セルジュの舌

作:西田三郎


■10■セルジュの家まで

 そんなわけで恵介は、田舎の国道を走る江藤の軽自動車の助手席にいた。
 江藤が恵介を同上させたのは、セルジュの家の在り処を知らなかったから、という理由が大きい。
 昨年、恵介たちの通う中学に赴任してきたばかりの江藤は、この小さな町に必死に馴染もうとしているようだったが、住人たちや子供達がヒソヒソと陰口を叩くような異端者・セルジュに関しては何も知らないようだ。
 和男にしてもはっきりとその場所を知っているわけではなかった。
 ただ小学校の頃から噂でたびたび耳にしていただけだ。
 まあこんな小さな町の「西のはずれ」にある一軒家、といえば、だいたいどの辺りかは分かる。
 訪れたことはなくても、ナビくらいの役割は果たせる。

「これまで……職員会議とかで、セルジュのことが話題になったことはないんですか? あんなに明らかな不審者なのに……」
「うん? そうなの? ……確かに職員会議じゃ不審者の情報共有はよくやってるけど、あくまで学校とか通学路周辺の話ばっかりだし……その謎のフランス人の名前を聞いたことはないけどなあ……」
 左一面にタマネギ畑、右一面にキャベツ畑という田舎の一本道に車を走らせながら、江藤はまだ鼻歌を歌っている。
 カーラジオから流れてくる「SEKAI NO OWARI」の「RPG」にメロディに合わせてハミングしているのだ。

 ほんとうに大丈夫だろうか? 一体どうなるのだろう?
 どんなことが待ち受けているか、この人は理解しているのだろうか?
 行く手にはまさに世界の終わりが待っているかもしれないのだ。

「“謎のフランス人”って……先生、セルジュのこと、どんな奴だと想像してるんですか?」
「ううん? そーねー……こんなイナカの外れにフランス人がひとりで暮らしてるんでしょ? 結構ミステリアスな感じよね……変人貴族、って感じ?」

 ダメだ。やはり江藤は事の重大さをわかっていない。
 さっき相談室では深刻な表情をしていた江藤だが……いまは少女のように冒険を楽しんでいるような様子だ。
 多分、友里江や裕子も……はじめはそうだったのだろう。

「“貴族”じゃないです。しかも“変人”じゃなくて“変態”です。しかも、犯罪者です。コンビニで堂々と、鼻歌を歌いながら店の商品を片っ端から万引きしていくような奴なんですよ?」
 クスっ、と江藤が笑った。
「大きな声じゃ言えないけど、年に何人、うちの学校の生徒があのコンビニで万引きして補導されてるか知ってる? ……まあ当然、万引きは犯罪で、とてもいけないことだけど……ちょっと恵介くん、大げさじゃない?」
「大げさじゃありません! だってあいつは……コンビニのバイトの女の人と……」
「え、結構……きみって、保守的なのね。恋愛は自由でしょ?」
 恋愛? ……店の中のものを手当たり次第に万引きして、カウンターを預かっているバイトにいきなりベロチューをするのが恋愛?
 そんな。そんなはずがない。

 やっぱりダメだ。恵介は自分の言葉が少なく、弱かったことを痛感し、激しく後悔した。
 相談室で時間をかけて丁寧に話し、セルジュがいかに危険な人物かを力説したつもりだった。
 江藤は、自分が何に立ち向かっていこうとしているのかさっぱり理解していない!
 やはりすべてをありのままに話すべきだったろうか?
 つまり……和男に押し倒されてズボンとパンツを脱がされ、ペニスをしゃぶられたことを割愛せずに。
 友人が、そこまでの狂気に追い込まれているのだ。
 その部分を割愛したことで、江藤の警戒心を十分に喚起することができなかった。
 そうだとすれば……これから行く先で自分の担任である女教師と、そしてこの自分になにが起こっても……すべては自分のせい、ということになる。

「先生、やっぱり……やめましょう」
「え?」
「引き返しましょう……やっぱり、ダメです。危険すぎます」
「なによ、今さら……ひょっとして、ビビっちゃってたりして?」
 冗談めかして言う江藤の態度に、思わず恵介は我を忘れた。
「怖いですよ! ええ、はっきり言います。ビビリだと思われても構いません……あいつは危険なんです。あいつは悪魔なんです。ケダモノなんです!」
「ちょっと……どうしたのよ? そんなにコーフンしちゃって……」
先生は知らないんだ!

 運転席の江藤のほうへ急に身体を向けようとしたので、シートベルトがロックされて肩に食い込んだ。

「し、知らないって……きみだって、そのセルジュって人のことをよく知ってるわけじゃないんでしょ? ……恵介くんが見たっていうのは、そのセルジュって人が、コンビニで万引きをして、バイトの女の子とキスしてたってだけでしょ?」
 それだけで十分じゃないか、と思ったが、やはり江藤には伝わっていない。
「……でも、だって、あいつは……」
「あ、あれじゃない? ほら、右手に見えてきたやつ」

 佳祐はフロントガラスを通してそれを見た。六角形の塔の上に、風見鶏が廻っている。
 風見鶏の上には避雷針がアンテナのように伸び、曇り空を突き刺そうとしていた。
 そういえば、相談室にいたときは照りつけた夕陽は沈み、暗くなった空を厚い雲が覆っている。
 車が近づくにつれてその全貌が視界に飛び込んでくる。
 ペンキが剥がれた壁が目立つ、木造二階建ての西洋家屋。家は六角塔を中心に左右対称に作られている。
 塔の真下、二階部分にはバルコニーのようなものが見られる。二階の窓はすべて雨戸で塞がれていた。
 敷地は結構な広さだ……和男の話どおり、いたるところに使い古したタイヤや廃材やゴミ、それに異様な数の自転車が散乱している。多分、セルジュが町のい たるところから無断で拝借しては、家まで乗って帰り、そのまま捨てたのだろう。
 錆色の車も見えた。奇妙な形をした車だった。流線型でスタイリッシュだが、 後輪がボディの中に隠れている。その姿は恵介にゴキブリを連想させた。

「ろ、65年式のシトロエンDS19パラスよ、あれ……」
 意外と、江藤はカーマニアだったようだ……しかしこのおぞましい敷地を前に、見るところはそこだろうか?
「あっ……」

 恵介は一階の窓に目を止めた。塔をはさんで家の右端にある窓だ。段ボールで塞がれている。
 そこから赤い光が漏れ、光の中で友里江の上半身がくねっているのが、見えるようだった。
 和男が語っていた異形の犬は……どうやら見当たらない。

 敷地の数メートル手前の歩道の脇で、車は停車した。
「……さて、と……恵介くん。きみ、ちょっと車の番しといてくれる?」
 サイドブレーキを引き、エンジンを切った江藤がシートベルトを外し、バックミラーで唇をチェックしている。
 そこで恵介は、はじめて江藤が珍しくピンクのリップをつけていることに気付いた。
「……せ、先生……ほんとに、一人でいくつもりですか?」
「だって恵介くん、きみ、怖いんでしょ? ……震えてるよ」

 そう言われて恵介は、確かに自分の膝が震えていることに気付いた。
 それはあまりにも……はじめて見るはずのセルジュの家が、想像したとおりだったからだ。

「だめです、先生……ぜったいにやめたほうがいい……ほんとに、ほんとにあいつはヤバいんです」
「でもさ、さっきいろいろ話を聞かせてもらったけど、ほとんどがきみ自身が見たことじゃないでしょ? ……ほとんどは、和男くんや友里江ちゃんに聞かされた話や、みんなが噂していることばっかりじゃない?」
「で、でもおれ、この目で見たんですよ? あいつが和男の家で……その……和男のお母さんと……その、なんというか……」
「アノときの声を聞いた、ってやつ?」

 あっさりと言われ、恵介は言葉につまる。

「そうです! 聞いたんです!」
「じゃ、見てないじゃん」
「で、でも……あいつの父さんが……まるでゾンビみたいになってて……それは自分の目で見ました! と、とにかく、とにかくあいつはヤバいんです! ぜったいに危険です!」
「あのね、わたしは……自分の目で確かめて、相手と話してから判断したいの」
 江藤がそっと恵介の肩に手を置く。
「先生……」
「だから、きみはここで待ってて。心配しないで……だいたい、そのセルジュって人、いま留守かもしれないじゃん? ……ここは、先生に任せて。いい? ここにいるのよ?」

 そう言って笑うと、江藤は車から降りてしまった。
 そしてスカートの皺を気にしながら、肉感的な尻を揺らして……セルジュの家に近づいていく。
 ぬかるんだ土にパンプスの踵が沈み込み、黒いストッキングに包まれた江藤の脚が何度も引きつる。
 よたよたとセルジュに近づいていく後ろ姿が、いかにも頼りなかった。

 いかにも頼りなかった。


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