大人はよくしてくれない
作:西田三郎
■第二章 パーティバレル
「……ただいま……」
アパートのドアを開けると、散らかり放題のキッチンのテーブルの上にケンタッキーフライドチキンのパーティバレルがデン、と乗っかっていて、一番下の弟の卓郎が口元を油まみれにして胸肉をむさぼり食っているのが見えた。
「あ、兄ちゃん!!!お帰りーーー!!!めっちゃうまいで!!!!」
伸び放題の髪で、両手に鶏の骨のかけらを持ち、薄汚れた服を来た卓郎の姿は……何と言うか……とても原始的で根源的な、“我々に近いが遠い何か”に見えた。卓郎は8歳。年齢のせいもあるが、厳しい現実を屁とも感じていない。顔は……卓郎の父親とそっくりだ。その父親は、悠也の父親とは別の人物である。
「……それ……どないしたんや」残り物の弁当が入ったコンビニ袋を左手に持ち替え、バレルを指差す。「……イソヤマのおっさんか?」
「兄ちゃんのぶんも、ちゃんと残したーるから安心しーな!!!」卓郎が叫ぶ。と、ドアに背を向けて座っていた妹のちあきが、ゆっくりと振り向いた。
「お帰り、お兄ちゃん」
髪はずいぶん(ほとんど腰まで)伸びていたが……ちあきの髪は毎日きれいに洗われて、梳かされて、つやつやと輝いていた。ほっそりとした身体を包む服も、悠也や卓郎のように薄汚れてはいない。真っ白な肌、一重の切れ長の瞳。薄い唇と眉。どこか常に冷笑をたたえたようなちあきの表情は、最近とくに……悠也を怯ませた。ちあきは悠也より2歳年下の11歳。でも時折、自分よりずっと年上であるかのように錯覚することがある。ちあきの父親について、悠也はよく知らない……しかしちあきは、母に似ているわけではない。種違いとはいえ……自分の妹でありながら、悠也はちあきに対して、なにか他人であるようような感情を抱いていた。
「それ……ケンタッキーやないか……どないしたんや……あいつやろ?……イソヤマのおっさんやろ?」
「うん。イソヤマのおっちゃんがくらはったお金で買うた」そういうと、ちあきは胸肉の解体作業に戻っていった。まるで小魚から小骨を抜くような丁寧な手つきで。そして、悠也などまるで存在しないかのように、自分の世界に帰ってしまった。玄関のたたきにコンビニ袋をぶら下げたまま立っている悠也は、まるで自分がとんでもないマヌケになったように感じて……また、『みじめ』さがこみ上げてきて……思わず声を荒げる。
「なんやねん!!おれがイワサキさんから弁当もらってくる、ちゅーてたんとやうんか!!!」
一瞬、卓郎がビクっとしてチキンをむさぼる手を止める。
しかしちあきは悠也に背中を向けたまま、微動だにしない。
「……これ、どないすんねん!!」思わず悠也は、たたきの上で足踏みしていた。「これ!!お前らの分までちゃんと貰ってきやんやぞ!!弁当!!……これは食べんでええんか!!!」
「明日の朝、食べたらええやん」ちあきが振り向きもせず言う。
卓郎はとりあえずこの騒ぎは無視することにしたらしく、目の前の獲物をむさぼることにまた戻っていった。
「……あいつからなんぼ貰うたんや!!!」
「お兄ちゃん」ちらり、とちあきが肩越しに悠也を見る、刺すような冷たい目で。「……あいつ、とか言うたらあかん。イソヤマのおっちゃんは、親切な人やろ?……同じアパートに住んでる、っちゅーだけで、うちらとは縁もゆかりもないのに、うちらのこと気にかけてくれはってるやんか。お金はくれるし、お風呂には入れてくらはるし……ありがたいことやで。……そやから、イソヤマさんのおっちゃんことはそんなふうに言うたらあかん」
「……その金かて……タダで……」
「お兄ちゃん!!!」ちあきが振り返り、さっき以上に冷たい、厳しい視線で悠也を見据えた。
「……タクの前やで。しょうもないこと、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ言わんといて。……いつまでもそんなとこに立ってんと、はよ上がったら?」
「………」何も言い返せなかった。悠也はボロボロのスニーカーを脱ぐと、コンビニ袋を手にしたまま、卓郎ががつがつとチキンをむさぼり、ちあきがゆっくりと静かに胸肉を解体している食卓についた。散らかり放題のテーブルの中央に、デン、と置かれたケンタッキーのパーティーバレルの存在感せいで……3人分の弁当が入ったコンビニ袋を、テーブルの上に置く気にはなれなかった。
「イワサキさんが……お前らのこと……元気か、ちゅーてたわ……」ボソボソとつぶやく。
「そう」ちあきは顔も上げず、突き放すように答えた。
「……イソヤマの……いや、イソヤマのおっちゃんからは、なんぼ貰うたん?」
「1万円」ちらり、とちあきが悠也の顔を見る。「……これで、しばらくはなんとかなりそうやな」
「弁当……」それ以上は言えなかった。何を言い返されるかは、わかっている。
「……お弁当はお弁当でええやん。お兄ちゃん、これまでどおり貰ってきてーさ。できたら、缶詰とかカップラーメンとか、レトルトとか、そういう日持ちするもんのほうがええけどな……」
「この弁当かて……イワサキさんがムリして……」怒りの感情を上手い言葉に表現できない。
「別にイワサキさんはムリなんかしたはらへん。あの人はただのバイトや。その弁当かて、どうせ賞味期限切れで捨てるしかないやつを、分けてくれたはるだけや。あの人には、何の損もあらへん」
「そやから言うて……人の厚意を……」
「イソヤマのおっちゃんかて、厚意やろ。何の関係もないうちらに、1万円もくらはんねんで。お風呂も入れてくらはるし……そやろ?」
「………でも……イソヤマは………お前を……」
「お兄ちゃん」さらに冷たい声だった。「タクの前や、言うてるやろ(卓郎は二人の会話にはまったく無関心で、2つ目か3つ目のチキンにかぶりついていた)。……ええやん。なんやかんや言うても、お金は大事やろ。うちがイソヤマさんとこにお風呂に入りに行ったら、お金がもらえるねん。これから寒なってくるやろ。服もいるで。電気代も払わんと、うちら凍え死んでまうんやで」
「……でも……あいつは……イソヤマは………」
「よー言うわ」ふん、とちあきは鼻で嗤った。「……コンビニのイワサキさんかて、お兄ちゃんが行くから、残りもんの弁当分けてくらはるんや。うちや、卓郎が行っても、くれるんはお菓子とかプリンとか、くれるんはそんなしょーもないもんばっかりや。イワサキさんはな、お兄ちゃんやから弁当くれるんや。わかる?……わかっとんねんやろ?……イワサキさんがお兄ちゃんを、どんだけ気に入ってるかは」
「……………」あまりの『みじめ』さに、怒りを通り越して泣きそうになった。
そのせいで、出てくることばはもはやなかった。「チキン、食べーさ」ちあきが腿を一つ取り出して、悠也に手渡す。
悠也はそれを手にしたまま、ぼんやりしていた。口をつける気にもなれず、何かを言い返す気もない。「……ああ今晩、イソヤマのおっちゃんがお兄ちゃんも一緒にお風呂どうや、ちゅーてたで。うちとタクはご飯食べたら行くけど、お兄ちゃんどないする?」
「ぼく、風呂キライや!!」卓郎が油まみれの口で叫ぶ。
「あかん。あんた、たいがい汚いで。お風呂、入れてもらい。……お兄ちゃん、どないすんのん?」
「……おれは、ええ」一週間、風呂に入っていないが。
「一週間おきに入れてもらうんも、毎日入れてもらうんも、たいした違いあらへんのんとちゃん?……まあええわ。ほなタク、お姉ちゃん先にお風呂入れてもらうから、1時間……いや、1時間半経ったら、イソヤマのおっちゃんの部屋においで。わかった?……グズったら叩くで!!ごはん抜きやで!!」
「しゃーない、行くわ!!」卓郎が叫んだ。
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