セルジュの舌

作:西田三郎


■19■侵略



 夢であってほしいと思った。これまで起きてきたことと同様、悪い夢であってほしいと。
 しかし、そうではない……これがすべての結果だ。
 どれくらい家の前で跪いていただろうか?
 5分間? 30分間? いや、1時間か2時間は過ぎていたかもしれない。
 なぜならいつの間にか太陽は傾き、遠い山の向こうに消え、あたりは紫色の帳に包み込まれてた。

 やがて、家のドアが空く。
 中から出てきたのは千帆だった。
  黄色のパーカーにショートパンツ姿。
 かなり青ざめた顔をしている。

「……千帆……」
  恵介は顔を挙げて言った。
「お兄ちゃん?」
 千帆の声も緊張で震えていた。
「どうなってんだ? ……いったい、何がどうなってる?」
 千帆は恵介の方に歩いてきたが、表情は冷たかった。
「どうなってるって……だいたいわかるでしょ? 家にセルジュが着て、お母さんが家にいる……だいたい、わかるでしょ?」
「……いつから? いつからこんなことに?」
 ふん、と千帆に鼻で笑われた。
「こ のまえセルジュが逮捕されたとき、そのことをあたしが話してたら、ママ、やたらセルジュの肩持って、あたしのこと叱ったたよね。それまではあたしと同じよ うに、セルジュのこと、キモい、キモいって言ってたのに……お兄ちゃんにも言ってたよね。噂ばっかり広げるな、とかなんとか」
「そ、そういえば……」

 確かにそうだった。確かに、セルジュの危険性に関して話していた恵介の言葉を、母は冷たく遮った。
“みんながどんな噂をしようと、それを広めないの、よけいな噂を増やさないの!
 母の言葉が思い出される。

「あたしはあの日、ママ、セルジュのことが好きなんじゃないか、とはっきり思ったよ」
「そ、そんなはずないだろ……?」
「鈍いよ、お兄ちゃん。いや、お兄ちゃんだけじゃなくて、お父さんも……なんだかんだ言って、結局セルジュのことなんか、自分とは直接関係ない、って思ってたんでしょ?」
「お前に……何がわかるんだ? おれがこれまでどれだけ……」
 恵介は千帆を睨みつけた。千帆は少しも怯まない。
「あたしは、セルジュに脚をニヤニヤしながら見られたときから、ちゃんとヤバいと思ってきたよ。お母さんにもお父さんにも、お兄ちゃんにも伝わ らなかったみたいだけど……みんな、“どうせセルジュなんだから”って思ってんでしょ? “どうせセルジュなんだから仕方ない”て思ってんでしょ?」
「…………」

 確かにそうかもしれない。返す言葉はなかった。
 ここで千帆と言い合いをしていたところで、何の意味もない。
 恵介は立ち上がると、ズボンの膝についた埃を払った。
 そして千帆を押しのけて、玄関のノブに手を掛ける。

「中に入るんだ……入らないほうがいいと思うけど」
「もう……ほっといてくれ」
 千帆のことを振り返ることなく、恵介は自宅のドアを開けた。

「……あっ、あっ、あっ、あっ……いやっ、せ、セルジュ、そ、そんなとこ舐めたら……」
 二階から聞こえてきたのは、母の声だ。
「なンヤ、だんナさん、 ここ、 なめテくれ" エンのカイな……舐めら"れたこと、 なインか?」
 言うまでもなく、セルジュの声。
「だ、だって、そ、そんなとこ、き、汚いっ……やっ……だ、だめえっ!」
 ジュルジュルと何かを吸い上げる音。
「ほんマ おマエは ええけツ しトル"のお……骨盤がり"っぱで、どうドウと しタ ええおケツや……一人目のおニイちゃんも、 二人メ の オジョウちゃんも 安産 やっタんト チャウんかイ?」
「こ、子どもの、子どもたちのことは言わないでっ! ……あっ! あんんっ! そこだめだって……」
「その子どモ と 一緒に 暮ら"しテる家デ、 ヨソの男に イジり"倒されて こんなニ 感じマクって、喘ぎマクッとル" おマエ あ、 オンマもん の 淫ラン人妻ヤのう……ほレ" 、ほレ" ガキ を ウたリ"もひり"出した、 アソこ ガ きゅうキュウ しメつケ とる"でえ……」
「あああああんんっ! ああああっ! ……せ、セルジュっ! セルジュ、も、もっと!……」

 恵介は特に何も感じなかった。

 よその家の前や、アパート、マンションの部屋の前で、散々聞かされてきた声と同じだ。
 セルジュの声はいつもと同じ。しわがれ声で、タンを吐くような“らりるれろ”の発音、奇妙なアクセントの関西弁……それに徹底的に陰湿に女の羞恥と背徳感を煽り、人格を踏みにじる言葉の数々。
 対して、それに応えている女の声も同じだ。
 たとえそれが母親の声であろうと。
 結局みんな同じ。
 誰もみんな、同じなのだ。
 玄関口にあるコート掛けには、あの灰色のボロ切れ……セルジュが年がら年中着ているあの薄汚れたコートが掛けてある。
 それが放つ異臭も、恵介にしてみればすっかり馴染み深いものになっていた。

「おマえの、娘も、すっかり"女に 成長しヨッタのう……千帆、やったケな。ええ脚しとる" で、アレ"は」
「や、やめてっ……こんなときに千帆の名前なんか出さないでっ……うっ……くううっ……」
「ますます、シメ つけトる" で この変態おんナ ……どなイや 今度、千帆ちゃンと 一緒ニ、うチに遊びニ けえエン か? ……娘と一緒に 一晩じゅう 可愛がったル" でえ……」
「そんな、そんなこと言わないでっ! 娘は、娘は許してっ……まだあの子は11歳なのよ……んああっ!」
「そんナン 言いナガら" ますマス 締めつケとル" がナ。 あレ"あれ"、ウともも 伝うて、もう、ダンナさんの ベッドの シーツが ぐっしょリ" やガな …… オれ」
「いや、いやああっ……こ、こんな格好、恥ずかしすぎるっ……み、見えてるっ!」
「ほな 息子さん のホウ は ドナいや……あんたニ 似て、えら"イ カワイら"しい 顔しトル" やナイ か……あれ"、 ほんまニ ダンナと作った  コか? ダレ"かれ" なしに 股開く おマえ の コトやサカい、どこぞの別の男に 仕込んで モウた 種と チャウんかい? どないヤ ねん?」
「ち、ちがっ……ちがいますっ……恵介は、わたしとあの人の子ですっ……あああんっ!」

 パーンと、柔らかい肉に張り手を打ち下ろされる音。

「あのお兄チャん わシ の こト つけ回しトる"ん ヤデ……一週間も ヤ……わシ に よっぽド 興味あル"ん やナア……あいツ も わしノ 舌 で  ヒイヒイ 言わせ たロ" か? 千帆チャん も お兄ちゃン も 一緒ニ 連れ"テ うチ に 来いヤ ……4人で 一晩ジュウ 楽しもうヤ ない カ」
 また、パーンと、柔らかい肉に張り手を打ち下ろされる音。
「あああんっ! だめっ! そんなのだめえっ! わたし、わたしだけにしてっ……わたしが、がんばるからっ! あたし、セルジュにすべてを捧げるからっ……お願いっ……他の誰よりも、わたしを愛してっ!」

 また、肉に平手が振り下ろされた。

 そのあとは、もう聞き取ることすらできなかった。
 二匹の獣の慟哭が、我が家を占拠している。

 もう、どうしようもない。家も、この町のほかの家と同じだ。
 セルジュは止められない。セルジュはそのうち、この町のすべてを手にするだろう。
 セルジュはミッキーマウスだ。この退屈な町にとって。

 それまで呆然と玄関のたたきに立ち尽くしていた恵介は、ようやく靴を脱いで家に上がった。
 そのまま、台所に向かう。
 ミシミシ、ドンドンと、二階からは家全体を揺さんばかりの音が響き渡っている。
 絡み合う二匹の獣の声と、そして肉を叩く音。
 恵介は流しにあった清潔なコップを手に取ると、水道水を注ぎ、一気に飲み干した。
 そして、流しの下の引出しを開け……一番大きな包丁を取り出した。
 これまで手に触れたことのない包丁だった。
 恵介がキッチンから出て、リビングを横切ろうとしたときだった。

「よお……恵介」
 芳雄は包丁を手に、ぴたりと立ち止まる。
 ソファに、ぐでんぐでんに酔った父がだらしなく座っていた。
 テーブルには殆ど空になったサントリーの角瓶、握りつぶされたビールの缶が4〜5個。
 禁煙して5年になるのに、灰皿にはうずたかく吸殻が溜まっていた。
 テーブルにはタバコのパックが二つ……ゴロワーズ、セルジュがいつも吸っているものだ。
「その包丁で、どうする気だ?」
 恵介は答えた。
「父さんがやろうと思っていて、できないでいることだよ」







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