セルジュの舌

作:西田三郎


■3■和男の不在と友里江との会話

 その翌日、クラスに和男の姿はなかった。
 その翌日も、さらにまた翌日も、和男は登校してこなかった。
 恵介には連絡もない。LINEでも返事をよこさない。
 何か、イヤな予感がした……その日の昼休み、恵介は担任の江藤を廊下で呼び止めた。

「先生、和男……どうかしたんですか?」
「えっ、恵介くんも知らなかったんだ……二人、仲がいいから連絡取り合ってると思ったんだけど……」

 江藤は昨年この中学に赴任してきたばかりの新人教師である。
 いつも学校ではトレーナーにジーンズというラフな格好だが、大きな目の愛嬌のある顔立ちと、 トレーナーを持ち上げる案外豊かな胸、そして無防備に晒しているボリュームのある尻で、男子生徒たちの間ではそれなりに妄想の対象となっている。
 いつも明るく、芯が強い性格。学生時代は女子サッカーで鳴らしたという。

「家族の人とか、なんか言ってました?」いやな予感が胸の中で大きくなっていく。「おれも連絡取ろうとしてんだけど、全然返事よこさなくて……」
「ううん……お母さんからは“風邪を引いた”って連絡をいただいてるんだけど……よっぽどひどい風邪なのかな? ……よかったら恵介くん、お家まで様子見に行ってあげてよ!」
「え、あ……はあ……はい……」
 まさか、そんな役割をいきなり任されるとは思っていなかったが、恵介は首を縦に振っていた。
「何かわかったら教えてね。和男くんによろしく言っといて」
「は、はあ……」
 そのまま江藤教諭は鼻歌を歌い、多くの男子生徒たちの欲情の標的になっているその魅力的な尻を揺らしながら、職員室のほうに去っていった。
 
 と、そのとき、恵介は背中に視線を感じ、反射的に振り向く。

 廊下の果て……そのまたさらに果てにある渡り廊下の向こうに、人影があった。
 距離にして40mは離れている。昼休みの時間。廊下は笑い、走り、ふざける生徒たちで溢れている。
 それでも、恵介には廊下の真ん中に立ったその人影が、誰であるかわかった。
 そして、そいつが自分のことをじっと見ていることも。

(友里江……)

 学校の中で彼女を見かけることはほとんどなかった。上級生であるということもあったが……実際は彼女と口を効いたこともなければ、そばにさえ近寄ったこ とはない。彼女が誰にでもやらせるヤリマンだというのが彼女に関する噂のすべてだったが、その噂のために、恵介は無意識のうちに友里江に近づくことを恐れ、避けていたのかも しれない。
 その友里江が、廊下のはるか向こうから恵介を見つめている。
 あまりにも遠く、顔は長い栗色の髪に隠れているので……表情を伺うことはできない。
 しかし、視線は感じた。
 恵介はその場に立ち尽くし、硬直していた。“全身が”という意味で特定の部分が、というわけではない。
 二人の間には生徒たちが残り少なくなった昼休 みの時間を精一杯謳歌しようと、笑い、跳ね、走り、囀っている。
 しかし、友里江の視線は恵介をその場に貼り付けていた。強引に引き寄せ、関係することを求めている。

(……なんだよ……なんなんだよ)

 友里江がこちらに歩み寄ってくる気配はない。
 友里江は視線で、“こっちに歩いておいで”と言っている。
 気がつくと恵介は、引力に従うように友里江のほうに向かって歩き始めていた。

 何人もの生徒たちとすれ違い、ぶつかりそうになりながら、どんどん友里江に近づいていく。
 友里江まであと5m……ここまで友里江に近づいたのは始めてたった。

 たしかに、友里江は他の女性とたちと比べて、ぐっと大人びていた。
 紺色のブレザーの前ボタンは外され、襟元のボタンは第二ボタンまでが外されている……だらしなく垂れた臙脂色のリボン……他の女子生徒も同じものをつけ ているのに、それはまるで淫らさのシンボルのようにも見える。ブラウスの胸元は過剰なまでに発達した乳房ではち切れそうだった。
 スカートは……千帆が 言っていたように、“今どき”にしては丈が極端に短い。骨盤もその年齢の少女にしては発育がはげしく、紺のフレアスカートの中で張り詰めている腰のボリュームは、担任教 師の江藤にも負けていない。大部分が露出した太腿と、メリハリのあるふくらはぎへのライン。
 黒いハイソックスが、足首でこの身体の放埒さを戒めているよう に見える。

 突然、友里江が顔を上げる。
 栗色の髪が顔半分を覆っている。三白眼とも言える瞳。視線は鋭かった。

「近くで見るとどう? やっぱり噂どおりにエロい?

 囁くような、大人っぽい声だった。

「え?」
「噂してるでしょ、みんなであたしのことを……あんたもしてるでしょ? あたしが誰にでもヤラせる女だとかなんとか。ほかにどんな噂をしてんの?」
「きょ、興味ないね」

 実際、友里江とはじめて対峙して、その性的魅力をありありと感じたところだった。
 恵介はもともと友里江に関するそうした噂に関しては積極的に関わってこなかったので、否定したとしてもそれは嘘ではない。

「なんであたしのところまで歩いてきたの?」厚めの唇がくにゃり、と歪む。「ヤラせてくれ、って頼みにきたの? ……こんな昼間っから? てか、見かけによらずおませさんなんだね」
「そうじゃねえよ!」ここでムキになってしまうのが、童貞ゆえの弱さだった。「なんだよ、その上から目線の態度はよ、学年がひとつ上で、セックスしたことあるからって偉そうにしやがって……」
“したことある?”……あはは、うける、あははははあは」

 そこではじめて、友里江はその年頃の少女らしい笑顔と仕草を見せた。
 恵介はバカな言い方をした、と後悔した。そうだった、この女は、“したことある”どころではなくて“ヤリまくっている”のだ。いかにも童貞らしい、バ カっぽいことを口にしてしまった。同学年の、同じクラスの生徒たちだって、ヤってるやつらはヤっているはずだ。
 たぶん、友里江の目には、顔を真っ赤にして涙を堪え ている幼児のような、情けない自分の姿が映っているのだろう。悔しかった。

「……笑うな! だいたい、おれのことじっと見てたのはおまえのほうだろ? 何か用か、って言いたいのはこっちだよ」
 友里江はひとしきり笑うと、呼吸を整え、吹き出すのを堪えるような顔で恵介を見た。
「そうそう、あんたのこと見てたの……あんたの友達の……ええっと……カズちゃんに聞いたから」
「カズちゃん? ……和男のこと?」
 予想外だった。まさか、友里江の口から、自分が気にしていた友人の名前が出てくるとは。
「そうそう、カズちゃんの友達なんだよね、あんた。カズちゃんに負けないくらい、可愛いじゃん」
「和男と話したって……いつ?」

 信じられない。4日前、セルジュと裕子のことを話して暗い目をしていた和男のことを思い出す。

「3日前の夜……あの子、裕子ちゃんのことが本当に好きなんだね……だって、いきなり押しかけてくるんだもの」 
「押しかけてきた? 和男が? ……いったいどこに?」
 そこでまた、友里江が意味ありげに笑う。濡れた、赤い、やわらかそうで、ボリュームのある唇。
 恵介はその唇から、スジコを連想した。
「どこにって、セルジュの家よ……あたしとセルジュがベッドでエッチしてたら、いきなりカズちゃんが窓にコンクリートブロックを投げ込んできて……」
「ブロック? 和男が? そんなまさか! ……っていや、ちょっと待て。せ、セルジュの家だって?」
「そうよお……カズちゃんがブロック放り込んできたとき、あたしとセルジュがどんなことしてたか、聞きたい?」
 友里江が小首をかしげる。まるで幼稚園児に対応する保育士のお姉さんの仕草で。
「いや、そっちじゃなくて、なんで和男がそんなことを?」
「ふん、つまんないの」友里江はそっぽを向いてしまった。「……詳しいことは本人に聞けば?」
「あいつ、病気で寝込んでる、って聞いてたけど……」
「病気?」友里江が目を細める。「まあ、病気かもねえ……だって、セルジュの舌を知っちゃったんだから」
「セルジュの舌?」

 不気味な響きだった。友里江の唇のすきまから、チロっと舌先が飛び出してくる。
 そしてそれが、淫らに、円を描くように動いた。
 恵介は、名も知らぬ深海の海綿生物を見ているような気分だったが……その動きから目を離せない。
 やがて、舌が“ちゅるっ”と音を立て、巣に戻るように唇の割れ目へと消えていく。
「あたしも、裕子も、ほかのみんなも……それにカズちゃんも、同じ病気なのかもね」

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