セルジュの舌

作:西田三郎


■17■  江藤先生の復帰


 翌週の月曜日、担任の江藤が復帰していた。あの黒い服のハゲ頭が予言したとおりに。

「みなさんおはようございます。ちょっと体調を崩しちゃって心配かけちゃったけど、みんなは先生に会えなくて寂しかったかな? ……わたしはみんなに会えなく て、とっても寂しかったよ。教師になって2年目でこんなことを言うのはちょっとおこがましいけれど……やっぱり教師、っていうのはわたしの天職なんだと思 う。わたしは教師として職を得て、この学校のこのクラスの担任になりました。それはたぶん、運命だったんだと思います。わたしはこの町が大好きです。この 町に育まれた、みなさんが大好きです。この町の人々が大好きです。これからも、わたしは許される限りこの町で教師として精一杯がんばりたいと思うので、よ ろしくお願いね♪

 ダークスーツに白ワイシャツという凛々しい装いで教壇に立った江藤は、一気にそう語ると、ペコリとお辞儀をし、生徒たち全員にウインクまでしてみせた。生徒たちはまるで先手を打たれたように、呆然としている。
 恵介もその中の一人だ。
 しかし恵介は他の生徒たちが感じている、その不自然さの理由を知っていた。
 あの黒い服の男たちが言っていたこと、それが実現したのだ。
 乱された服で、む せび泣きながら、警察書へ車を走らせていた江藤の姿を恵介は確かにその目で見た。
 生まれて初めて……いや、これからの人生またあるかどうかわからない が……その目で見たレイプされた直後の女の姿だった。
 あの夜、幼児のように教え子の前で泣いてみせた江藤は、剥き身の素顔を晒していた。それが、恵介の記憶に刻 みついている。
 しかし、久々に出勤してきた江藤の様子はどうだろう?

「レイプの件はどうなったんだよ?」
「……セルジュは? セルジュはどうなったわけ?」
「なんで……あんなに元気なの?」
「ちょ……どうなってんだ一体?」

 完全に好奇心の出鼻をくじかれた生徒たちが、ヒソヒソ声でつぶやいている。
 しかし誰も、江藤にことの真相を聞く勇気はないだろう。
 だいたい、セルジュが逮捕後、3日で釈放されたことに関しても、生徒たちはあまり大きな関心を示さなかった。
 多少の噂が飛び交ったが、その話題の重要性 はいつもの噂話と同じようなものだ。
 たとえば友里江が頼んだら誰でもヤラせてくれる女だ、とかその類の噂と同じで……誰もほんとうのことを知らない。
 ほんとうのことは、いつも誰もの想像以上に不可解なのだ。
 
「それではひさびさに、出席をとりましょう♪ 相川さん、赤城くん、飯田くん、家永さん……」

 名前を呼ばれた誰もが一瞬、不可解な顔をしながらも、その表情を打ち消す。
 まるでセルジュと江藤の間にあった事実が塗りつぶされていくように。
 恵介の記憶にくっきりと刻み込まれていたあの夜の江藤の嗚咽、乱された服、警察書に ふらふらと入っていく彼女の後ろ姿……それがどんどん不鮮明になり、輪郭を失っていくのを恵介は感じた。

 昼休み、恵介は職員室の近くの廊下に立ち、江藤がやってくるのを待った。
 昼休みが4分過ぎ、廊下の向こうから江藤がやってくる。すれ違う生徒たちに、

「よっ!」
「元気してた?」
「最近どう?」

 などと声をかけている江藤の姿。
 以前から、この学校に務める教師たちのなかで突出した若さと快活さにおいて、秀でていた江藤だ。
 あの事件が起こるまでの姿と、いま恵介が目にしている彼女の姿は、少しも変わらないのかも知れない。
 すべてを忘れれば、なんの問題もないのかも知れない。
 すべてを忘れ、和男の死のことも不幸な死だったと自分を無理矢理納得させ、あの黒い服を着た男たちのことも幻だったと考え、これまでどおりの日常を示す べきなのだろうか?
 江藤が恵介の目の前までやってくる。
 二人の視線が、直線で結ばれる。
 恵介に彼女に掛ける言葉は、なにも思いつかなかった。
 しかし、意外なことに……足を止め、口を開いたのは江藤のほうだった。

「……元気にしてた?」
「えっ……」
 恵介の頭の中は、一瞬に真っ白になる。
「あの夜は、びっくりさせちゃってごめんね……驚いたでしょ?」
 そう言って江藤は首をかしげ、くりくりと大きなめで恵介の顔を覗き込む。
「あっ……あの、おれ、べつに……なにも……」
そうよ
 江藤が言った。
 
 首をかしげたままで、あの目でじっと恵介の目を見つめたままで。
 江藤の黒目はエナメル加工されたように真っ黒だった……以前とはまるで違う色だ。
 恵介の背筋に、寒気が走る。

なにも、なかったのよ
「せ、先生……」
「なにがあったか、あなたは見てないでしょ?」
「……」
 セルジュの家に向かって、抜かるんだ字面にパンプスの踵を取られながら、頼りなげに、いかにも頼りなげに歩いて行った江藤の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。しか し、それもまるで黒板にチョークで書かれた文字のように、せわしなくかき消されていく。
 その前に、江藤が口にした、こんな言葉も。

“さっきいろいろ話を聞かせてもらったけど、ほとんどがきみ自身が見たことじゃないでしょ?”
“あのね、わたしは……自分の目で確かめて、相手と話してから判断したいの”

 確かに江藤は恵介にそう言った。はずだ。
 恵介はもう強制的に完全消去されつつある記憶に、なんとかすがりつこうとする。
 しかし江藤はそれを許さなかった。

「見てないわよね? もし見ていたとしても、それをあなたが覚えていることで、誰かがしあわせになる?」
「……で、でも先生」恵介の最後の抵抗だった。「……いいんですか? これで……」
 
 そこで江藤は、少しだけ寂しそうに笑った……ほんの一瞬だったが。
 でも、あの型どって作られたような笑顔がすぐに戻ってくる。

「いいも悪いも、なにもなかったんだもの……どうしようもないことなのよ」
 
 江藤はそう言うと、魅力的な尻を振り、鼻歌を歌いながら職員室へと帰っていった。
 ピシャリ、と職員室のドアが閉じられる。
 廊下には、生徒たちが昼休みの残りの時間を隅々まで満喫しようと、笑いさざめいていた。

 日常が戻ってきたのだ。
 クラスに和男がいないだけで。
 これですべて元通りだ。

「いや」恵介は口に出して言った、「そんなバカな。それでいいわけねーだろ?




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