セルジュの舌

作:西田三郎


■20■盗 まれた町


「まあそう言わず、座れよ……よければ一杯やるか? とりあえず、その物騒なもんをこっちに……」
触るな!

 ゆらゆらと伸びてくる父の手をかわそうと、恵介は包丁を持ち上げた。
 弾みで、父の手の甲に刃が当たる。
 ぴゅっ、と鮮血がテーブルに飛び散った。

「いてっ……」
「あっ……ご、ごめん」

 父の手を切りつけてしまったことは、まったく意図していなかったことだ。
 父は左の手で、手の甲を抑えている。ポタポタと血が絨毯に滴っていた。

「あぶないじゃないか、恵介。そんなものを振り回しちゃ……」血を流しながら父が笑う。「ほら、ここに座れよ、包丁をテーブルに置いて……な、立ってない で座れって」
 そう言って父は、ポンポンと自分が座っているソファの横を叩いた。
 恵介は……父を傷つけてしまった引け目もあり……しぶしぶ父の横に座って、包丁をテーブルの上に置く。

 そこではじめて気付いた……父がテーブルの下で、ズボンとパンツを降ろして、しなだれた性器をむき出しにしていることに。
 床には無数の丸められたティッ シュが散乱していた。

「と、父さん……何を……」
「あ、これかあ……ごめんごめん、こーいうのは、父親として隠しておくべきだったかな……パンツを上げる のを、すっかり忘れていたよ……わかるだろ? 上からあんな声聞かされてちゃ、収まりつかねーよ。恵介、お前だったらわかるだろ? いちばんコレにハマる 年頃だもんなあ……」

 父の目はどんよりと曇っり、濁っている。
 白目が黄色く、いくつもの血管が浮き上がっている。黒目は灰色で、白目のほうへ滲みだしているシミのように見え た。

「これは……セルジュからの土産だよ」
 血の滴る手で、父がテーブルの上のウイスキーと“ゴロワーズ”のパックを指差す。
「あいつは……いつから母さんと? っていうか、父さんはあいつと母さんのことを知ってたわけ?」
 父がビンを危なっかしい手で持ち上げ、6分の1ほど残っていたウイスキーをグラスに注いだ。
 手の傷から滴った血が数滴、瓶に落ちウイスキーの中に溶け込 んでいく。
 父はそれを、一気に飲み干して、「ああ……」とため息をつきながら天井を見上げ、ぐきりと首を鳴らした。
「知ってたよ……セルジュが警察から釈放されて、3日目だったかな……会社の帰りにスーパーに寄ったら……ガレージにうちの車が停まってたんだ」
「そ、そんなに前から?」
「ああ」
 父はタバコを一本咥え、火をつけた。
 強烈な香りのタバコだ……セルジュの体臭を構成している、独特の香りのひとつ。
「それで、どうしたんだよ?」
 父はニタリと笑った口から、タバコの煙を帯状に吐き上げだ。
 そして傷ついた手を左手で握り、恵介の顔をじっと見つめる。ポタ、ポタ、ポタ……血の雫が、 絨毯に滴り続ける。
「……どうしたもこうしたもないよ……おれが遠くから見た時点で、うちの車が、激しくガタガタ揺れてたんだからな。ていうか、車が弾んでた、つってもいい かな? ピョンピョンピョンピョン、車が跳ねてたんだ……まるでディズニーのアニメに出てくる、生きた車みたいに」
「……で、父さんはどうしたの?」

 それでも笑みを絶やさない父を見て、恵介はどうしても、あの生ける屍のように萎れていた和男の父を思い出さずにおれなかった。
 絶望と無力感が人間をあん なふうに変えてしまうのだ。いずれ、父も和男の父と同じようになる……そして生きながら死んでいく。

「車に走り寄っていったさ……いや、あまりにとんでもない車の揺れっぷりだったから、実際に近くに寄るまで、父さんは何が起こってるのか理解できなかっ た。とにかく、母さんになにかが起こった、と思ったんだ……でも、車に走り寄っていくうちに……だんだん事情が飲み込めてきた」
「…………」
「ああ、車の中に、裸の女がいた。薄暗かったけど、フロントガラスから見えたんだ……素っ裸の女が、裸の背中と尻を揺らして、ぴょんぴょん跳ねてるのを……自分の家の 車だろ? その中に裸の女が見えた……となると……それが母さんだと気づくのがあたり前だ……たとえ後ろ姿でもね。でも、最初、父さんにはわからなかっ た……というか、おれたち家族の車の中で、素っ裸になってぴょんぴょん跳ねている女が、母さんだということが、頭の中でうまく結びつかなかったんだ……」

 タバコを吸いながら淡々と語る父の姿もまた、恵介にまるでまったく知らない男と話をしているような錯覚を起こさせた。
 声のトーンも、喋り方もまるでいつ もの父とは違う。これは父の抜け殻なのだ。

「それ……で?」
「父さんは車から1メートルくらい離れて、車を一周して確かめた……車のちょうど横にくると、ドアガラスから、そのぴょんぴょん跳ねている女のおっぱいが 見えた……でも、髪の毛で顔が隠れてて、その女の鼻と口しか見えない。いつも母さんは髪を後ろでまとめてるだろ? ……そのときはあまりに激しく動いたんでほ どけたか、自分でほどくかしたんだろうな……その鼻と、口と、二の腕と、大ぶりのおっぱいを横から見たけど、それが母さんだとはまだ断定できない……少なくともお れは……父さんは、そう考えた。で、車から一定の距離を保ちながら、どんどん車の後ろのほうに回っていった」
「…………」

 そのとき、父がどんな表情で車の周りをじりじりと回っていたのか、恵介にはとても想像できなかった。
 思い浮かべるだけで、身震いがした。

「ああ、車のちょうど後ろに来たとき、車のリアガラスに来たときだった……はっきりと、母さんの顔が見えた……っていうのも、母さんがあの大きなおっぱい を振り乱して、大きくのけぞったときに……母さんが髪をかきあげたんだ。見えた。はっきりと、母さんの顔が見えた。母さんは汗まみれで、顔を 真っ赤にしていた……目は半開きでさ、唇からは、涎がたれてた……一瞬、母さんと父さんは目を合わせた……そのとき、母さんがおれに気付いたのがはっきり わかった。ほんの一瞬のことだ……でも、母さんはおれから、視線を反らせた……そして、倒した車のシートに横たわっている男に……覆いかぶさって見えなく なった」
「それで……そんなことがあったのに、今日の今日までふつうに暮らしてきたのかよ!」
 佳祐は思わず声を荒げていた。
「まだ続きがあるぞ……聞きたいか? そのまま父さんは、車の周りを回り続けた……」
「もういい! もう聞きたくねえよ!」
「そしたら、どうなったと思う? ぎしっと、さらに車が激しく揺れて、母さんが下に、セルジュが上になったんだ……セルジュはおれを見たよ……そして、ニ ンマリわらって、下になってる母さんに何か囁いて……」
「やめろ! もう言わなくていいって言ってるだろ!」
 恵介はソファから立ち上がる。無意識のうちに、再び包丁を掴んでいた。

 と、二階から、さらに激しく大きな声が届いてくる。

「あああっ……セルジュっ……セルジュっ! すごいっ……すごいわっ……奥に、奥に当たってるっ!」
「ドナいや……ええんか……ええノンか……オンまに、子ども二人モ 産んだとア 思えエんカラ"ダや のう……亭主はアホやな……こんなエエかラ"だ、オったら"かしにしトルや なンて……」
「いっ……いやあっ……あの人が聞いてるのよっ……下で聞いてるのよっ……そんなこと、言っちゃだめっ!」
「ナンボでも、聞かせたったら"エエや なイか……かラ"だは ギンギンやけど、オンマにおマえの まんコ 、わしノんヲ 根元まで をしっかり" 咥え こんで ハナさんノウ……さすが、二匹も ガキ ひり"出した だケのことはアル"わ……わしゃ こーいうマンコが 大好きナンや……」
「だめえっ……そんな恥ずかしいこと言わないでえっ……あっ、あっ、あっ、あっ、あああああっ!」 

  ギシギシと揺れる天井……ちょうどこのリビングの真上が、父と母の寝室だ。
 あれが母の声なのだろうか?
 泣き叫び、嗚咽し、ときおりつんざくような悲鳴をあげる……その声は、ほかの女たちと変わらない。
 セルジュに目をつけられたら、誰もがあんなふうになる……あいつは手当たり次第だ。
 人妻だろうと、学校の先生だろうと、小学生だろうと、あるいは相手が少年であろうと、ひょっとすると老婆であっても、もしくは成人の男だったとしても、 誰もセルジュから逃れることはできない。

 誰にもセルジュを止める力はない。

 セルジュに何かを奪われたら、それはもう奪い返せない……和男の父や、自分の父がそうしているように。
 まるでコンビニやスーパーで万引きするように、セルジュは人間をくすねる。
 相手が男だろうと女だろうと、セルジュはその人間の尊厳をひょいと取り上げ、さんざん弄んだ挙句、ぽいと捨ててしまう。
 まるでセルジュの気まぐれに盗まれ、そのまま彼の家の前に乗り捨てられる自転車のように。

「まだあるぞ……聞いてけよ、恵介」
 父が次のタバコに火をつけている。
 恵介はそれを見届けると、リビングを後にした。

 父は死んでいる。もう手の施しようがない。






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