱くなった吐息が満の頬に触れる。
 満は自分の鼓動とは半白遅れの少女の鼓動を感じた。そしてその背後に立つ、男の鼻息も感じた。
 風通しの悪い男の両の鼻からは、まるで笛でも吹いているかのような間抜けな音がした。
 「……やっ」少女は小さく声を上げると、満の方に腰を逃がしてきた。
 制服のズボンを通して、少女の下半身の体温が伝わってくる。
 少女が満に全体重を任せてきた。少女の鼓動が、さらに間近になる。
 あまりにも近すぎたので、満の位置からは少女が男に何をされているのかは見えない。
 しかし、少女の躰は男の動きに反応して、満の躰の上でくねった。
 まるで豊かな胸を満に擦り付けるように、そして下半身をなでつけるように、少女の躰が満の躰を這い回る。
 いつしか満も、鼻で荒い息をしていた。
 少女の背後の男は自分の行為に夢中になっていて、満の存在などまるで眼中にない様子だった。
 男の手が少女のスカートの中に入っていることは明らかだった。その手が与える振動から逃れようとして、少女の躰が踊る。 満は胸一杯に少女の匂いを嗅いだ。
 少女の躰の感触と匂いが、満から理性と善悪の判断、そして時間の感覚をいっぺんに奪い取った。
 「……あ……い………くっ……」時折かすかに、少女から甘い吐息が漏れる。
 満の息と少女の息、そして男の息がそれぞれバラバラのリズムを奏でていた。
 車内アナウンスも、周りの人の気配も、全てが意識の外に追いやられた。
 列車が次の停車駅に向かって速度をゆっくりと落としていく。
 電車の中に満たされた無数の人々の体重が、比重の重い液体のようにゆっくりと傾く。
 と、少女が突然、満のシャツの裾を掴んだ。
 その確かな力の感覚に、満は我に返った。
 少女がこれ以上ないほど首をすくめて、息を止めているのが判った。
 背中に張り付いた男はだらしなく口を開け、天井を虚ろに見上げている。
 男の頬の肉が揺れた。男が全身を震わせて少女に振動を与えているの判る。さらに強い力で引っ張られる満のシャツ
 少女は自分のことを意識して、こんなことをしているのだろうか?
 それとも物理的に自分がここに立っているから?
 満の頭が激しく混乱する中、電車は満の最寄駅である、ベッドタウンに到着した。
 
 少女の手が、満のシャツから離れる。降りる人の群が、満と少女を引き離した。
 投げ出されるようにホームに出た。足早に改札へ急ぐ人の群の中で、満は必死に少女と、あの丸顔の男の行方を探した。電車のドアが閉じる一瞬、車内にも素早く目を走らせる。車内に二人の姿は無かった。
 と、階段へ向かってそそくさと掛けてゆく、少女と男の後ろ姿を視線の端で捉える。
 満は急いでその後を追った。
 気づかれぬようにわざと感覚を開けて二人を追う。
 後ろから少女とその男を見ていると、とても奇妙だった。
 二人はまったく、痴漢とその被害者には見えない。恋人同士とまでは行かないが、まるで親娘か兄妹のようにも見える。
 二人は横一列に並び、歩調を合わせて階段を駆け下りていた。
 何の理由もなく、満は先ほどあれほどまでに近づいた少女との距離が、また開いたような気がした。
 改札を出てゆく二人…男は定期を使い、少女は切符を使って改札を出たる。
 一目散にタクシー乗り場を目指す人の群から離れて、二人はもう最終のバスがとうに出てしまった後の、バス乗り場の方へ向かった。さすがにそこまで尾けると怪しまれることは明らかだった。
 満は早々に駅を閉める準備を始める駅員たちを後目に、出口前の柱の影から、二人の様子を伺うことにした。
 
 少女と男は、向かい合って何か話をしている。
 二人の間には、笑顔さえ見て取れた。
 男は少女の肩に手をやると、その耳元で何やら囁き、財布を取りだすと紙幣を2、3枚彼女に渡した。
 少女はそれを受け取って、にっこりと笑った。
 ふたりはさよならの挨拶をして、男だけがタクシー乗り場の方へ歩き出した。
 少女はその背中をずっと見送っている。
 男がタクシーの列の中に収まると、少女は肩を落として、踵を返すと、ゆっくりと歩き出した。
 満の足が独りでに動いて、少女を追った。
 胸がさらに激しく動悸し、額に汗が滲んだ。頭の中はどこまでも混乱していた。
 手を伸ばせばすぐに届きそうなところに、未だ自分の知らない深い闇があった。その闇はずっと満の心の中にあり、はっきりとした形を持たないが故に、満を苦しめ続けてきた。その正体に、ようやく自分は手を触れようとしている…不安と恐怖があった。しかしそれを払拭するに足る、亢奮と期待が満を動かしている。
 少女は駅前の公衆便所に向かっていた。
 満は少女に悟られないように彼女と距離を保つことを心がけたが、逸る心はいつのまにかその距離を縮めていた。少女が公衆便所に着くまであと三歩、というときだった。
 ぴたり、と少女が歩くのを止めた。
 はっとして満も足を止める。
 その時には満と少女の距離は、5歩ほどしか離れていなかった。
 しばらくの沈黙。
 まるで世界中の時間が停まってしまったかのように、少女は動かないし、満も動くことが出来ない。
 やがて少女は、満の方を振り向かずにこう呟いた。
 「…何か用?」びっくりするほど、落ち着いた声だった。
 「………」満は左足を一歩前に踏み出した格好のまま、金縛りにあったように凍り付いていた。
 少女がゆっくりと振り向く。
 電車の中で、ほとんど息かかりそうなくらいに接近していたその顔が、今は満の方だけを向いている。
 少女は切れ長な目の奥から、心の底まで凍り付きそうな冷たい視線で満を見た。
 「……何よ、あんた」少女の…いや、その女の小さな口の端が、うっすらと上がった。
 その視線と笑い方に、少女が持つ特有の幼さや初々しさは無かった。
 つややかな肌と全身から醸し出される儚さは少女のそれに似ていたが、その視線と微笑にはまったく少女らしさはない。
 目には隠すことのできない疲れがあり、笑みには彼女自身の存在をも嘲笑うような、つめたい皮肉があった。
 「………」満は凍り付いたまま、この場に相応しい言葉を見つけられないでいた。
 「何か、文句でもあるわけ?」女は冷たい声で言う。「……無かったら、消えてよ
 「………あの……」満はカラカラになった声で言った。「……ぼくを……覚えてますか…?」
 「…………?」女が一歩満に近づき、目を細めて眉間に皺を寄せ、満の顔を見る。
 「…………あの……」思わず満は一歩後じさっていた。
 女はボストンバッグの中から、赤いセルロイドフレームの眼鏡を取りだして掛けた。
 そしてさらに一歩近づき(満はまた一歩後じさった)満の顔を凝視した。
 「……全然。悪いけど。あんた誰?」女はそう言うと、また口の端で笑う。
 「さっき、電車の中で、あなたの正面に居ました………覚えてませんか?」
 「…………あたし、眼が悪いから……」女は腕を組んで空を見上げる。「………で、何?全部見てたってこと?服引っ張って悪かったけど、それで、文句言いに来たの?」
 「………あの………」満は自分に何も言うべきことが無いことに気づいた。しかしもう後には退けない。「……その制服、もう今は、どこの学校でも使用されてないでしょ?」
 女はそれを聞くと大げさに自分の制服を見下ろすような格好をした後、ほんもののバカを見るような眼とバカに言って聞かすような口調で、満に言った。
 「だからって何よ。あたしみたいなババアがこんな服着ちゃいけないって言いたいの?」
 「………そんな。ババアって………」
 満は困り果てて下を向いた。女はそんな満の様子を面白がるように見ている。
 「あんた、いくつ?」女が言った。「14?15?そのへん?」
 「…ことしで14。まだ13歳です。」問われるままに答える。
 「……あたしは28。じゃあ、あんたの倍の年ってことよねえ……まあ、だからババァはホントか。気にしないでいいよ」
 「………」驚くべきなのだろうか。どうすべきなのだろうか。満は下を向くしか無かった。
 下を向いていながら、満は女の視線を頭頂あたりに感じた。凝視されている。
 どんな顔で凝視されているのか気になって、少しだけ頭を上げて伺った。
 女は笑みを浮かべていた。まったく優しそうではない、何かを企んでいる顔で。
 「……あんた、時間ある?
 女の声に、満は思わず顔を上げた。
 顔を上げた先には、相変わらずの冷たい嘲笑の顔が待ち受けていた。
 「知りたいんでしょ?……なんで28にもなる女が、こんな格好で、こんなヘンなことをしてるのか。……そうでしょ?
 満には返す言葉も、それを断る理由もなかった。

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