セルジュの舌
作:西田三郎
■25■ 千帆
すべては無駄だった。
あれから一年が経ち、千帆は小学校6年生になった。
去年より、7センチも背が伸び、顔立ちも仕草もすっかり大人らしくなっている。
新しいクラスの男子たちはもちろん、女子たちにも千帆は馴染めなかった。
5年生だったときはそんなことはなかったはずだ。子供らしく笑い、子供らしく感じていた。
しかし12歳になったいま、すべてがバカバカしく、空々しく感じられる。
「“……千帆ちゃんはだれが好き?” って? “……もう好きな子、いるんでしょ?”って?」
橋をわたりながら、千帆は今日、学校にやってきた大学生の教育実習生のことを思い出していた。
下膨れの、青白い、冴えない男だった。
ぜったいに大学では、大学中の女子学生たちからキモがられているに違いない。
「あいつはロリコン……ぜったいまちがいない」
千帆はまた口に出して言った。
そうに決まっている。担任の教師に紹介されたときから、あいつの視線は女子児童を一人ひとりチェックしていた。
その目が千帆に止まったとき、千帆は心底ゾッとした。
そして昼休みに、いきなりさっきの質問をぶつけてきたのだ。
そりゃまあ、そういう男が千帆に目を止めるのは仕方がないだろう。
なぜなら、千帆はクラスで一番きれいで、かわいいのだから。
そう言ってくれるのは、何もセルジュだけではないだろう。
橋を渡り終えたとき、千帆は路肩に奇妙な甲虫のようか形をした、クラッシクな車が停まっていることに気付いた。
車の前には、三人の男が立っている。
全員が黒いスーツを着て、黒いネクタイを締めていた。
一人はハゲ頭の小男。
一人はターミネーターみたいに筋骨隆々な男。
もう一人は……これが一番奇妙だったが、まるでハリガネのように痩せている男。
最後の一人は、風に揺らされているようにゆらゆらと頭をふり、全身をクネクネさせている。
(なんか……ヤバい。とくにあのクネクネ)
千帆は危険を察知した。そして、早足でその車の前を通り過ぎようとする。
すると、男たちのうちの三人うちのひとり……はげ頭が、千帆に声を掛けてきた。
「君が……千穂ちゃんかい? 恵介くんの妹の」
「えっ……」千帆は思わず足を止めてしまったことを後悔した。「そう……ですけど」
ヤバい。ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい。
このままあたしはこの三人の怪しい男たちに押さえ込まれて、車中に拉致されて、どこかの山奥の倉庫みたいなところに連れて行かれて……三脚つきのカメラの前で、この男たちにさんざんいやらしいことをされてしまうのだろうか。
実際、今年の春、クラスメイトが似たような被害に遭ったばかりだ。
いま、彼女は元気に立ち直って、ふつうに学校に通っている。セルジュのおかげだ。
「恵介くん……お兄さんの様子はどうかね?」
「…………」
千帆はうつむいて、苦々しい顔をした。
何なのよ。うちのクソ兄貴とあんたらと、何の関係があんのよ。
……恵介は町中の男たちがセルジュを襲い、家を焼き払ったあの日から……ほとんど自分の部屋にこもり、出てこなくなった。
学校にも行っていない。
千帆の部屋は恵介の部屋の隣りなので、はっきり言ってうんざりしていた。
兄である恵介は日がな一日……いわゆるマスターベーションを繰り返している。
その声と呻きを、毎晩毎晩、壁を隔てて聞かされている千帆は、もう気が狂いそうだった。
隣りの部屋から、へんな匂いがしてくるし……。
「お父さんやお母さんは元気かね? ……あれから、仲良くやってるかね?」
「『あれから』って、いつからのことですか?」
千帆はハゲ頭を見上げながら言った。ハゲ頭は、にやり、と笑うと千帆に顔を近づけて囁く。
「このイナカ町の男たちが、セルジュを主役にしてバカげたお祭り騒ぎをした日から、だよ」
……そう、あれから一年になる。
よくわからないが、町中のほとんどの男たちが、セルジュを痛めつけ、喚きながらセルジュの家に火を放ったのだ。
……それなのに、誰も警察に捕まらなかっ た。セルジュの家が完全に焼け落ちるまで、消防車さえ出動しなかったらしい。
そのことは、町ではタブーになっていた。なぜか誰もそのことについて、多くを語ろうとし なかった。
ただ、あの事件のことを『バカげたお祭り騒ぎ』と評したハゲ頭の言葉に、千帆は親近感を持った。
千帆自身も、そんなふうに感じていたからである。
だから、千帆はハゲ頭に正直に答えた。
「お互いにほとんど口も効いてないし、あたしともあまり話をしません。兄もです。うちの家は……すっかり、変わっちゃいました」
どうでもいいけど、と言い沿えたかったが、千帆はそこまでハゲ頭に心を許していない。
「そうか……それじゃ、寂しいだろう?」
ハゲ頭が首をかしげる。
「べつに」
そっけなく答えてやった。
「いずれ慣れるよ。またきっと、家族がもとどおりになる日がくる……そうさ、そうなるさ」
「……あの……用事があるんで、あたし、もう行っていいですか?」
ハゲ頭はニヤリと笑うと。声を潜めてこう言った。
「セルジュの家に行くのかい? ……じゃあ、われわれの車に乗っていくかね? 送っていくよ」
「いえ。いいです」
千帆はきっぱりと拒絶した。
「なぜ?」
「知らない人の車に乗っちゃいけない、ってジョーシキでしょ」
千帆の言葉に、三人の男たちは大笑いをはじめた。
ガハハ、ワハハハハ! ……ハゲ頭が豪快に笑った。
ヒッヒッヒッヒ! ヒャッヒャッヒャッヒャ! イーヒヒヒヒヒッ!……ハリガネ男も揺れながら笑う。
ターミネーターも、アハッ! ヒハッ! ブワハハハハッ!とバイクのエンジン音のように笑い出す。
千帆はものすごく屈辱な気分を感じた。
なんでこんな怪しい連中にバカにされなきゃなんないわけ……?
そして笑い転げている男たちを置いて、何も言わずに歩き出した。
「セルジュによろしく!」
背後から、ハゲ頭の声がした。
坂道に差し掛かり、六角塔の上の風見鶏と避雷針が見えてきた頃には、さっきの三人に対する怒りや、今日から学校にやってきたロリコンの教育実習生のことなど、すっかり忘れていた。
敷地に足を踏み入れ、真新しくなったセルジュの家を見上げる。
いっときは誰もが驚いたものだ……家事で焼け落ちたセルジュの家が、三日で元通り、何事もなかったかのように建て直されたのだから。
千帆に気づいて、車の影から大きな黒い犬が顔を出してくる。
あ、あの車……と、千帆は思った。
セルジュの車とおんなじかたちだ……三人組が載っていたのは、もっと真新しく、黒光りしていたが、セルジュの錆色の車とそれは同じものだった。
「おいで……クロ"エ」
クロ"エ、というのは、その犬の名前である。
丸々と肥え太り、いつも泥だらけで埃まみれ、ドレッドのような体毛を垂らしているが、おとなしいメス犬で、千帆によくなついていた。
クロ"エの名前を呼ぶときは“ロ"”の発音に気をつけなければならない。
ずっと前に亡くなった、おじいちゃんが洗面台で痰を吐いていた、あの要領で。
クロ"エは、千帆がポケットから出した給食の残りのチーズや干しぶどうを、美味しそうに食べた。
クロ"エはなんでも食べる。飼い主のルジュと、そのへんがよく似ていた。
と、千帆の体がふわり、と浮き上がる。
「……チオ! ちお やナイ ケ!」
千帆を抱き上げたのは、セルジュだった。
セルジュは、千帆の“ほ”を字をちゃんと発音しない。
千帆はセルジュの右耳にキスをした。そして、左耳をセルジュが差し出してきたので、そちらにも。
「今日はもう、誰かきてるの?」
千帆はセルジュの首に抱きつき、その無精ひげにまみれた類人猿のような顎に頬ずりした。
「ゆり"えと、ユウ子 と 江藤センセイが 来とる" で……わレ" の オカンは、午ゼン中に、帰っタわ」
「サイアクー……まだ、うちのババアと切れてないんだ」
千帆が頬を膨らましてセルジュの顔を睨む。
「なニ 言うてんネん……おれガ いちバン 愛しトン のは ちオ やがな」
そういって、セルジュは人差指と親指で千穂の顎をくっ、と上に向かせると、その小さな唇を奪った。
「んっ……」
たちまちのうちに、千帆の舌が絡み取られる。
クロ"エを残して、セルジュは千帆をお姫様のように抱きかかえたまま、家の中に入っていった。
唇を重ね、お互いの唾液を交換しながら。
言うまでもないがセルジュの舌は、元どおり再生していた。
<了> 2015.3.30
【アルファポリス第8回 ホラー小説 大賞エントリ作品】
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