お母さんなんて呼ばなくていいのよ 作:西田三郎 ■家族の食卓
英治は今年で14歳。ほんとうの母が死んだのは11歳のときだった。
父はそうとう落ち込み、そのまま鬱状態となり、仕事も休みがちとなった。会社も父の不幸な境遇を鹹味し、しばらくは父が落ち込むままにしておいてくれた。しかし、そのままの状態で1年が経過。父は仕事を失った。
その時になって父ははじめて、自分の問題性に気づいたのか、様々な病院をめぐり、状態の改善を図った。まずはじめに訪れたのは心療内科。それでも効果があがらないので、精神科で治療を受けた。数々の薬を飲み、医者がすすめるあらゆる生活改善を図ったが、一向に父の状態は良くならない。それまで父には結構な稼ぎがあったので、家庭が貧することはなかったが、当時12歳だった英治にも、事態は決して明るくないことは何となく理解できた。
父はそのまま行けば妙な宗教にでもすがりそうな勢いだった。そのころの父は、さらに悪いことに大酒を飲んでいた。
学校から帰り、散らかりきった部屋のなかで酒臭い息を吐きながら、ぼんやり座っている父を後目に、さらに散らかった自分の部屋に飛び込むのが、そのころの英治の日課だった。そんな父が、一重の勤める鍼灸院に通い始めたのは、英治が中学に上がった年…1年とすこし前だった。鍼灸をすすめたのは英治の伯父。2年患っていた腰痛が一発で治ったのだが、話によると精神疾患にも効果があるらしいので、是非行ってみてはどうか、との話だった。
伯父がほんとうに効果があると思っていたのか、そうではないのかは定かではないが、とりあえず散らかった部屋で酒におぼれていたり、いかがわしい宗教などに入れ込んで無駄金を払う羽目になるよりはマシだという配慮だったのだろう。父ははじめから半信半疑だったが、とりあえず伯父の薦める鍼灸院に通い始めた。
そこで父の担当となったのが一重である。
そのとき父は50歳ちょうど。
一重は25歳。若い女性の鍼灸師は珍しいが、一重はその時点ですでに3年のキャリアを持っていた。通い始めるうちに、父の体調と精神状態はみるみるうちに改善していった。顔つきが明るくなり、一時は50キロ以下に落ちた体重もみるみる増えていった。酒も飲まなくなった。
家では鍼灸院での治療の話が多くなった。
「人間の体というものは右と左に別れているらしくてな、半身だけが風邪をひいたり、半身だけが元気だったりするらしいよ。今日は頭のてっぺんに針を刺されたけど、えーっと先生、なんて言ってたかなあ…ツボの名前…」
まあとりあえず元気になっていく父を見ていて、英治はうれしかった。
治療を担当しているのが若い女であり、父がその女と個人的な交際をはじめていることを知ったのはそれからずっと後のことだった。
父はふたたび仕事を始めた。
まえの会社よりも給料はずっと安かったが、父は活き活きと働いていた。
父は以前よりも服装に構うようになり、たまの日曜日にはどこかに出かけていった。父に新しい女性ができたことは何となく判ったが、実際に聞かされるまで相手が誰であるかは判らなかった。
「実は父さん、再婚しようと思うんだ」ある日、父が真剣な顔つきで言った。
「え…いいけど…相手は誰?」
「…先生だよ。鍼灸院の先生」
数日後の休み、英治ははじめて父に一重を紹介された。近くのレストランで3人で食事をした。
「初めまして…英治くん、だよね。お父さんから話は聞いてます」
はじめて一重に会ったときのことは、まるで昨日のことのように覚えている。
躰にフィットした白いブラウスに、黒いスリムなパンツ。薄く栗色がかった髪はまっすぐで、全体的には女子大生か、OL風だった。一重はあの色の薄い目で、まっすぐに英治を見ると、目を細めて、きれいな歯を見せて英治に笑い掛けた。思わず英治は目を背けた。父に新しい女が出来たからって、それに腹を立てるほど子供じゃないつもりだった。
しかし、何かが違った。満足そうな父を見て、手放しで祝福したい気分だったが、心の中になにか棘のようなものが引っかかって仕方がなかった。
「…失礼ですが、おいくつですか」英治は言った。自分でもびっくりするほど、無愛想な声だった。「ずいぶんお若いようですけど」
「こら、英治、本当に失礼だぞ。いきなり若い女性に歳をきくもんじゃない」父が笑いながら言った。ほんとうに嬉しそうだった。
「いいんです…いいの」一重が笑いながら答えた。「25よ。英治くんのお姉さんとしては、ちょっと歳を取りすぎてるかなあ」
お姉さん?父と何をしているのか知らないが、この女は何を言い出すのだ。
「…そんなことありませんけど…」
「とにかく、よろしくね、英治くん。」一重が手を伸ばして、英治の手に触れた。思わず身をすくめた。しかし躰が動かなかった。「わたしも昔から、弟が欲しかったんだ」
英治は黙っていた。触れられた手から、一重の体温が伝わってきた。脈の動きまで伝わるようだった…と、思ったら、脈打っているのは自分の躰だった。
一重と父は正式に結婚し、一重が家にやってきた。一重は鍼灸院を辞め、専業主婦になった。
それ以来、家の中は無言の統制と規則正しさと、清潔さが支配した。全ての家事を一重はこなし、消して英治や父に文句を言ったり、家事を手伝ってほしいと言うようなことはなかった。父が気を使って一重の家事を手伝おうとすると、一重は決まって柔らかくそれを断った。
「あたしのやり方でやらないと気がすまないの…」
そんな訳で、家の中はいつも非現実的なまでに片づき、清潔だった。
一重は優しく、英治とも一定の距離を保ち続けていた。決して過度に近づこうとせず、かといって突き放しもしなかった。まるで英治がひとりでに心を開いてくれるのを待っているようだった。文句のつけどころのない父の妻だった。
そんな生活の中で英治は次第に根拠のない苛立ちをつのらせていった。
自分でも、何が不満なのかはさっぱりわからない。
それでも何か、一重の存在が癪に触って仕方がなかった。
その日の夕食は父の大好物である、鰤大根だった。英治も好きな献立だった。
当然一重の手によるものであり、ちょうどいい飴色に煮上がった大根は、さも食欲をそそる風情で湯気を上げている。父は上機嫌だった。しかし英治は箸をつけなかった。
「あの…英治くん、鰤大根、嫌いだった?」
「別に…」英治は気のない素振りで言った。ベッドの下のエロ本のことで、自分は腹を立てているんだろうか。だとしたら、あまりにも子供っぽく、情けない話だ。
「鰤、好きだろうが、お前」父が御飯をほおばりながら口を挟んだ。「どうしたんだ」
「ちょっと…なんか、具合悪くて」英治は父と目を合わせずに言った。「食欲無いんだ」
「え…大丈夫?」一重が身を乗り出して心配そうな顔で身を乗り出した。豊かな胸が、グレーのぴったりしたTシャツをさらに持ち上げる。
英治はひとりでに胸に集中しそうになる視線を意識して逸らせると、食卓の席を立った。
「もう…寝るよ」
「英治くん、ほんとに、大丈夫?」
「うん…残して、悪いけど…」
「おい、本当に大丈夫か?」
父にも、一重にも目を合わさずに食卓を後にした。そのまま一直線に階段を駆け上がり、部屋に飛び込んだ。倒れるようにベッドに沈む。布団はたっぷりと日光を吸って、雲の上にいるようにふかふかだった。英治は目を閉じた。一体自分は何にそんなに腹を立てて居るんだろう?考えても答えはなかった。どっと疲れが出た。
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