P.T.A. 作:西田三郎 「第5話」 ■MAN
突き飛ばされた先は水たまりで、枝松はしばらくそのまま尻餅をついていた。
パンツにまで水がしみこんできて、激しく怒張していた陰茎はあっという間にしぼんだ。
功はどこかに走っていった。もう姿は見えない。
功の湿ったブリーフの表面に触った指だけが生気を帯びて、じんじんと熱くなっていた。その指先を見る。何も変化はしていない。しかしこの指が先ほど、功の部分に触れたのだ。少し匂いを嗅いでみる。何の匂いもしなかった。馬鹿馬鹿しくなって、自嘲的に笑った。
水たまりから立ち上がる。びっしょりと濡れたズボンから、ポタポタと滴が落ちた。
一体何でまた、自分はあんなことをしたのだろうか?
それまで枝松は、少年に欲情を感じたことなどなかった。
しかし先ほどの自分は、まるで暴走する機関車のように走り出した自分の欲望を抑えることができなかった。
功の秘密を知っているからか?いや、それは違う。
功の面影に奈緒美と理恵の面影を見たからか?いや、近いかも知れないが、それも違う。
自分の頭がおかしくなったからか?
うん、それが一番近いみたいだ。
あんなことをしなくても、もはや自分は完全に狂っている。教え子と、教え子の母、両方と関係を持っているのだ。いや、教え子の方には挿れてないにせよ、だ。
それだけでも充分すごい。さらに今、男であるその弟にも手を掛けようとした。すごい。すばらしくいかれている。そう、自分はもう、建前上も教師であるということから、逃れたがっているのだ。
人間は誰しも、社会に見せているその姿は、努力して作り上げた仮の姿である。その姿は粘土よりももっと不安定な材質で作られていて、必死でその形を保たないとすぐ崩れ、アメーバのような真実の姿に戻ってしまう。その姿を保ち続けるために、人間は一生涯、たとえようもないような努力と神経を費やす。その努力のせいで、おかしくなったり、自殺したりするやつもいる。仮の姿を保ち続ける空しい努力。それが人生そのものだ。
もはや教師としての自分の姿は崩れ始めている。
それをくい止めようとする努力は、枝松の中からすっかり失せていた。
びしょ濡れになり、滴を垂らしたズボンを引きずりながら、枝松は渡り廊下を歩いた。幸い生徒や教師の姿はない。なぜズボンがこんなにビショ濡れになっているのか、言い訳をするのも面倒くさくなっていたからだ。今、その理由を聞かれたら、
「ああ、男子生徒のズボンに手を入れて、体育倉庫に連れ込もうとしたら、水たまりに突き飛ばされちゃってね。おかげでパンツまでビショビショですよ」と、答えてしまうかも知れない。
渡り廊下を歩きながら、携帯電話を取りだし、登録してある理恵の携帯に電話した。
2コール目で、理恵が出た。
「…もしもし?」着信表示が枝松のものだったからか、理恵は小声で出た。
「ああ、おれ。あんたの担任」
「何よ…急に掛けないでよ」
「ああ、大変なんだ。おれと君とのことが、君の弟にバレた」
「…え?」
「だから、君との関係が、君の弟にバレたんだって」
「…どういう事?」
「そういう事だよ」
「……どうするの?」
「…どうする?……おれは別に何も。君はどうすんだ」
「……センセイ、頭、大丈夫?」
「…ああ、大丈夫」
「…弟、怒ってたぜ、で、今旧体育館の前に居るんだけど、これから会えない?」
「………切るね」
電話は切れた。
枝松は校舎の入り口の前で立ち止まって、暫く黙って携帯の液晶を見ていた。
畜生、駄目か。
次に別の携帯番号に電話した。
「…もしもし?」顰めた声は理恵とそっくりである。電話に出たのは奈緒美だった。
「もしもし?オレ。あんたの教え子の担任」
「…何?なんか用?」奈緒美の声は少し怒っていた。
「…別に…」
「あの、服にザーメンかけたこと、まだ怒ってんの?」
「どうでもいいわよ…そんな事」
「今、ヒマ?」
「…うーん…どうかな」奈緒美は枝松をじらすようにもったいぶった声で言う。
「知ってんだよ。今日はパートのない日だろ?ヒマなんだろ?」
「うん…」
「そしたら、いつもの駅前に行くから、5時半に、どう?」
「…どうしたの?」
「…教えたいことがあるんだよ」
「…でも…急に…」
「いいから、来いよ。じゃあな」
枝松は携帯を切った。なんとか、今日の亢まりは押さえられそうだ。
ふと、旧体育倉庫の入り口に目をやった。とたんに、面白い考えが頭をよぎった。
そう、おれはただの男。教師である前に、ただの男なんだ。
面白いことを全てに優先させて、何が悪い?
<つづく>
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