P.T.A. 作:西田三郎 「第12話」 ■PEOPLE
頭が痛い。功は目を覚ました。
目を覚ました場所は、自分の部屋のベッドではなかった。
ということは、意識を失う前、見たあの風景は現実なんだろう。
それにしてもここは何処だ?
功は上を見上げた。ガラス窓があり、青空があった。
抜けるような青空をバック街路樹の緑が次々と通り過ぎてゆく。
いや、そうじゃなくて、自分が移動しているのだ。功は車のバックシートに身を横たえている。そして、後部座席の窓から、街路樹が流れてゆく。
一体どうなってんだ?何があったんだっけ?
そうそう…確か、学校で、姉の理恵に呼び出されたんだっけ。
学校の裏にある、あの古い体育倉庫に。昨日の口論のことだろうか?そう思って、放課後、旧体育館に行った。
すると、体育倉庫に、理恵じゃなくて枝松が待っていた。
いつもの、あの何の誠意も見られない薄笑いを浮かべて。
功は何か言おうとした。
と、枝松の視線が功の背後を捉えた。思わず振り返る。理恵が、バットを振り上げていた。
「ねえ…」ちゃん、と言おうとした。しかしその後、視界が真っ暗になった。
頭がずきずきしている。
手で頭に触れてみる。血は出ていないようだった。かわりに大きなタンコブが出来ていた。
カーステレオから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。そえはまさしく、自分の声だった。
“…ちょっと…ヤバいよ…姉ちゃん…”
“いいからほら、じっとしてなさい。お父さんお母さんに聞かれるでしょ”理恵の声。
身を起こさずに前を見た。運転席には枝松が、助手席には理恵が座っている。
「…ここは…」かすれた声で、功は言った。
理恵が功を振り向く。相変わらず、あの冷たい顔のままだった。
「あ、目が覚めた?」理恵は表情を変えずに言った。「…ごめんね。さっきは。痛かったでしょ?」
「…」功はまだ現状が理解できていなかった。
枝松は沈黙している。
「…どこに?」功は無数にある質問の中から、最優先と思われる問いを姉に投げかけた。
「ホテル」理恵はそういうと、枝松の方を見て言った。「ね、そうでしょ。先生。お母さんと何回も行った、あのホテルに連れてってくれるんだよね?」
「…」枝松は答えない
“ちょっと、何よ…あんた、変態じゃないの。実の姉にこんなことされて、こんなになって”
“…そんな…ああっ”テープの声が続く。
「…そのテープ…」功は言った。「…まさか、あんたが?」
「…おれ?」と枝松「おれじゃないよ。おれは盗聴なんて、してない」
「…うん、本当らしいよ」と理恵。「だいたい先生があたしたちの部屋に盗聴器仕掛けられるわけないじゃない」
「…あんただって、誰がやったのか、気づいてるでしょ。子供じゃないんだから」
「…」功は答えなかった。
やはり、そうだったのか。そのことに関する確信はあったが、さっきはほんの一瞬だけ、枝松を犯人とすることで、その疑念がもたらす苦痛を払いのけることができた。しかしそれは真実ではない。
「…そうよ。父さんだよ…」理恵が言った。「それ以外、有り得ない」
「……なんで…なんで…………手こんな事に?」功は自分が泣いていることに気づいた。
と、理恵がいつにもまして厳しい表情で功に向き直った。
「…なんで!?……なんで?全部わかってるくせに知らないふりしてんじゃねーよ!バーカ!!」
「…姉ちゃん」
「…あたし、あんたのそういうところ、だいっ嫌い。ほら、テープ聞きなよ。あんたもあたしも変態じゃん。姉弟でこんなことして。先生も、母さんも、父さんも、あたしも、この近所の皆さんも、それにあんたも、みんな一緒じゃん。…なに自分だけいい子になろうって思うわけ!?バッカじゃないの?」
「……おいおい」枝松が口を挟む。
「…黙ってろよ。この母娘どんぶりの変態教師」理恵がぴしゃりと釘を指す。
「……姉ちゃん、これから、どうするの?」涙声で功はいった。涙がすごい勢いで何かを洗い流す。
「…これから?」理恵は弟をにらみ付けた。「…終わらせるのよ。全部」
「…」それ以上、功は何も言わなかった。
この車の行き先に何が待っているのか具体的にはわからない。
今日、全てが終わるんだろうな、ということだけは何となくわかった。
恐ろしかったが、功は少しだけ奇妙な安心も感じている自分に気づいた。
母の奈緒美は両手首をネクタイで縛られ、上半身をソファに埋めたまま、まだじっとしていた。
どれくらいの時間が経っただろうか?
肛門に発射された夫の精液は、プクプク音を立てて逆流し、奈緒美の太股を濡らし、最終的に床の絨毯にしみ込んでいる。早くもその一部は、奈緒美の内股で乾燥を始めていた。
しかし奈緒美はちっとも動く気にはなれない。
何故、夫に枝松とのことがばれたんだろう…?
そんな当然の疑問も一瞬だけ頭の中をよぎった。
でも、ばれたということが判った瞬間、心の奥底で感じたあのかすかな安らぎは何だろう。
おかしなものね、と奈緒美は思った。
あれほどの夫からの欲情を感じたのは、ほんとうに何年ぶりだろうか?
昔、理恵や功が生まれる前、とくに弘と結婚したころの前後は、奈緒美と弘はまるでそれがいつ下げられてしまうか判らないご馳走でもあるかのように、お互いの躰を貪り合った。
奈緒美はそれに夢中になったし、弘もそれに夢中になっているようだった。
でも、いつからかそんなことは無くなった。
いつからだろうか?やっぱり功が産まれてから以来?
わたしは枝松に何を見て、何を求めていたんだろう、と、さらに奈緒美は考えた。
弘からは得られなくなったものだろうか。
それともわたしたち夫婦が互いに排除し、なかったことにしている何かか。
そのままの姿勢で、奈緒美はいろいろなことを考えた。
こんなにいろいろなことを考えたのは、久しぶりのことだ。
いつの間にか、奈緒美の心は、自分の少女時代から現在にかけての莫大な記憶の中から、答えを探し求めようとしていた。とても、長い時間が掛かりそうなことだった。
その答えが出るまで、奈緒美はこの格好のまま、こうしていようと思った。
多分、理恵や功や弘が帰ってくるまでには、その答えが出るだろう。
弘はこの小さな街を車でぐるぐる、ぐるぐると回り続けていた。
“ちょっと、何よ…あんた、変態じゃないの。実の姉にこんなことされて、こんなになって”
“…そんな…ああっ”
カーステレオから聞こえてくるのは、長女の理恵と長男の弘の声だった。
何度聞いても、よく録れてるな、と我ながら思う。ダッシュボードには奈緒美と理恵がそれぞれ枝松と情事を重ねた様を撮影したモノクロ写真が散乱していた。黄色い封筒のストックは、トランクのスペアタイヤの裏に隠してある。カメラと一緒に。
多分、家族は誰一人として、弘が若い頃…まだ髪の毛もふさふさしており、将来に対して人並みの夢を思い浮かべることができた頃…に、写真青年であったこと知る者はない。
家族に限らず、恐らく今、彼を知っている周りの人たちは誰も、そのことを知らないだろう。
それが弘の唯一の秘密だった。
車の窓から景色。空の青と、田圃の緑。
それ以外は何も見えない。ここに弘は一家の住む家を建てた。
ローンは多分、定年まで続く。いや、そんなことは問題ではない。
ここに越してきたことが間違いだったのだろうか?
おれがこの街に家を建てたことが間違いだったのだろうか?
いつも頭は、簡単に納得できる安易な問いを繰り返す。…そうではない。
すべてがこうなってしまったのは、自分がこの街に家を建てたからでも、自分が仕事人間で家族を省みなかったからでも、妻との性愛関係が途絶えたからでもない。
そんな理由は、すべて後付けで考えられそうなものばかりだ。
すべてが過去になって、取り返しがつなかくなってから、仕方なくこじつける言い訳に過ぎない。
今、自分を取り巻く事態はまだ終息しておらず、問題は継続中だ。
しかし、それもすぐ終わる。
今日という日が終わった時、弘はすべての問題を片づけているだろう。
<つづく>NEXT/BACK TOP