セルジュの舌
作:西田三郎
■24■ なぶり殺しの町
「おぐ、おぐる、ぐるえぶ、えぶ、えぶっ……」
セルジュが口元を抑えたまま立ち上がり、よろよろと玄関のほうに向かって歩き出す。
セルジュの歩いた後には、おびただしいほどの血が流れ、床を汚していった。
「あ、あなた……」
母が青白い顔をして包丁を手にしたままの父を見上げる。
「もう大丈夫……おれに任せなさい」
父は包丁を口に挟むと恵介を助けお越し、まとわりついたままのセルジュの舌を、息子の体から引き剥がした。
そして、床に散乱していた恵介の服を集める。
「服を着ろよ、恵介」
「う、うん……」
恵介はパンツとズボンを履き、シャツのボタンを二つか三つ留めた。
「さあ、恵介……セルジュを追いかけるぞ」
「えっ……」
「あなた……」
全裸の母が、床から父を見上げている。
父は何かを思い出したように、自分が来ていたカーディガンを脱ぎ、母の裸身に優しく掛けた。
母は戸惑い、混乱している様子だ。
「もう大丈夫だ。セルジュはおれと恵介が片付ける……君が悪かったんじゃない。ぜんぶあいつが、セルジュが悪いんだ。おれたち夫婦も、おれたち家族も、この町も、きっと元通りになれる」
そういって母を抱きしめる父を尻目に、恵介は廊下に出る。
セルジュがコート掛けに掛けてあった自分のあの灰色のコートを、全裸の上に羽織ろうとしていた。
床も、玄関も、たたきも、セルジュが吐き出した血で真っ黒だ。
やがて父が、ゴルフクラブを手に恵介の後を追ってくる。
さっき、母か恵介の頭を叩きのめしたアイアンだった。
父が「さあ」とでも言いたげに、そのグリップを恵介に差し出す。
佳祐はそれを両手でしっかりと握り、勢いよく廊下を踏み出した。
が、セルジュが流した血糊のせいで、足が滑る。
セルジュの頭頂部分を狙ったはずだったが、ヘッドはセルジュの肩に食い込んだ。
「あおうぐお!」
衝撃を受けたセルジュが、ドアにぶつかって倒れる。
そして、改めてどばっと大量の血を吐いた……玄関の叩きを溢れさせんばかりに。
ぬめる血の中で恵介がなんとか立ち上がろうともがいていると、父が走り出てきてセルジュの顔を、斜め横にすぱっと切りつけた。
「るあうぐ!」
セルジュが顔を抑える。その指の間から、また黒い血があふれて吹き出す。
それでもセルジュは立ち上がった……玄関ドアのノブに手を掛け、ドアを開ける……そして家の外に転がりだした。
父が靴も履かずに、その後を負う。父は門を出ようとしているセルジュの背中を、バックハンドの要領でズバッ、と斬り上げた。
「あああおうぐ!」セルジュが叫ぶ。「うごおあがごごごががご!」
血まみれのセルジュが、よたよたと歩いていく。その方向は西……彼の家がある方向だ。
恵介もまた靴も履かずに家から飛び出し、セルジュに走り寄ると、今度は確実にアイアンを側頭部にヒットさせた。
カーン、といい音がした。
「うがあっ……」
セルジュが前のめりに倒れる。
しかし彼は、またも起き上がった……そして、大量の血を吐き、流しながら、ゆっくりと自分の家がある方向……西を目指して歩いていく。
恵介と父はそれぞれの武器を手にしながら、一定の距離を置いてその後ろを追った。
そのたびにセルジュが、獣のような叫び声を上げる。
いや、獣の「ような」じゃない……と恵介は思った。あれは獣なのだ。
恐ろしい、手負いの獣なのだ。
「るごおおおおご! ぐべ! ぐるるるるるべ!」
血を履きながらわめくセルジュ……セルジュと、その少し後ろを歩く恵介と父が通った跡には、大量の血の跡が続いている。
誰か家の前を通り過ぎるたびに、何事かとその家の家族が玄関に飛び出してきた。
血にまみれ、よたよた歩いているのは、セルジュだ。
そしてその後を、包丁を手にした父と、ゴルフクラブを手にした息子がつけていく。
家族を家の中に入れ、カギを掛けて電気を消してしまう家もあった。
しかし驚いたことに……まったく逆の反応をする者たちのほうが多かった。
家族を家に入れるまでは一緒だが、木刀や竹刀、ゴルフクラブや金属バット、シャベルや高枝きり挟などを持って、恵介と父の後ろに続く者たちが……一人、また一人と増えていく。
中には手ぶらの者たちもいた。
全員が男で、セルジュがふらふらとスーパーの駐車場を横切ったときには、その数は30人には達していたかも知れない。
スーパーからも、その様子が見えたのだろう……十数人がスーパーから出てきて。その凄惨なパレードに加わった。
セルジュは何度も倒れたり、膝をついたりした。
その度に武器を持った数人の男たちが、セルジュの頭を小突いたり、木刀などで殴りつけたり、石つぶてを投げつけたり、蹴りあげたりする。
そうするとセルジュは苦しそうなうめき声をあげて、のっそりと立ち上がり……また家のほうに向かって歩き出す。
コートはほとんどボロボロになっていて、いたるところに穴が空き、毛むくじゃらの背中や、ジープタイヤのような尻が覗いていた。
セルジュを追い詰める人間はどんどん増えていく。
町の外れの道……右一面がキャベツ畑で、左一面がタマネギ畑の一本道に、なんとかセルジュが辿りついたときには、人々は長蛇の列をなし、先頭に立っている恵介が振り向いても、その行列の最後尾は闇に吸い込まれて見えなかった。
またセルジュが膝をついたとき、誰かが長い高枝きり挟を槍のように突き出し、セルジュの背中をずぶりと突き刺した。
列をなしていた男たちから、ヒステリック歓声があがる。
「おごあぐろぐろぐえっ!」
セルジュはのけぞり、そのハサミの先端を引き抜かれると同時に、うつぶせに倒れた。
倒れたセルジュの背中から、血が吹き上がっている。それが道路に流れ、道の脇の排水口に飲み込まれていく。
セルジュは動かなくなった……男たちの列からも歓声がやみ……全員がしんと静まり返った。
しかし、ぴくり、とまたセルジュの手が動く。
なんと、セルジュはなおも立ち上がった。
男たちはそれを呆然と見上げていた。
セルジュが一瞬、群れをなす男たちを血に固まった髪の隙間から睨みつけた。当然、先頭にいた恵介とも目があった。
男たちはしばらく静まりかえっていたが……誰かがセルジュの顔をめがけて握りこぶし大の石を投げつけた。
「るぐあっ!」
避けようとするセルジュの背中に、無数の石つぶてが降り注ぐ。
セルジュは男たちに背を向けて、ふらふらしながら、それでも確実に自分の家を目指して歩いていった。、
やがて、あの六角塔をいただくセルジュの幽霊屋敷が見えてくる。
セルジュはゆらり、ゆらりと揺れながら……何百発もの石つぶてを浴びながら、敷地の前の坂を上っていく。
セルジュが自分の家の敷地に足を踏み入れたとき、男たちの列が一斉にセルジュに襲いかかった。
そこから先、セルジュがどうなったのか、恵介ははっきりと見届けてはいない。
多くの人間が、輪になってセルジュを取り囲み、それぞれが持参した武器で……武器を持っていない者は手や足をつかって、セルジュを痛めつけていた。延々と、まるで終わりがない祭のクライマックスのように。
その後、誰かがガソリンを持参していたのか……セルジュの家に火が放たれた。
火はあっという間に燃え広がり、六角塔も炎に飲み込まれていった。
人々がセルジュの周りから離れる様子はない。
燃え盛る家の前で、100人はいようかという男たちが、セルジュを責め立てていた。
恵介はその輪の中から、一人の男が這い出してくるのを見た。
あの、ゾンビのようだった和男の父だ。
和男の父は、右手から何かをぶら下げている……恵介が目をこらすと、それが人間の耳であることがわかった。
セルジュの家が焼き尽くされ、一階部分が崩落する。
どこかであの異形の犬が、ヒステリックに吠え続けていた。
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