P.T.A. 作:西田三郎

「第10話」

■FAMILY

何事も永遠には続かない。
全てに終わりがある。
当然、人生にも。あるいは家族の絆にも。夫婦の愛にも。男女の性愛にも。
 すべてに終わりがあることを、人は認めたがらない。
 終わりを恐れ、終わりの到来という逃れることのできない現実から目を逸らし続けて、人は終わりを否定する。しかし、終わりは運命であり、誰1人としてそこから逃れることは出来ない。
 終わりを否定するが故に、すでに終わっている人生を気づかずに送り続けている者達もいる。
 その者たちはもはや人間ではなく、幽霊である。
 自分の肉体からすでに魂が枯れ果て、がらんどうになったことに気づくことなく、朝目を覚まし、朝食を食べ、仕事をして、セックスをして、眠りにつく。空虚さを感じながら、カラッポになった肉体を生活のレーンに乗せて日々を送る者達。世の中にはそうした幽霊たちで溢れている。外見上は生きている人間と変わらないので、そのことには気づかないだけだ。
 
 幽霊たちが今、朝の食卓を囲んでいた。
 
 昨日遅く何食わぬ顔で帰ってきた母は、機嫌が良さそうだった。昨日P.TA.の集まりで体験したという、笑えるデタラメのエピソードを二人の子供と夫に披露している。母の顔は笑っていた。口も笑っていた。声も笑っていた。しかし、目だけは笑っていなかった。そのことには誰もが気づいていた。しかし誰一人として、そのことを口にする者は居なかった。何故なら、終わりの到来を皆が恐れていたからだ。とりあえず、母のデタラメ話に相槌を打っておけば、終わりを先延ばしにすることができる。もはや脅迫観念に近くなっていたその思いから、誰一人としてこんな見え見えのインチキを笑い飛ばし、真実を語ろうとする者はなかった。母もまた、自分のウソが家族のみんなにバレているであろうことは充分に判っていた。だから、出来るだけ明るい声で喋り続けていた。そうしないと、何故だか泣いてしまいそうだったからだ。
 
 姉はそんな母の作り者の明るさを、いつものように醒めた心で受け流していた。喋りたいだけ喋るがいい。昨日、弟から聞かされた母の秘密。その事実自体は、それまで本当に知らなかった。しかし事実を知ったときも、新鮮なショックや驚きを感じることは無かった。もう自分の心からは、そのような感情を吸収することのできる潤いが、すっかり枯れ果てていた。彼女は今15歳。それでも、彼女の人生はもう終わっていた。密かに弟と続けている関係さえ、彼女にとっては何の意味もないものだった。担任教師との不適切な関係もまた同様である。相手が弟であろうと担任教師であろうと、その対象はどうでも良かった。行為から得る、ほんのひとときの肉の悦び。その一瞬だけが、彼女に生きているという感覚をもたらした。昨日、弟と共に見つけた、あの盗聴マイク。そして弟に見せられた写真。その事実を誰かが所有しているということ。それさえもはや、彼女にとってはどうでもいいことだった。
 
 弟は果てしない混乱の中に居た。この家族の中で、彼だけはまだ辛うじて、魂を枯れ果てさせてはいない人間だった。それゆえに、母と姉の秘密、そして自分と姉との秘密が誰かに握られているという事実に、彼は混乱していた。母、姉、自分、3人の秘密を握っている人物。それが誰であるかは明白だった。この延々と続けられてきた秘密のゲームに参加していない、たった一人の人物。その人物が今、自分と同じ食卓に付いている。叫びだしたくなった。その人物を呪い、母を呪い、はっきりとした愛情を注いだにも関わらず、自分を裏切った姉にはひときわ強い呪いの感情を覚えた。そして一番強い呪いを感じるのは、全ての秘密の中心に居る他人…枝松だった。事実誰に一番の罪があるのかはわからない。しかしまだ魂を完全に失ってはいない彼にとっては、明確な憎悪の対象が必要だった。泣きだしそうだった。そして、こんな風になってしまう前の家族のことを思った。
 
 父はにこやかに母の話に相槌を打ちながら、その内面は家族の他の誰よりも空虚だった。まるで人知れず地の奥底深くにひっそりと存在する地下湖のように、彼の心は静まり返っている。彼はどんなときも、その平静と空虚を保つことができる自信があった。実際、妻がまくしたてるデタラメ話のほとんどは、彼の頭には入っていない。彼は耳の電源をオフにして、妻の口や表情がめまぐるしく動くのを眺めていた。デタラメなんて、まったく気にならない。どんなインチキも彼の心を乱すことはなかった。彼は自分が幽霊であることを知っていたし、家族のみんなが幽霊であることも知っていた。全てを知り尽くしていた。それでも心が乱されることはない。いったいいつから自分はこんな風になってしまったんだろう?彼は妻の話を聞き流しながら、そんなことを考えていた。昔、もっと若い頃、そう息子と同じくらいの頃、あるいは娘と同じくらいの頃、自分の中にも心と呼べるものがあったような気がする。その時の感覚が今は、完全に失われてしまった。口に運ぶトーストにも、味はなかった。悲しみや苦しみを感じないことはあまり不快ではなかったが、味覚や痛覚を失ったことには少々の孤独を感じた。
 
 やがて、いつものように子供達が朝食の席を立ち、学校へ出かけてゆく。
 食卓には、母と父だけが残された。
 
 空になった食器を、奈緒美が片づけようとしたその時だった。
 「ねえ…枝松とのセックスはそんなにいいの?」奈緒美の夫・弘の声だった。
 一瞬奈緒美は、自分の耳を疑った。
 弘の方を振り返る。
 弘はいつもどおりの、優しい笑みを浮かべていた。
 空耳ではなかった。何故なら弘が、もう一度同じ質問をしたからだ。
 「…枝松先生とのセックスは、そんなにいいの?」

 こんな風に終わりは、何の突然襲ってくる。
 

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