大人はよくしてくれない

作:西田三郎



■第五章 すき焼き

 「タク坊はもう、お腹一杯でおねむみたいやな」
  イソヤマが生卵にビタビタに浸した霜降り肉をぐちゃぐちゃと噛みながら笑う。
  そしてそれを、缶ビールで飲み下した。
  イソヤマの部屋はいつもきれいに片付いている。わびしい中年男の一人住まいにしては、うんざりするくらいこざっぱりしている。しかも、イソヤマはキレイ好きらしい。今日、座卓の上には電熱ヒーターの上ですき焼きの残骸が煮立っているが、「飲み物をこぼしたり、食べ物で床を汚さないように」ということで、6畳間の床にはゴミ袋を裂いて作ったビニールシートがガムテープで張り合わされ、敷き詰められていた。

  その上で、今は卓郎は昨日からずっとそうしているかのように、大の字になっていびきをかいている。
  あまりにも上質の肉と……「まあええから」とイソヤマが勧めたビールに大はしゃぎしたせいで、疲れきってしまったのだろう。見ている悠也が疲れてしまったくらいだ。

 イソヤマに勧められて、悠也もビールを飲んだ。
  いらない、いらないと断ったが、ほとんど無理やり飲まされた。酒を本格的に口にしたのは、これがはじめてだった……多少はこの、わけのわからない正体不明の「中年男と食卓を共にしている、それも今後の生活のため、という『みじめ』な気分を紛らわせることができりかも知れない、と思ってビールを口にしたところもある。最初はただ苦くて、何がいいのかわからなかったが、何口か飲んでいるうちに頭の奥がぼんやりしてきて、現実と自分の間に、やわらかくてうすい層ができたような気分になった。 なるほど、大人たちが酒を飲みたがる理由がわかるような気がした。始めての酔い……らしきもの……の感覚のなかで、悠也の『みじめ』な気分は、すっかりはぐらかされていた。

 ちあきはといえば……やはりビールを飲んでいる。肉を食べ、グイグイとビールを飲んでいる……それも、今はイソヤマの膝の上で。いつの間に、あんなにうまそうにビールを飲むようになったんだろうか?……それもイソヤマに教えられたのだろうか?……そして今、ちあきはイソヤマの膝の上に自ら乗っかっている。
  乗っかっているだけならまだしも、くねくねと身体をくねらせて、赤い顔でキャハハ、と笑っている。

  「……ちあきちゃんは、ほんまおませやなあ……おっちゃん、もうかなんわ」
  「……あっはっはっは……楽しい、おっちゃん、うち、楽しい!!!」

  ニタリ、と満足そうにイソヤマが唇を歪ませた。
  ちあきに腰掛けられているイソヤマは、まるで肉でできた巨大なソファだった。ボサボサの油染みた髪、ぶよぶよと遠慮なしに脂肪をつけた体、薄汚れたベージュのトレーナーには、脇汗がにじみ出ている。人のことは言えはしないが、イソヤマが全身から醸し出している雰囲気は“不潔”そのものだった。その不潔さは、自分のものとは明らかに違う、と悠也は思った。自分は、単に一週間風呂に入っていないから、不潔なだけだ。不潔な状態からは、その気になれば……この部屋の風呂を借りさえすれば、すぐ抜け出すことができるだろう。しかし、イソヤマの不潔さは長い年月をかけてその全身に溜め込まれ、積みあがり、手のつけようがないくらい染みこんだものであるように思えた。この男が醜いのは、その姿だけではない。すべてが醜いのだ。
 
  「ちあきちゃんみたいなかわいい妹がおって、ホンマうらやましいわ。ボク
  「はあ」……イソヤマは悠也のことを“ボク”と呼ぶ。でも、なれなれしく本名で呼ばれるよりはマシだ。
  「お兄ちゃん、なにぼさっとしてんのん。もっと肉たべーさ。ビールも飲みーさ。タクほんまぐっすり寝てもうたな……なあ、お兄ちゃん、タクになんか掛けたって」
  「ほな、あれ掛けたらええわ。そこの、赤い毛布」イソヤマが部屋の隅を指差す。
  悠也がその先に目をやると、確かに部屋の片隅に薄汚れた一枚の赤い毛布があった。それを卓郎に掛けてやれ、ということなのだろうか。それは“優しさ”なのだろうか。イソヤマは今、膝の上にちあきを載せている。だから手が離せない、お前が掛けてやれ、と。悠也は少し反感を覚えた。その表情を、イソヤマの膝の上で笑い転げていたちあきが捕らえて、厳しい一瞥を悠也にくれた。“動けよ、バカ”と言ってるのは明らかだった。しかしまあ、それしかないだろう……悠也は自分に折り合いをつけて、腰を上げた

 ……あれ……?

  ぐらり……と視界が揺れた。
  部屋全体が、90度くらい反転したように思えた。
  ズドン。
  立ち上がったと思ったら、床に……ビニールシートを敷き詰めた床に、横倒しになっていた。
  「お兄ちゃん!!……何してんの?」ちあきが大きな声で笑っている。
  「……おいおい、ボク、大丈夫か?……飲みすぎか?」

  方向感覚を失った悠也は、いったいどこから二人が声を掛けているのかわからなかった。
  飲みすぎ……確かに、アルコールを口にしたのは今日が初めてだ。しかし……それにしても……こんなにも世界が歪むほど、アルコールというものはすごいのだろうか?……どっちが上なのか、下なのかもわからない。どこか遠くから、ちあきがほとんどヒステリックなまでにキャハハハハハハハ!と笑っているのが聞こえる。少々のエコーを伴って……つるつる滑るビニールの床の上であがきながら、なんとか仰向けになる……いくつもの染みが浮かんだ、天井が見えた。見えたはいいが……なんてことだ……天井のシミが、まるで水族館の回遊魚のようにぐるぐると回り始めた。自分の身体は、そのシミが作るうずまきの中に巻き込まれ、どんどんビニールの床に沈みこんでいくようだった……なんだ、一体、なんなんだ。
 
  助けを求めようと、ちあきを探そうとした……そういえば、いつの間にかあのヒステリックな笑い声が止んでいる。どこにいる?どこにいるんだ?……いや、イソヤマの膝の上だ……でも、そのイソヤマはどこに行ったんだ?……と、突然、振り回されるような視線の端に、ちあきとイソヤマの姿が引っかかった。

  二人は、屠り合うように深いキスを交わしていた。
  イソヤマのぶよぶよの腕が、ちあきの細い身体をしっかりと抱きすくめていた。
  「………ん………」唇をほとんどまるごと、イソヤマに吸い込まれているちあきが、鼻で息をする。

  ちあきの手が、イソヤマの油染みた長い髪を掻いていた。イソヤマの手は、両手でちあきの小さな尻をしっかりと掴んでいる。二人を見ていると……今度は景色が妙に鮮明な輝きを持ちはじめた。暗かった部屋のコントラストが上がり、部屋が少し明るく、二人の服の色が少し濃くなったような気がした。悠也はどうすべきか、考えることもできない。まるで二人は、自分などこの部屋にいないかのように唇を求め合っている。 今、悠也が見ているものが現実であるとすれば。

  「………んっんんっ…んっ………」息苦しくなったのか、ちあきがイソヤマの膝の上で暴れ始める。
  しかしイソヤマはしっかりとちあきの身体を押さえつけていて、離さない。
  ちあきがイソヤマの髪を激しく掴んだ。本当に苦しいのか、必死でイソヤマの顔を引き離そうとしている……そして、ついに唇が離れた。
  「ぷはっ………あっ……うぐっ……」
  つうっ、とちあきの小さな薄い唇とイソヤマの分厚い紫色の唇の間に、濃厚で白濁した唾液が太い糸を引いた。 やっとイソヤマの唇から逃れたちあきだったが、そむけようとする小さな顎を、芋虫のような野太いイソヤマの指に掴まれ、また唇を奪われる。イソヤマのもう片方の手は、ちあきのTシャツの裾に侵入していた。ちあきの細い身体がはげしく跳ねる。なぜ、自分はこの様をぼんやり見ているのだろう、と悠也は思った。
 
  ちあきが、今度はイソヤマの肩を掴んで本気でその巨体を引き剥がした。
  「も、もーう……おっちゃん、えっちい……変態……」口調は軽かったが、目は恐れていた。「……やめてーさ……お兄ちゃん見てるやん……」
  「……見てへんって……もう床で弟と並んでグデングデンやがな……」
  「え、でも、目開いてるし。こっち見てるし……」ちあきが、ちらり、と悠也を見た。
 
  一瞬、視線が空中で交差した。でも、ちあきの目はとても冷たかった。
  悠也のほうから……なぜだったのだろう?……思わず目を逸らせた。

  「……目、開けて寝てんねんやろ……それにしても、お兄ちゃんもキレイな顔したはんなあ……」
  「……………」ちあきが、突然黙った。
 
  悠也は恐る恐る、ちあきの顔を見た。また視線が合った。
 ……その目には、怒りと、憎しみと、冷たい軽蔑があった。

 

 


 

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