セルジュの舌

作:西田三郎


■4■セルジュとの遭遇

 放課後、恵介の足取りは重かった。
 わけがわからない……“セルジュの舌”って何だ?
 恵介たちが暮らす郊外の町は、闇が落ちるのが早く、通学路には街灯も少ない。
 夜ともなれば、畑に囲まれた国道はほとんどが闇に覆われてしまう。
 その中で、通学路に あるコンビニエンスストアだけが、24時間明かりをたたえていた。
 上空から見れば、そのコンビニはこの界隈でもっとも輝く恒星のように見えるだろう。
 闇が空をおおってしまうまえに、恵介はコンビニに駆け込んだ。
 和男の家に見舞いに行くのに、手ぶらでは格好がつかないと思ったからだ。

 ピポパポパポン ピポパポポン

 自動ドアをくぐると……つん、と異臭が鼻をついた。
 慌てて店内を見回す……すると、奥の飲料用冷蔵庫の前に、灰色のコートを来た大男の後ろ姿が見えた。
 間違いない。その薄汚れたコート。垢でくしゃくしゃになった髪、それを覆う大きな紫のベレー帽。
 異臭のもとはその男であること、そしてその男がセルジュであることを、恵介は同時に悟った。

「……あァ……たシ あァァァ ゆぅぅめぇぇぇみぇル"ぅぅ しゃンそン にんきョョョョョョお……」

 低い声で、セルジュが歌っているのが聞こえた。明らかに、日本語だった。
 なんてことだ、友里江に、セルジュ。
 これまで噂の中にしか存在しなかった人間たちと、一日に二人も出会うことにとは。

「コォォォォコロ"にい いツモ しゃんソン あうれ”る にんきョョョョョョお……」

 その歌が何の歌なのか恵介は知る由もなかったが、しかし確かに……あれは日本語だ。
 セルジュが日本語で歌を歌っている。フランス人(だという噂)のセルジュが。
 そういえば、セルジュのことを噂している人々は、誰一人としてセルジュと口を効いたことがないに違いない。

「……ワァ……たシ あァァァ キイィイレ"ぃな しゃンそン にんきョョョョョョお……」

 一瞬、セルジュが肩を揺らして、頭をかしげた。
 慌てて恵介は商品棚の影に身を隠す。
 こっそりと覗き込むと……セルジュは顔をこちらに向けていた。

 その顔は……一口で言うなら、マントヒヒに似ていた。
 飛び出した前額骨がひさしをつくり、その奥の奥にある(のであろう)目を暗い影の中に隠している。 太くて、しっかりした鼻……モアイ像並みに立派だ……そしてなによりも圧巻なのが、顎のたくましさである。白い不精ヒゲに覆われた顎はせり出していて、ドア チェーンだって噛み切れそうに見えた。

(あれが……あれがセルジュ?)

 想像していたよりセルジュは大きかった。
 身長は一九〇センチ越えと聞いていたが、横幅もかなりあるのでまるで巨人のように見える。
 そして猛烈に臭かった。噂通り、あのコートはかなり汚れている。
 まるで動物園で猛獣の檻の前にいるように、そのすさまじい体臭が優に4mは距離を置いている恵介にも漂ってくる。
 あれが、フランス人なのか? 頭の上に、ベレー帽を載せているから? ……それだけで? そんなまさか。
 いったいあの得体の知れない外人が、なぜ“フランス人”として町中に知られているのか?
 とはいえ、「じゃあ一体、おまえは何人だと思うんだ」と聞かれれば……恵介にも明確な解答はできない。
 ただ、その出で立ちがあまりにも異形であること、自分たちとは異質であることを改めて認識するばかりだ。

「こぉぉのよあぁぁぁ バぁラ"いロ"のぉぉぉぉ ボんぼンみたいぃぃぃぃねえぇぇぇ……」

 気になったのは、セルジュの鼻歌の中で“ら”行の音がすべて、奇妙な響きであることだ。
 祖父がまだ生きていたころ、洗面台でうがいをしながら、よく痰を吐いていた。義理の父のそんな行動を、母はいつも苦々しそうな顔で見ていたが……あの“クゥワッ!”という音と、セルジュの発する“ら”行の音は、非常に似ていた。
 “ら”行の音を発するたびに、喉奥から痰をを絞り出しているような……そんなふうに聞こえる。
 セルジュが冷蔵庫の棚から缶ビールの6パックを取り、棚を離れた。
 恵介はセルジュの死角へ逃れようと……何事もなかったかのように雑誌コーナーの前に立ち、選びもせずに雑誌を一冊抜き出した雑誌を読んでいるふりをした。

 そして肩ごしにセルジュを見守る。

(えっ……な、なにやってんだあいつ……)
 セルジュは6パックのビールを抱えたまま、洋酒コーナーで赤ワイン(そのへんが、フランス人なんだろうか?)を取り、自分のコートのポケットに入れた。
 そればかりかセルジュは、手当たり次第に陳列棚から、サンドイッチやチーズ、漬物のパック、缶詰を数個、チョコレート菓子を何本か……店の商品をコートのサイドポケットや内ポケットに詰め込みはじめた。
(万引き? ……しかもあんなに堂々と……)
 あわてて店のカウンターを見た。
 制服であるコンビニのロゴ入りジャケットを着た、地味な感じのショートカットの女子大生風の女がぽつんと立っている。
 女はうつむいていた。少し、唇を噛み締めているように見える。
(気づいて……ないのか? それにしても……)
 セルジュの鼻歌と、鼻をつくが近づいてくる。

「だぁぁぁレ"でぇぇえも、いつぅぅぅぅでモ わら"イながらぁぁぁぁぁ」

 恵介は背中に覆いかぶさってくるようなセルジュの気配を感じながら、必死で雑誌を読むふりをした……が、手にとったのは中高年向けの週刊誌で、開いているページが熟女AV女優のヘアヌードグラビアページであることに、はじめて気付いた。
 背後では生活用品の棚から、セルジュが次々とものを漁っていく音が聞こえてくる。

「わぁぁぁぁたしがア うたうるぅ シャァァァソン 聞いておぅどぅり"ぃだぁぁすぅぅぅ……」

 セルジュが、恵介の1m圏内に新入してくる。すさまじい悪臭と、低音で響いてくる鼻歌。
 逃げ出そうか? 恵介は思った。こいつはやはり、噂どおりまともではない。いかれている。
 モラルもマナーもない。得体が知れない存在だ。

「ドナいや けいキ あ どなイや」

 はっとして恵介は振り返った。
 セルジュが、カウンターに腰掛けけて勝手に肉まんの保温器を開け、カレーまんをむさぼり食っている。

「……あの子がいいのね? あたしのことなんて、もうどうでもいいのね?」
 カウンターの中の大学生のバイトが、うつむいたままセルジュに言った。
「そんナこと あら"えン お前のコト 愛しとル"ガナ」
 セルジュがカウンターに腰掛けたまま、バイト学生の頭に手を伸ばし、抱き寄せた。
「いや、やめてセルジュ……こんなとこで……お客さんもいるじゃない」
 “お客さん”というのは……いまのところこの店では恵介ただ一人だ。
「かまヘン かまヘン がナ」
 そして……セルジュはバイト学生を抱きしめ、その唇を奪う。
 恵介は思わず、手に持っていた雑誌を床に落とした。

 チュバッ……ヌチュッ……ジュルッ……ヌチュ……

 恵介は目を見開いて、セルジュがその野暮ったいバイト娘の口内を蹂躙するのを眺めていた。
 バイト娘はぐったりとしおたれ、セルジュの濃厚なキス……というかベロチューに身を任せている。
 やがて……バイト娘が薄目を開けて、恵介のことを見た。
 しかし、目を閉じて……セルジュの唇に自分から貪りついていく。
 恵介の場所まで、湿った水音が届いてくる。
 恵介の存在はまったく無視されていた。まるで透明人間にでもなったような気分だ。

 気がつくと恵介は、商品棚からプリン二つを握りしめて……店から飛び出していた。


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