終電ガール
作:西田三郎

■ボーイ・ミーツ・ガール

 しかし、精液まみれであの駅のホームにへたり込み、駅員に声を掛けられるまでには、さらに2年の歳月が必要だった。
 
 幸か不幸か、満はその密かな悦びを誰にも知られることなく、小学校を卒業して中学に進学した。
 クラブばバスケ部に所属し、男子生徒の友達も沢山できた。
 必然的に猥談が中心となる彼らとの会話も、傍目にはなんら支障無くやり過ごすことも出来た。
 しかし、満は大変な美少年であったのにも関わらず、女生徒たちと仲良くなることは無かった。
 女生徒たちの方では、少なからず満に好意を抱いている者が何人かは居たかも知れない。
 しかし満自身は、どうしても女子生徒たちと距離を置かざるを得なかった。
 非常に屈折したことであるのは判っていたが、身の周りに居る現実の少女たちはあまりにも現実的過ぎた
 笑い、喋り、弁当を食べ、走り回る現実の少女達。普通の健康な男子としては、そうした現実に対してそれ相応の魅力を感じなければならないことは、満も頭の中では判っているつもりでいた。
 しかし、満にとっての少女とは、毎夜鏡の中に立つ、あの姉のセーラー服を着た少女なのである。
 中学1年生になり、少しだけ躰は逞しくなったが、もともと華奢な骨格のおかげで、姉のセーラー服はまだ着ることができた。去年の夏は少し大きめだったセーラー服が、今はちょうど良い寸法になっている。鏡の前に立つときは、いつも姉からくすねた、あのピン留めで前髪を留めた。
 どんな少女より魅力的だった。
 そして満は毎夜のように、その格好で鏡の前に立ち、自慰をした。
 熱くなった自分の性器を激しく扱くことによって、鏡の中の少女を犯した。そしていつも、鏡の前で果てた
 しかし、いつかはそれを終わりにしなければならない。
 終わりにしなければならないことは判っていたが、止めるきっかけは見つからない。
 姉のセーラー服は、日に日に自分の汗と、精液と、欲望そのものの匂いに汚されていくような気がした。何度かこっそり、姉のセーラー服を自宅の最寄り駅から2駅手前のクリーニングに出した。
 その度にセーラー服は見た目にきれいになって返ってきたが、汗と精液の匂いは消えても、欲望の匂いだけは消えないばかりか、ますます強くなるように思えた。
 
 そのまま満は2年生に上がった。そして、厳しいことで有名なある進学塾に通い始めた。
 母と姉たちの薦めで、大学へエスカレーター式に進むことができる、有名な私立附属高校に入学するためである。それははっきり言って満の意思でもなんでもなかった。ある意味、満の人生を大きく左右する決定だったが、その頃の満は自分の意志というものをすっかり無くしていた。
 毎夜、鏡の前で空しく自分を慰める日々の中、それ以外のすべてから現実感が薄らいでいたのだ。
 以降週4回、学校の帰りに塾に寄り、終電で帰宅する日々が続くことになる。
 同じ年頃の少年にしてみると、それだけの時間を勉強だけに注ぐのは苦痛であるはずだったが、満は淡々とそんな日々を過ごした。
 逆に一人で部屋に居る時間が少なくなる分だけ、楽になれるような気がした。
 かといって鏡の前で行うあの空しい自慰の儀式が、絶たれる訳ではなかったが。

 雨の降らない梅雨で、夏ももうすぐ、というある日のことだった。
 満はいつもと同じように、塾帰りの最終電車に居た。ビジネス街と繁華街を経由するその路線は最終でもかなり込み合う。
 その日は金曜日ということもあって、酒臭いサラリーマンやOLたちに囲まれ、満は電車のドアに押しつけられていた。
 肉体的にも、精神的にも、特に苦痛は感じなかった。
 逆に沢山の人いきれの中に居ることが、満の心をすこしだけ和ませた。
 ハードな受験勉強をこなす日々の果てに、この電車を満たしている、酔っぱらったサラリーマンやOLたちの姿があるのだ。少し斜に構えて見れば、そんな風に考えることも出来た。しかし現実感覚をすっかり失っていた満の心には、そんな皮肉を受け入れる余裕は無かった。ただぼんやりと窓の外の暗い景色を眺め、心はものを考えることを拒否していた。
 電車が真っ暗な田園地帯に入る。
 電車の窓は満の顔を、そしてその後ろの車内の景色を鏡のようにくっきりと映し出した。
 満の背後、2、3人を隔てて、その少女の顔があった。
 少女は、あの姉のものと同じセーラー服を着ていた。
 肩までの髪にうすい顔立ちの、大人しそうな少女。
 満の身長は160センチほどあったが、その少女も満と同じくらいの背丈だった。
 窓鏡に映る少女の様子は、さして目を引くものでもなかった。ただの最終電車の風景のひとつに過ぎない。
 満がその少女の姿を意識の外に追いやろうとした時、鏡に映る少女の顔が歪んだ。
 きつく目を閉じ、唇を結び、小さく震えている。
 すべてに対して閉じられていた満の関心が、ゆっくりとその少女に集中していった。
 そうだ。そんなはずはない。
 
 あのセーラー服を着ている女子高生など、存在するはずがないのだ。
 
 何故なら姉の母校は姉の卒業2年後、あのセーラー服を廃止してブレザーの制服を取り入れていたからだ。
 そして満は、その高校に入るために塾に通っている。
 満の鼓動が高まっていった。
 ここ2年ほど、霞がかかっていたような頭の中に、血液が充満していくのが判る。
 電車の窓鏡の中で、悩ましげな表情を浮かべている少女。
 肩までの髪はつややかで、頭頂で二つに分けられている。
 切れ長の瞳と小作りな顔。白いうなじ。細い肩の線。
 反射する窓ではそこまでしか確認することができない。
 少女は時々、びくっと肩をすくめ、ちらちらと周囲に神経質な視線を向ける。
 鏡を通して一瞬、少女と目を合わせそうになった。満は慌てて視線を逸らせる。
 それまで感じなかった人いきれの熱気が妙に生々しくなり、全身から汗が滲み出した。
 少女の肩がまたびくっと引きつり、頭を左に傾けたその時、少女の後ろに立っている男の顔が見えた。
 見たところ30代半ば…丸顔に銀縁の眼鏡を掛けた、暗そうな中年男。
 その男とも鏡を介して目が合い、満は背筋にゾクッとした寒気を感じた。
 “痴漢……?”まず頭に浮かんだのはその言葉だった。
 電車が田園地帯を抜けて明るい街に入り、車内アナウンスが次の停車駅を告げる。
 次の停車駅は地下鉄へのターミナル駅で、人の乗り降りも多い。
 満は何気なさを装いながら、そっと背後を覗いた。
 少女は俯き、黒髪を垂らして震えている。真後ろに立っている小太りの男が、鼻に汗を浮かべて目を見開いていた。
 明らかに尋常ではない。周りの乗客は気づかないのだろうか?助けようなんて積極的な対処は思い浮かばなかったが、いずれにしても、次の駅では多くの人が乗り降りして乗客が入れ替わる。その隙にあの少女も男から逃げることが出来るだろう…。
 そう思いながらも、視線の端で、少女の様子を盗み見ずにおれなかった。

 電車が停車し、満の目の前のドアが開いた。降りる人並みに押し出されて、満もホームに出る。
 満は電車から溢れ出てくる人の群に目を凝らした。やがてあの少女と、その後に立っていた男がぴったり躰をくっつけた形でホームに出てきた。少女は俯いたまま。男は少女の背中にぴったりと付き、相変わらず目を見開いている。
 満は目を疑った。
 セーラー服の少女は、男から離れようとしない。
 そればかりか、乗り込んでくる人の波に紛れ、またも電車の中に男と歩調を合わせて入っていくではないか。満も慌てて後を追った。背後から詰め込まれてくる人々に押されて、躰が反転した。一瞬少女と男を見失ったかと思ったが、その心配はなかった。
 気が付くと満は、少女の真正面に立っていた。

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