セルジュの舌
作:西田三郎
■21■襲撃
恵介は聡明な少年だった。
だから、母がセルジュとことに及んでいる部屋のドアを、蹴破るような無謀なことはしなかった。
その代わり、階段の下の死角に座り込み、セルジュが部屋から降りてくるのを待った。
果てしないほど長い時間、セルジュが母を蹂躙する声と、それを熱烈に迎え入れる母親の声を聞いていなければならなかったが……思ったよりそれは辛くなかった。これから自分がやろうとしていることの結果を思えば、そんなものは辛くともなんともない。
リビングで血を流しながらも飲んだくれている父と同じように、母も死んでいるのだ。
喘いでいる女は、この町のほかの女と同じ、ただの女だ。
この町に住んでいるというだけで、“自分の母”という特別な存在ではない。
だから上で喘いでいる女を、特別に責める気にもならない。
セルジュがこの町にいる限り、これは避けようのない事実なのだから。
「あっああっ……ああああああっ……あああああああああっ……いくっ……いくっ……ま、またイっちゃうっ……お、お願い、セルジュっ……イッて! 今度こそ、一緒にイッてえっっ!」
「またイくんかいナ、 オんマ おマえは そこナシ やナ どんダケ イッタら" 気がスムねん」
「許してっ……もう、もう壊れちゃうっ! これ以上イッたら、おかしくなっちゃうっ!」
「そしたら"、そろソロ" 堪忍しタル"か おマえの 中に、鉄砲水みタいに、流しこんダる" サカいな……三人目の子どもア、 わしト オマエ の子ヤ」
「きてっ!きてっ! …………あっ……うっ……あ、あ、あああ、あ"あ"あ"あ"……あ"あ"あ"あ"あっ!」
「おリャ どナイや、ホレ"、一滴も コボさず、吸い込むん やデえええ!」
その直後、二人が同時に上げた雄叫びは、文字列に変換することができない。
あれは獣の巣窟から響いてくる声だ。恐竜時代から時を越えて届いてきた声だ。地獄の亡者たちの呻きだ。
しんと静まりかえる我が家。
佳祐は、手にしたナイフの柄を、ぎゅっと握り締めた。
そのあとに続く静寂も長かった……気がつけば、明かりを灯していない家は真っ暗になっている。
身を潜め、耳を澄ましていると、二階から声がした。
「ほナ ちょット 風呂、カリる わ」
母の返事はない……失神しているのかも知れない。
寝室のドアが開く音……廊下が軋む音……そして、階段を降りてくるセルジュの足音……それは重々しかった。まるで、ヒグマが直立して階段を降りてくるか のような、ずっしりした足音。ギシィッ、ギシィッ、ギシィッと階段が悲鳴を上げる。
浴室は、階段を降りて左手にある……恵介が身を潜めている物陰は、セルジュ にとって死角になるはずだ。
ギシィッ……階段を降りきった音。
恵介は息を停めて、階段の影から首を突き出した。
そこに全裸のセルジュが背を向けて立っていた。
薄暗闇の中で、それはコンクリートブロックで作られた壁のように恵介の視界を遮っている。
全裸のセルジュを見たのは……もう二度と見たくはないが……それがはじめてだ。
天井に届きそうな長身に加え、広い肩幅。
分厚い脂肪の層が腰一体を覆っているため、その背中はカバやサイ、ゾウのような大型哺乳類を思わせた。
ジープの タイヤくらいある尻は、まさにそういう類の動物の皮膚を思わせる……定期的に大根おろしで削っているようなささくれだった尻だ。
背中一面を、黄金色の剛毛 が覆っている。その拷問の中に、分厚そうな皮膚の下に、何万匹もの寄生虫が蠢いているとしても、何ら不思議ではない。
恵介もこれまで……今は死んでしまった和男と町の外れのスーパー銭湯に出かけたときくらいしか、成人男性の裸体をまじまじと見つめたことはない。
あたり前だが、積極的に男の裸などまじまじ見たいと思ったことはない。
しかし今目にしている男の裸体からは、目を背けずにおれなかった。
それが醜怪であるという以上に、これこそが、自分が追い続けていたものだ。
目の前に立っているのは、この町を覆い尽くしている病そのものだ。
悪徳の象徴であり、不道徳の象徴であり、カオスの象徴でもある。
本来ならば姿を持たないそれらの概念が、今、実体を伴ってその全裸の背中を晒している。
それが息づいている。
セルジュは大きく伸びをしながらあくびをし、グキリと背中を鳴らし、おまけにその後、派手な音を立てて放屁までした。
あれはただの人間だ……恵介は自分に言い聞かせた。
だって、屁をこいてるじゃないか。鼻が曲がりそうな匂いが、ここまで届いてくる。
あいつは悪魔でも怪物でも異星人でもなんでもない。ただの外国人の男だ。
いまなら、できる。ああ、やる。やってやるさ。
セルジュが風呂場に向かって歩きだそうとしたその瞬間、恵介は階段の影から一気に飛び出した。
セルジュの背中は動かなかった。
恵介は包丁を握った手を思い切り頭の後ろに振り上げると、一気にその広い背中に向かって振り下ろした。
ガツン、という手応えがあった。
想像していたよりもずっと、確かな手応えだった。
「Aïe !」
セルジュがびくっ、と背中を震わせる。
見ると、包丁の刃先は……セルジュのホームベースのような肩甲骨に突き立っていた。
思ったより出血はない。包丁を抜こうとしても、骨に深く食い込んだ刃先はなかなか抜けない。
恵介はセルジュの尻に足を当て、思いっきり前に蹴り出した。
ボキン、と包丁の刃先が折れた。
ズドーーン、と大きな音を立ててセルジュの身体がうつぶせに廊下に倒れる。
恵介はセルジュの背中に馬乗りになって、さらに包丁を振り上げた。
刃先が掛けた包丁は、もう人の身体には突き刺さらないだろうか……? いや、そんなこ とを考えている場合じゃない。
いま、自分が手にしている武器は、この刃の欠けた包丁一本なのだ。やるんだ。やるしかない。
「オウ、おウ かんニンや かんニン やで」
セルジュが言った。言いながら、笑っている。
「ははは、あハハは、ヒヒ、イヒヒヒ……フヒ、フヘ、イヒ、イヒヒヒヒヒヒヒ!」
セルジュは得に抵抗しなかった。
次の襲撃に、備えようともしなかった。
ただ、まるで脇腹をくすぐられているようにヒステリックに笑い、手足をバタバタさせるだけだ。
「笑うな……笑うな!」
「ハハッハハハハ! ヒヒッ……イヒ、イヒヒヒヒヒヒヒ……フヒャハハハハハハ!」
セルジュは笑うのをやめなかった。
恵介は、セルジュの乱れた髪に隠れている延髄に狙いを定める。
そして大きく振りかぶる……と、その瞬間、がくん、と首が揺れた。
痛みは感じなかった……が、全身から力が抜けていく。
ぐらり、と視界が揺れて、天井が回る。そして身体が……のけぞるように、後ろに倒れていく。
意識を失う寸前、恵介が見たのは、全裸でゴルフクラブを握って立っている母親の姿だった。
恵介は上下逆にそれを見て、仰向けの姿勢で廊下に倒れた。
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