大人はよくしてくれない

作:西田三郎

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【注意】

この作品は実際に起こった事件をモチーフにしています。
ただ、生存者のプライバシー・心象に配慮し、個人名はすべて仮名に、
舞台となる場所も「大阪の下町」という以外は曖昧にしております。
生存者3名の幼さゆえに、この事実の醜さ、残酷さには胸が痛みます。
また、登場人物の日常生活、心理描写に関しては、西田三郎の創作です。



■第一章 みじめな野良猫
 
  『みじめ』、というのははつまり『恥ずかしい』ということだ。

  悠也は13歳。コンビニ裏の細い路地で肩をすくめて待ちながら、それを悟った。
  コンビニの裏口のドアにはマジックミラーの窓がはめてある。そこに映る自分を見ると、思わず目を背けたくなった。痩せて、よれて、髪は伸び放題。目つきま で悪くなった。これではまるで野良猫だ。
  あまりにも『みじめ』を体現している自分の姿から目を背けると、路地の奥にいた本物の野良猫と目が合った。やせた、黒い猫が、Ωの 形になって毛を逆立て、悠也を威嚇している。『ここはおれの縄張りや。出てけ』とでも言わんばかりに。思わず、野良猫を睨み返した。野良猫は目を逸らさな い。しばらく猫と睨みあっていると、不意にコンビニの裏口が開いた。

  「待った?」出てきたのはこのコンビニでバイトをしている専門学校生だった。「ほら、これ」
  太った、ブサイクな女だ。女の手には、3人分の売れ残りのコンビニ弁当を入れた袋がぶら下がっている。
  「………ありがとうございます……」
  「……お母さんとは、連絡ついたん?……兄弟は、元気にしてる?」女の醜い顔には、はっきりと憐れみと陶酔が読み取れた。「……ちょっと、痩せたんと違 う?……ちゃんと、食べてる?」
  「……大丈夫です……イワサキさんの……おかげです……」悠也はもごもごと口の中で呟いた。「いつも……ほんまに……こんなにようしてもらって……すいま せん……」
  「……何言うてんの」と、ブスバイト・イワサキのぽってりした手が悠也の肩に置かれる。

  びくっ、と悠也は身体をすくめた。

  自分の身体が物理的に汚れている、ということの引け目もあった。
  なんせここのところ、一週間に一度しか風呂に入っていない。
  しかしそれよりも、もっとリアルに感じたのは、他人に……しかも仮にも女性であるブスバイトのイワサキに、身体に触れられる、ということへの嫌悪感であ る。

  「困ったときはお互いさまやろ?……でも……」イワサキが眼鏡の奥の腫れぼったい目を伏せる「……そろそろ……これからのこと考えなあかんのと違 う……?……あんたのお母さん、たぶん帰ってけえへんと思う……残酷なこと言うようやけど……そろそろ……児童相談所に…… そろそろ相談する頃とちゃうか?……なんやかんやいうて……もう、1年になるんやろ」
  「………」

  何も言えなかった。
  確かにそうだ。母が何の前触れもなく、悠也と妹のちあき、下の弟の卓郎を置いたまま行方知れずになってから、もう1年になる。それからは、何の連絡もな い。前にもこんなことは何度もあった……突然母が行方をくらませて、1週間、1ヶ月と、自分たちを置き去りにするようなことは。そのたびに、悠也はなんと か身の回りで、少しでも自分たちと関係のある大人たち……遠い親戚だったり、母の仕事仲間だったり、あるいは母の過去の男たち……その中には、自分の実の 父親も含まれていた……そういった連中に、理不尽なうしろめたさを感じながら小銭をせびり、なんとか生き延びてきた。

 あのときに感じていたうしろめたさの正体は一体なんだったのか、今ははっきりとわかる。

 屈辱、恥辱、情けなさ……そう、『みじめ』さだ。

 今や頼れる大人はみんな呆れて、誰も悠也に会いたがらなくなった。
  自分たちが呆れられたわけではない。母の自分勝手に呆れたのだ。
  そして、そのツケを息子の自分が……まだ13歳の悠也が払っている。こうやって毎日、コンビニの路地に決まった時間に立ち、この醜いデブのキモメガネ専門 学校生に、憐れまれ、意味の無いアドバイスや、空虚で心のこもっていない、芝居がかった慰めの言葉をかけられ……それに対してはっきりと怒りも、不快感も 露にすることはできず、すべてを甘んじて受け入れなければならない。

  『みじめ』だ……ほんとうに、『みじめ』だ……。

  悠也は路地に吹き込むビル風に、心の芯まで晒されるような冷たさを感じながら、これまでもう何度も何度もうんざりするくらい繰り返してきた返答を、搾り出 すように声にした。

 「……でも……それやと……ぼくら兄弟、みんなバラバラにされてまうんです……前にも言うたけど、以前一回……そうなりそうなことがあっ て……それは……イヤなんです」

 実際にあったことだ。最初に相談した自分の実の父が……たぶん、メンド臭かったのだろう……自分たち兄弟3人を児童相談所に丸投げしよう としたことがある。結局、そのときはすんでのところで母が帰ってきた……ケロッとした顔で。無責任、無責任、無責任……まったく、大人はみんな無責任だ。
  何一つ、よくしてくれたことがない。

 「…………かわいそうに……」

 もう何度目だろうか?……イワサキの晴れぼったい目から、汚い汁が……あれは、泪と呼べる代物なのだ ろうか……が、“どばっ”っとあふれ出す。悠也はぐっと、吐き気をこらえた。あれは、精液と同じだ。2年前から自分が 覚えたオナニーの、最後に出てくる液体。ほんの一瞬の快楽のために、いわれのない罪悪感と羞恥感と虚無感を自分に思い知らせる、あの濃厚で不快なにおいの する、白濁した液体。あれと同じものが、いまイワサキの醜い顔を伝っている。おぞましい、と悠也は心から思った。なんで、なんで、こんな女のために、残り 物の弁当をくれるだけのブサイクなバイト学生のために、自分はこんな目に遭わねばならないのだ。

 と、その瞬間、イワサキが悠也にのしかかるように抱きついてきた。

 「ちょっ……」

 イワサキは悠也より上背があって、か細い悠也の身体はあっという間に肉の壁に包まれた。
  全身に鳥肌が立った。太っているせいで張り出した胸が、悠也の顔に押し付けられる。出っ張った腹が、ちょうと股間に押し付けられる。一瞬、その戒めから反 射的に逃れようとしたが、ボンレスハムのような太いブヨブヨの両腕が、悠也をしっかり捕らえて動くことを許さなかった。

 「かわいそうに……かわいそうに……」

 ぎゅうぎゅうとイワサキが力を込めて、まるで押しつぶそうとでもしているかのように、悠也の身体を締め付けた。昔……ドキュメンタリー番 組で観た光景……アマゾンの大蛇が、山羊を締め付けている様子が頭に思い浮かんだ。
 
  「かわいそうに……ほんまにかわいそうに……こんな小さい子が……こんなかわいい子が……」

 イワサキの目汁が、首筋に押し付けられた。
  叫びだしたいような気分だった。ぶよぶよの腹に膝蹴りをくれて、この場を立ち去りたい気分だった。やろうと思えばできるはずだ………でも、できない。なぜ なら自分の手には、妹と弟のための、残り物弁当が入ったコンビニ袋がぶら下がっているから……。

 イワサキのバイトの休憩時間が空けるまで、あと数分……そう、あと数分、この腐れデブに好きなだけ自分を抱きしめさせればいい。目から汁 を流し続けさせればいい……悠也は自分に言い聞かせた。
 
  屈辱感、恥辱感、情けなさ……悠也はほんの数分前よりもっとはっきりと、自分が置かれている状況の『みじめ』さを 噛み締め続けた。


 

 

 


 

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