セルジュの舌

作:西田三郎


■11■「セルジュはミッキーマウスよ」


 落ち着かなかった。カーラジオからはヴィッキーの「恋はみずいろ(日本語バージョン)」が流れている。

 恵介はまるで自分を拘束するようにシートベルトをしたまま、爪を噛み、貧乏ゆすりをし、奥歯をカチカチと鳴らしながらセルジュの家を見ていた。
 ちらりと車のデジタル時計を見ると、江藤がセルジュの家に入ってから、5分が過ぎている。
 恵介にとっては1時間にも思える5分間だった。

(セルジュが留守だった……ってわけじゃなさそうだな……)

 それに期待していた自分がいた。しかし希望は簡単に打ち破られる。
 さらに5分が過ぎた。そしてもう5分。加えて5分。

(20分経ってる……どうしよう……)

 このまま、シートベルトを外し、車から降りて……自分の家まで帰るべきだろうか。江藤をセルジュの家に残して。
 自分は江藤を必死で止めたつもりだ。しか し江藤は聞かなかった。
 あそこまで止めたんだから、自分にはもう非はないはずだ……江藤のほうが、自分より倍ほども大人なんだから。
 しかし、そんな薄情なことをする勇気すら、自分にはないような気がした。
 かと言って、車から降り、例えばあの散らかった敷地内で角材か鉄パイプか、そういう武器になるようなものを探し出し、それを手にセルジュの家のドアを蹴破るべきだろうか? ……いや、ますますそんなことをする勇気が自分にあるはずがない。

(じゃあ、どうすればいいんだ?)

 ただ、ここでこうしてじっと待っているべきか?
 いつまで待ってるべきなんだ? ……何かが起こるまで? でも、一体何が起こるんだ?
 と、そのときだった。

 コンコン。

 誰かが車のの窓を叩いたのだ。
 恵介は飛び上がった……その音が、まるで雷鳴のように感じられた。
 あわてて運転席側のサイドウインドーを見る……そこには誰の姿もない。
 恵介はシートベルトを慌てて外すと、辺りを見渡した。周囲は静まり返っている……空耳ではない。
 確かに誰かが、この車の窓を叩いたのだ。
 恵介の脳裏に、 この車の周りをアナコンダのような大蛇がぐるりと囲み、音も立てずシュウシュウと舌をちらつかせながら、潜んでいる風景が浮かんだ。

 ゴクリと唾を飲み込む……やはり、逃げるべきだ。もう江藤なんか知るか。知ったことか。

 ドアのノブに手を掛けたそのときだ。
 後部座席のドアがいきなり空き、小さな人影がするりと車内に滑り込んできた。
「ひゃあっ!」
 思わず情けない悲鳴をあげる。
 振り返らずに……振り返る勇気などとてもなかった……バックミラーで後部座席を確認する。
 笑った薄い口と、小ぶりな顎が見えた。その下に続く、細く長い首も。

「……どうしたの? なにをそんなに怖がってるの?」
 その声には聞き覚えがあった……直接、話をしたことがあるわけではない。
 しかし英語の授業中に、その声が流暢に例文を朗読するのは聞きなれている。

「ゆ……裕子……」
「……気安く名前で呼ばないでくれる? あなたと話すの、今日がはじめてでしょ?」

 裕子の声は抑揚がなく、まるで台詞を読んでいるようだった。

「なんで、ここにいるんだ? ……いつから、ここにいたんだ?」
「あなたたちの車がやってくるのを、あの上から見てたの」ヘッドレスト脇から、文鳥のように小さな手が伸びてきて、セルジュの家の六角塔を指す。「さっき 家に入ってきたの、江藤先生でしょ? ……ちょうどセルジュが退屈そうにしてたところだから、あたしは気を利かせて裏口から出てきたの。家の裏にはちょっ とした丘があってね、それを登って、大回りして、後ろからこの車に近づいてきたの……で、助手席にあなたが座っているのを見つけたわけ……なんか、ひどくイライラしてたみたいだけど……いったいどうしたの?」
「せ、セルジュと、江藤先生を二人きりで会わせるために、わざわざ家から出てきたのか?」

 そこではじめて恵介は肩ごしに裕子の顔を見た。裕子は儚げな表情に、冷たい笑みを浮かべている。
 日本人形のように生気のない白い肌、大きな黒目がちな目、小さな鼻、知的に引き締まった唇。でも浮かべている笑みは、友里江と同じだ。
 見慣れた公立中学の冴えない制服……白ブラウスに臙脂のリボン、紺のニットベストにプリーツスカート……に身を包ん でいても、間近で見る彼女は、著しく現実感に欠けている。こんな少女がここにいていいはずがない、と恵介は思った……こんな安物の軽自動車の後部座席に、 そしてセルジュの生活圏に……あるいは和男に聞かされた話がほんとうだとすると……セルジュの家の赤い部屋にも。

「そうよ。江藤先生みたいな食べごろの女の人、この町にはあまりいないからね……多分、セルジュはとっても喜んでいると思うわ。たぶん、江藤先生も……いまごろ大よろこびしてるわよ」
「そ、そんなわけないだろ? よくもそんなことを……俺たちの担任の先生だぞ?」
「先生だって女よ。あたしや、友里江と同じ。その他の、たくさんの女生徒たちと同じ。うちの学校だけじゃなくて、いろんな校区からセルジュの家にやってく る中学生や高校生の女の子たちと同じ。コンビニでバイトしてる、女子大生と同じ。ひまを持て余したお母さんたちも同じ。みんな女なのよ。あなたのお母さん だって」
「うちのおふくろ?」

 思わず身を乗り出す。

「そうよ。あのきれいなお母さん……このまえ、スーパーの駐車場でセルジュと一緒にいたら、あなたのお母さんを見かけたわ……とってもきれいなお母さん ね。セルジュ、お母さんにとても興味を持ってたわよ。あなたみたいな男の子と妹さん、二人も子供を産んでおいて、あのお尻の張りとおっぱいの形のよさは有 り得ない、ってセルジュは言ってたわ」
「やめろ!」

 思わず佳祐は大声を上げた。しかし、裕子はまったく動じない。

「だめよ。セルジュからは誰も逃げられないのよ。あなたのお友達だってそう。ほら、和男くん。彼だって、もうセルジュからは逃げられないわ。彼自身も、あの子のお母さんも……セルジュに目をつけられたら、誰も逃げることなんてできない」
「和男は……男だぞ? そ、そんな……」
「関係ないわ。セルジュは男の子も大好きなの。セルジュが“あの子がほしい”って思ったら、もうおしまい。抵抗することなんかできない。たぶん今頃、江藤 先生だって……いまごろ、セルジュにたっぷり可愛がってもらってるんじゃないからしら? 先生、おっぱいもお尻も大きくて、グラマーだもんね。セルジュの好みのタイ プのひとつよ。わたしもセルジュの好みのひとつ。友里江ちゃんも、和男くんもね。それに、あなたの妹さんも……」
「うちの妹?」血が冷たく逆流する。「千帆のことか? 何言ってんだ? あいつはまだ小学生だぞ?」
「関係ないわ」裕子が唇を歪める。「年齢も、性別も関係ないの。セルジュはかわいいものや美しいものが好きなの。友里江ちゃんがセルジュとあの川の橋の下 でエッチしたあと、橋のうえを歩くあなたの妹さん……“千帆ちゃん”だっけ? ……が下校するとこを見たと言ってたわ。セルジュはとっても彼女のこと、気に入ってたみ たいよ。小学生にしては、妙に色気のある脚をしてるって……」
「そんなこと……そんなこと許されるわけないだろ? 一体、おまえはなんであんな奴と? いや、おまえだけじゃない……なんで他の女たちも?」
「セルジュの家は、この町の女の子や女の人たちにしてみればディズニーランドやUSJと同じだもの。こんなイナカ町で暮らして退屈しきってる年頃の女の子 や、生活にくたびれてる奥さんやお母さんたちに、いったいどんな楽しみがあるって言うの? ……この町や、この町に暮らしている男たちがくれない楽しみを、セ ルジュはただで与えてくれるのよ……セルジュはミッキーマウスよ。この町の女にとってね」
「……あいつの目的は? あいつは何者なんだ?」
 恵介は肩ごしに裕子を睨みつけた……しかし裕子は冷たく笑うだけで、答えない。
「……先生のお帰りよ」
 はっとしてフロントガラスを見る。

 ふらふらと、車に近寄ってくる江藤の姿が見えた。
 髪はくしゃくしゃに乱れており、ブラウスのボタンは上から三つ目までが開いていて、豊満な胸とブラジャーが見えている。
 家に入っていたときに履いていた黒いストッキングは消えており、生脚をむき出しにしていた。
 よく見ると、パンプスも片方しか履いていない……その目はうつろで、頬は桜色に上気していた。
 車に向かってくる江藤の姿に恵介が言葉を失っていると、裕子が言った。

「じゃあね……でも、あなたもそんなにセルジュに興味があるなら……自分から彼の家を訪ねればいいのに」
「な、なんだって? おれが?」
「セルジュの舌がどんなにすごかったか、先生に聞いてみたら?」
 そう言うと裕子は後部座席のドアを開け、するりと車から出て行ってしまった。
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