セルジュの舌

作:西田三郎


■12■ セルジュの逮捕


 江藤は無言で車を走らせている。
 帰り道では左一面にキャベツ畑、右にタマネギ畑のはずだが、陽はすっかり落ちてすべては闇に包まれ、その区別もつかない。
 ヘッドライトだけが、真っ暗な一本道の路面を照らしている。

「先生……どこに……行くんですか?」

 恵介は横目で江藤の様子を見た。
 江藤はブラウスのボタンをはだけたままで、薄暗い中にその乳房の上半分と、レースがあしらわれたブラのカップまでが覗いていた。
 ボタンを留めないのは、ボタンが弾けたのかもしれない。
 その豊かな胸が、しっとりと汗をおびて、大きく息づいている。
 耳を澄ませばガタガタと耳障りな軽自動車の排気音に紛れて、江藤の荒い吐息も聞こえてきた。

「恐ろしい……ほんとに恐ろしい……怖かった……」
 誰に言うともなく、江藤がつぶやく。目はまっすぐに照らされる前方の路面を見ている。
 相当なスピードが出ていた。ちらりと速度計を見ると、時速80キロを越えていた。
「なにが……なにがあったんですか? セルジュの家で……」
 馬鹿な質問をしたものだ、と後になって恵介は思い出すことになる。
 そのときには恵介にもだいたい、“なにがあったか”は想像できていたはずだ。
「聞きたい? ……わかってるでしょ? レイプされたのよ。あのけだものに」
「…………」

 想像通りの答が返ってきた。
 すでに恵介の喉はからからに乾いていて、唾を飲み込もうとしても、飲み込む唾が湧いてこない。

「ケダモノだわ……なんていやらしくて、不潔で、おぞましい男なの……あれが人間? ほんとうに、あの男は人間なの? あの目つき、あの体臭、あの毛むくじゃらの身体……それに……」

 そこでしばらく、江藤が口をつぐんだ。
 真っ暗な夜道を走る狭い車内での沈黙は、恵介にとって辛かった。
 辛いのは沈黙だけではない……車内を満たしているのは、濃厚な罪の匂いだ。
 江藤の体臭とセルジュの体臭が混じりあったような、むせかえるような匂い。
 息を止めていたくなるような重苦しさに耐え切れずに……恵介は口を開いた。

「……そ、それに?」
よ! ……あの、舌よ!
「舌……」
 また、舌の話だ。
「あいつは人間じゃない! 理性もモラルもない人間なんてたくさんいるだろうけど、あの舌は何なのよ? ……いったい、あの舌は……あっ……うっ……」

 江藤が泣き始めた。ガクン、とハンドルが左に切られ、車が蛇行する。
 すさまじい揺れに、悲鳴を上げたいところだったが、江藤の様子を見るとそれどころではない。

「うえっ……うっ……うええええっ……うええええええんっ!」
 信じられなかった……大人の女性だったはずの江藤先生が、まるで幼児のように泣いている。
「せ、先生……だ、大丈夫ですか? よ、よかったら一旦車を止めて……」
「だめよ!このまままっすぐ行くの!」
「ど、どこへ?」
「き"、きま"ってるでしょ? ……け"、ケ"ーサツよおおおっ!」
 江藤は幼児の声で泣き叫びながら、車を走らせ続けた。


  翌日、セルジュは警察に逮捕され、その身柄を所轄警察書に拘束された。
 地元中学校の女性教諭A(24)を暴行した容疑で。もちろんAは江藤のAである。

 事件の翌日から、江藤は学校に出勤しなくなった。
 恵介は前日、江藤と警察署の前で別れた……ぐったりと肩を落として警察書のエントランスに消えていく後ろ姿が、妙に悲しかった。
 セルジュが逮捕され、連行されるところを見届けたい、と恵介は思ったが警察の対応は思いのほか早かった。
 江藤を別れた翌日、恵介が目を覚ましたときには、セルジュは警察に拘束されていた。

 学校はセルジュの話題でもちきりだった。
 もちろん、その話題には女性教諭A(24)……つまり江藤に関することも含まれていた。
 学校でいちばん若く、男子生徒たちの妄想の的になっていた江藤が「あの」セルジュに「暴行」された、ということで噂の多くは下世話なものだった。
 女子生徒たちの 一部はショックを受け、田舎町の学校にもスクールカウンセラーが派遣されたりもしたが、多くの女子生徒たちも男子生徒たちと同じく、下世話な噂に夢中に なっている。
 信じられないことだが、恵介は江藤に対して同情的な意見を耳にすることがなかった。
 男子生徒の間では、
 「やっぱりセルジュのはでかいのか」
 「どんな体位でレイプされたんだろう」
 「で、結局、江藤はイったのか」
 などと無責任な邪推と噂が飛び交っている。
 「俺、想像してオナニーしちゃったよ」という元も子もないようなことを言う者もいた。

 恵介はどの噂に対しても、耳を塞ぎたい気分だった。
 連中は噂ばかりで、セルジュの恐ろしさを知らないのだ。

 女子生徒たちの間でも噂は絶えない。
 「江藤先生、すごくおしゃれしてセルジュの家に出かけていったんだって? 何か期待してたんじゃない?」とか、
 「ほん とうにレイプだったの?」とか、
 「案外、求めちゃったの江藤先生のほうだったりして」とか。
 彼女たちもセルジュの恐ろしさを知らない。
 
 しかし、あの日、江藤 の車の中で裕子から聞いた話によると、この学校に通学する相当数の女子生徒が、セルジュと不適切な関係を持っているという……それは事実だろうか?
 セルジュに対する非難より もこんな下世話な噂が女子たちの間で取り交わされるのは、裕子が言っていたことが事実だからだろうか?
 恵介は学校で女子生徒の姿を見るたび、こいつはセルジュとヤってるのか、それともヤってないのか、いちいち考えるようになった。
 もしかしたら、女子たちの何人かはセルジュのスパイなのかもしれない。

 そういえば……友里江と裕子も、学校に来なくなった。
 和男も、一向に登校してくる気配がない。
 恵介は学校にいるあいだ中、ほんとうにたった一人になってしまったような孤独を感じていた。
 不思議なことに、セルジュが犯した事件について、テレビも新聞もそれを取り上げることはなかった。
 恵介はネットにこの事件のことについて書かれた記事や書き込みがないか、くまなく探してみたが、徒労に終わった。
 こんな小さな町で起こった出来事には……誰も関心を持たないのだろうか?


 しかしさらに3日後、事態は急変した。
 なんとセルジュが、警察から釈放されたのだ。

「そういえばセルジュ、釈放されたらしいね」
 朝食の席でその話を千帆から聞いたとき、恵介は我が耳を疑った。
「ああ、そうらしいな……なんでもおまえの担任の先生が、告訴を取り下げたらしいぞ」
 と父がパンにバターを塗りながら言った。片手に新聞を持って。
「う、嘘だろ? ……なんであんな奴が、釈放されるんだ? 先生が告訴を取り下げたって?」
「いや、噂だからなあ……」
 父はそう言って新聞に集中するふりをした。恵介の視線から逃れるように。
「あんなキンモい奴、野放しにするなんて、ケーサツって最悪。だってあいつ、変態なんでしょ? お兄ちゃんの先生、ボウコーしたんでしょ?」
「千帆、朝ごはんのときに、そういうこと言うのやめなさい」
 母がぴしゃりと言った。
 声が奇妙に冷たい。
「でも、だってあいつ、レイプ犯だよ? 町中の女の子が危ないよ? 何するかわかんないガイジンなんだよ? ……ヤバいじゃん。超キケンじゃん!」
千帆!
 食卓が凍りつくくらいの声で、母が千帆をたしなめる。
「でも……母さん、あいつは……ほんとうにヤバいんだ。千帆の言うとおり、ケダモノなんだよ」
 恵介は力なく、千帆に加勢した。
「そういうのを偏見、って言うのよ。あんたたちだって、事件に関して、自分で直接見たり、関係する人に聞いたりしたわけじゃないでしょ? ぜんぶ噂話のレ ベルでしょ? そんなふうに噂に踊らされちゃだめ。みんながどんな噂をしようと、それを広めないの、よけいな噂を増やさないの!」
 実は、母さん……あんたのことも、この千帆のことも、セルジュは狙ってるんだよ……と打ち明けてやれば、どんなに気分がすっきりしただろうか。
 しかし恵介は、それを口にしなかった。代わりに無言でトーストをかじり続けた。

 セルジュの釈放については、江藤が告訴を取り下げた、という事実につきものの下世話な噂に加えて、奇妙な話も恵介の耳に入ってきた。
 事件から3日目の夕方、町の警察書の前に、黒塗りの非常にクラッシクな外国製自動車が乗り付けた。
  その車から出てきた三人の人物 は、全員が真っ黒なスーツを纏っていた。
  そのまま3人は警察書の中に入っていった。門番をしていた巡査たちは、非常に緊張した様子で敬礼していたという。
 それから、半時間も立たないうちに、三人の黒服たちは、警察書からセルジュを連れて出てきた。
  セルジュの手に、手錠はなかった。三人はセルジュをそのクラシックな車に乗せると、彼を自宅まで送り届けて、去っていったという。

 恵介がその話を聞いたとき、一番最初に頭に浮かんだのは、「ブラックメン」という言葉だった。
 それはMIB……つまり、メン・イン・ブラックとも呼ばれる。
 恵介はこの手のことに、小学生の頃から関心を持ち、いろんな本を読んで知識を得ていた。
 UFOを目撃した人々のところに訪ねてくる、黒ずくめの3人組……連中は「政府の役人」を名乗り、さまざまな圧力をかけて、UFO目撃者たちを脅迫す る。ブラックメンの正体については諸説ある……FBIやCIAの捜査官説、さらに厳重な秘密の使命を帯びた、名前も知られていないような政府の役人説、あ るいはロボット説……彼らの雰囲気が、まるで人間らしさを欠いていた、というブラックメンたちの証言に基づく……なかには、ブラックメン自体が宇宙人であ る、とする説もある。ウィル・スミスとトミー・リー・ジョーンズが演じていたような、楽しげな秘密組織ではない。
 その存在自体が矛盾だらけであり、彼らに訪問されたUFO目撃者たちの話は、たちまち信ぴょう性を失ってしまうのだ。
 連中が、この町に? ……しかしなんでセルジュを? ……セルジュは政府と関係があるのか?

 しかし恵介が奇妙なパラノイアに耽溺している暇は与えられなかった。
 セルジュが釈放されてから一週間の朝……和男が死亡したという知らせが入ってきたのだ

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