大男

〜あるいは、わたしのレイプ妄想が生むメタファー〜



作:西田三郎


■10■ 最後で最初の医師


 パチン。

 目の前の火が消えた。
 ライターが閉じられたのだ。

 目の前には、あの志村けんが年寄り医者の衣装を着たような先生の、気づかわしげな顔があった。
「……それで……あなたの息子さんの名前は?」医師が不意に聞く。 「今は、思い出せますか?」
「え……そりゃあ……もちろん」わたしは名前を口にしようとした。「……あ、あれ?

 名前が出てこない。

「ご主人の名前は?」
「え、えっと……」頭の中は妙にスッキリしているのに、カラッポだった。
「あなたが勤めていた会社の名前は?……通っていたスポーツジムの名前は?」
「えっ……えっ……えっ……」いきなり、続けざまに質問をされているせいだと思った。まだ催眠術の効果が、残っているせいだとも思おうとした……しかし、 わたしの頭には何も答が浮かんでこない。「……わ、わたし、どうしちゃったんだろ……」

 改めて、老人メイクの志村けん似の医者の顔を見た。

 亀のようなカウンセラーとも、羊のようなおばはんカウンセラーとも違う。
 三人の医者は、似てもに似つかない。でもよく見ると……全員それぞれ、志村けんや、や、に 似ているが、よく見れば目が二つに鼻がひとつ、口はひと つ……どれも同じ人間の顔だ。
 
「あなたが詳しく話してくださった、あなたが結婚前に勤めていた会社の課長……コネで入社したボンボンで、あなたをスペイン料理店に誘った……ええ と……」そこで医 師は手元のメモを見た。「イノシシ。そうそうイノシシ。彼の名前を、 思い出せますか?」
「そ、それは……」そんなの、覚えてなくても仕方ないじゃん、と思っ たが、これまた出てこない。
 不快感と嫌悪感はしっかり残っているのに、イノシシの本名は出てこない。
「……また、あなたが卒業した大学はどこです?……何学部の、何 学科を卒業されましたか?」
「え、ええっと……あ……あ、あれ?」
「あなたは校内の喫煙所で、タバコを吸っているところを襲われ、レイプされました。それはどこの大学ですか?……ところで、あなたは今さっきもタバコを吸 いましたよね。これは危険ですよ……タバコは身体に悪い。わたしの差し出したのはふつうのタバコですので、危険性は 強烈ですが、肺ガンや心筋梗塞、脳溢血 などの原因になりうる……その程度です。でも、このタバコが、ただのタバコではな かったら?
「な、何を……なにを言ってるんです?意味、わかんないんですけど……」
「あなたが通っていた高校はどこですか? 学校名は?……あなたは、 その頃、塾に通っていた帰り道に、公園で『大男』に犯された。通っていた塾の先生は、とて も優しかった、という。その塾の名前は?……先生の名前は?……あな たはダウンタウンの番組を観たいから、近道のために公園を抜けた、と 仰いました。その ときに見たかった番組のタイトルは?」
「……え……あの……」
 
 わからない。思い出せない。
 ダウンタウンの番組なら、いくらでも思いつきそうなもんだけれど。

「これらはすべて、現実の出来事ですか?……昨日……ええと……」医師は手元のメモを見る。「……肉のベッドの姿をした『大男』に、幼い息子さんの目の前 で犯された、とあなたは言う。でも、あなたは、息子さんのお名前を思い出せない」
「そ、それは……それはちょっと……頭が混乱してて……ちょっと、 ちょっと待ってください……ええと……それは……その……」
「失礼ですが……今、おいくつですか?」
「えっ?」わたしははっと顔を上げた。
今、おいくつですか?」
「え、あの……ええっと……」そんなの、カルテ診りゃわかるでしょ、と思った。
 しかし、思い出せない。三〇過ぎたところまでは……いや、過ぎたの だろうか?ちゃんと過ぎたのか?
 ぜんぜん思い出せない。
「左側の壁に、鏡があります。それを見てください」
「えっ……なんで……」
「それで、あなたは、今のご自分の年齢を思い出すことができます」
「…………」
 ぞっとした。一体何なの?……この医者、大丈夫なわけ?
 ……でも、わたしはまだ催眠術から醒めないでいるかのように、自然と席を立って……鏡の前に立っ ていた。

「……そんな……」

 鏡に映っていたのは……髪をゆるくお下げにして、怯え切った顔をしている12歳のわたしだった。
 水色のTシャツを着て、赤いスリングのポーチをたすき掛けにしている。
 わたしが12歳の頃、とても大事にしていたポーチだ。これは、母が誕生日に買ってくれたものだ。

「……そうです、それが今のあなたです」医師が背後から言う。「……結論から申し上げましょう。『大男』はいません。あなたが、部屋に突然現れた『大男』にレ イプされた、と言って聞かないから、お母様があなたをここに連れてきた」そこで、老医師は言葉を切って、わたしの顔をじっと見た。「12歳だったあなた を、レイプしたのが誰だか、きみにもわかってるんじゃないのかい?」

 突然、医師の口調が変わった

「…………そ、それは……それは……」
「きみは否定するだろう。お母さんにも、否定した。自分をレイプしたのは、『突然、部屋に現れた大男』だと言って、きみは聞かない。いくらお母さんが、君 に 本当のことを言っても……部屋で君にいたずらをしたのは、君のお母さんが交際している『酒 飲みの運送屋』だ、と言っても。君は彼のことを気に入っていた。彼が君のこと を気に入っていたのとはちょっと違った意味で。彼は今、薬物取締法違反で 警察に逮捕されてる。牢屋にいるんだ」
ちょっとちょっとちょっと……」わたしは鏡に映っている12歳の自 分の姿から逃れるように振り返、志村けん似の医者を睨んだ。「なに言ってんの?……それは、大学んときにかかった、あのカウンセラーにも言ったわよ……え えと……」
亀男。亀を思わせる小男のカウンセラーに、だろう?」医師は柔和に 笑っていた。「そう、彼にはそう言ったはずだ。わたしにもそう言った。彼は、わたし だ。彼は、亀だ。生殖器の先端、亀の頭だ。君にとっ て、男性そのものだ。わたしと話をしているうちに、きみは頭の中でわ たしを亀男に変化させた」
「だから言ってるじゃないっ!!」わたしは声を張り上げていた「……あいつは、あいつは……確かに頭を撫でられるのはイヤだったけど……」

 そう、そのたびにわたしは髪を洗っていた……はずだ。

「いや、イヤじゃなかったはずだ。きみは彼になついていた。そこに彼はつけこんだ……ある夜、彼はきみに、『これは特別なタバコだから吸ってみるかい?』と いう感じで声を掛けたんだろう……彼は、以前から薬物中毒患者だっ た。きみはそれほどタバコには興味を惹かれなかったけれど、彼を喜ばせたいために、そのタ バコを無理して吸った……でもそれには、何らかの薬物が仕込まれていた。あるいは、大麻だったのかもしれない」
「ち、違うってば……」わたしの声は震えていた。
「そして、酩酊している君を、裸にして、レイプした。彼は背が高かっ ただろう?……君は彼を慕っていた……というか、お母さんのために、無理して慕おう と した……そんな相手に、酩酊していたとはいえ、君は傷つけられた。翌朝、彼は痕跡を残さないように万全の注意を払っただろう。しっかり後始 末して、証拠隠滅を図っただ ろう……でも、君の母さんは、何かが起こったことを、確信した。警察 はそこまで調べてないがね。お母さんのボーイフレンドの運送会社社員は、君のお母さんにも、その手の薬を使って、なにかをしたことがあっ たんだろう……これは残酷な推測だけれど、ひょっとすると君のお母さんも、彼と薬を一 緒に楽しんでいたのかもしれない。ともあれ、娘も同じ目に遭ったと考 えたお母さんは……いや、無意識のうちに、娘をそんな男に差し出したことに、罪の意識を感じたお母さんは、警察に通報した。そして、男は違法薬物所持で逮捕さ れた。きみのお母さんが提出した、男の所持品の中に薬物が発見されたんだから……もう言い逃れのしようがない。でも、問題は……お母さん自身も、きみが彼 にレイプされたことを、いや、君が進んで男の求めに応じたんじゃない か、ということに関して、疑いを持っている。だから、暴行のことは警察に話さなかっ た。今、このドアの向こうの待合室で、待っている君のお母さんはね」
「……でも……だって……」どんどんわたしの言葉は子どもじみていく。「じゃあ、わたしが中学・高校と勉強を頑張ってたのは?水泳も頑張ったのは?……そ れもぜんぶ、ウソなわけ?」
「いや、頑張ってたんじゃなくて、これから頑張ろうと自分に言い聞か せてたんだ」医者は言った。「君がいい大学に行くことも、水泳をすることも……お母 さ んが望んでいることだ。お母さんは高卒で学歴にコンプレックスがある。お母さん自身も、中学時代から水泳を始めて、娘にも水泳をさせようと 考えていた……これはさっき、お母さん から直接聞いた話だよ。君は、そんなお母さんの期待に応えようと決め たんだ……ここ数日間のうちに」
「でも……じゃあ……ええっと……なんであたし、そんなことを?」
「お母さんに対する、信頼を求めているから……だと考えられる」 ここで医師はひとつ、咳払いをした。 「……きみがかかった、という二人目のカウンセラー……そ うそう“羊女”。君の『大男』の話に懐疑的な、女性カウンセラー……これは、お母さんだ。君は必死で、あの夜、正体不明の『大男』にレイプされたんだ、と お母さんに訴える。お母さんは、真相を知っているから、これを認めない。し かし、お母さんは……君があの麻薬中毒者に、完全に昏迷させられて、無理矢理、合 意もなしに犯されたのではなく、君が積極的にそれに応じた、い や、もっとはっきり言うと、あの男を、君が誘惑したんじゃないか…… とい疑念を抱いて いる。もちろん、これは真実ではない。これこそ妄想だ…… いいかい?……これは、人間が合理的な生き物でも、いつも、どんなときも倫理観や道徳観に元づいてものを考える生き物ではない、ということの証だ。お母さ んのことを責めないでほしい。これからの人生、君は何度も人間のそんな局面を目にするだろう。友達や、恋人や、将来、夫になる人や、自分の 子供にも……このことは、よく覚えておくといい」
「……ねえ、先生……」わたしは言った。一二歳の声で。「……あたしのダンナさんと子どもは?……ねえ、あたし、幸せだったんだよ。先生は、いったい何の つもりで、それを奪うの?」
「それは、幸せな家族と暮らしたい、と願う君の願望だよ。わたしが奪ったんじゃない。わたしはほんの40分ほど前、『大男』にレイプされたと頑なに主張する君に、催眠術をかけ た。君はその間に、『大男』が実在して、君の人生に何度も現れては、君をレイプし続けた、という物語を作り上げた。君は創造力が強い。そうすることで、数日前にあ の麻薬中毒患者からされたことを、否定しようとした。そのために一生、その『大男』に付け狙われ、なすすべもなくレイプされ、辱められるという妄想に悩ま さ れる人生を、選ぼうとしている。『大男』が実在するかどうかは問題じゃない。君は事実を否定するための妄想に、これから一生苦しめられる人生を、自分で選 ぼうとし ているんだ」
「……ドアの向こうに……あたしのお母さんがいるの?」あたしは自分の膝を見下ろした。
 ショートパンツから伸びたいかにも子どもっぽい細い脚に、小さな膝小僧。
 太腿の上で握り締められている拳は頼りないくらいに小さく、そしてすべてが 涙で歪んでいた。
「君はどういう人生を歩みたい?……お母さんに、今、ほんとうのこと を言って、『大男』にお別れをするかい?……それともこのまま、『大男』と暮らしてい きたいかい?」
「……先生」あたしは言った。「先生はあたしに、まるで……大人に話しかけるみたいに話すんですね」
「言葉づかいが難しい、ということはなかったろう?……君は読書家ら しいからね。私がさっきここでお母さんと話している間、君は待合室で大人向けの小説を 読んでいただろ?……その君が肩から下げてる赤いポーチに入ってるやつだ」
「…………」わたしはポーチを探った。

 出てきた本はトマス・ハリスの『羊たち の沈黙』。近くの区立図書館のラベルがついていた。

 わたしが高校生のとき、あの公園で、大男に逆さ吊りにされてあそこを……思いっきりクンニされていたときに思 い出した本だ。
 いや、思い出したんじゃな い。あたしはその部分を、ついささっき、待合室で読んだのに違いない。
「……ねえ、先生、どうするの?あたしにまた、催眠術をかけるの?……それで、お母さんにほんとうのことを言うか、『大男』と一緒に暮らしていくか、それ を選ばせてくれるの?」
「いや……君はこの部屋を出て行くだけだ。私は何もしない。お母さんに何を言か決めるのは……君だよ」
「ねえ……先生。ほんとうのことを知りたい?」あたしは言った。「ほ んとうはどうだったか、先生のおかげで思い出したよ。あの晩、へんなたばこを吸わされたこと は本当だけど……そのあと、あたしがどうしたか知りたい?」
「……いや。別に」志村けんに似た医師は言った。「それは、君のこれからの人生にとって、重要なことかな?……これも覚えておくといい。ほんとうのことが 正しいことだとは、限らないよ」
「……あたし、エッチなのかな」あたしはいたずらっぽい笑みを作っ て、12歳に戻った棒っきれみたいな自分の脚をクロスさせる。「……ねえ先生、あたし、エッチな子だと思 う?」
「……みんなそうだよ」医師は特に興味なさそうに言った。「さあ、診察は終わり」

 なーんだ。
 つまんないの。


2013.9.11


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