ノルウェイの鮭
作:西田三郎「第7話」 ■みどりと緑
みどりが入院している病院は、京都の山奥のド田舎にある。
最寄の駅から、信じられないくらい長い距離をバスに乗らなければならない。
移動時間が長いということは、つまりひとりで考える時間が増えるということだ。僕はできるだけみどりのことを考えたくはなかった。だからMDウォークマンを持っていった。おざなりに選曲された、“爽やかな曲”のオムニバスアルバムだった。真剣に聞かなくてはならない類のものではないので、こういう状況にちょうど合っている。無論、真剣に聞かねばならない音楽なんて、この世には存在しないのだが。くそう、ミドリがあんなことを言わなければ、みどりの事などすっかり忘れていたのに。
本気で忘れていられる間は、そのことを意識せずに生きていくことができる。しかし思い出してしまうと、それを無視できるくらい、僕は厚かましくも、酷薄でもない。つくづく自分の弱さを呪った。
バスはどんどん曲がりくねった山道を行き、文明から遠ざかっていく。
しばらくすると、広大な病院の入り口に着いた。
バスを降りる……とんでもないところまで来てしまったものだ。あたり一面が、木で覆われ、微かに鳥の声が聞こえる以外は、何も聞こえない。確かに静養にはもってこいの場所だった。熊や猪が出そうだが。
病院というよりは高級なゴルフ場のような施設だった。
木と緑に溢れ、人工芝には大量の農薬が振りかけられている。
異様にに背の低い門番に面会の手続きを済ませると、今度は門番の5倍は体重のありそうな職員が、僕をゴルフカートに乗せてくれた。
ゴルフコースそのものの景色の中を、電動カートが行く。運転する職員は、一言も口を効かない。口が効けないのかも知れず、それはそれで気の毒だが、今、僕は世間話などできる状態ではなかったので、好都合だった。
道中のいたる処に、デリケート過ぎたが、デリケートで無さ過ぎたかどちらかの理由で、この施設で生活している人々の姿があった。ふつうに見える人も、とてもそうは見えない人もいた。ほとんどの者はパジャマか、それにカーディガンなどを羽織った姿で、皆、投与される薬のせいか、どこか夢見心地であるように見える。中にはやっぱり変なのも居る。ガスマスクをつけてパンツ一枚の者も居た。タキシードにゴム長を履いている奴も居る。どう見ても60は越しているが、セーラー服にお下げ髪で花を摘んでいる女も居る。まあ、みんなそれぞれに幸せそうだ。……ここはまるで野生の王国である。その中を進む電動カートは、さながらサファリカーだった。みどりの収容されているコテージに近づいていくたび、僕の胸はドキドキしてきた。コテージに到着する。
丸太作りの、キャンプ場にありそうなコテージだ。どことなく“びっくりドンキー”の外装のように安っぽい。職員は僕をカートから降ろすと、手荷物を僕に手渡して、そのままカートで帰っていった。終始無言だった。
さて、突っ立っていても仕方がない。
めんどうくさいことはさっさと済ましてしまうに限る。
ぼくはコテージの前階段を登って、呼び鈴を鳴らした。しばらくして、ドアが開いた。ドアを開けた人が、あまりに意外だったため、僕は思わず言葉を失った。
ボブ・カットの、神経質そうな顔をした、12歳くらいの少女だった。
僕に対して包み隠すことのない警戒心を剥き出しにしている。ほっそりとした140センチくらいの躰。白いブラウスに、灰色の膝までのフレア・スカート。紺のソックスに、白いスリッパを履いている。全身の服を“無印良品”で揃えたかのようだった。
「……どなたですか」無愛想な顔で、少女が聞く。
「あ……あの、みどりさんの友人です。みどりさんは居ますか」
「……みどりさんって、大きい方のみどりさんですよね」
“大きい方”?……どういう意味だ?一瞬戸惑ったが、そういえばここは気の狂った人が過ごしている施設なのだ。軽く受け流しておくほうが無難だろう。
「そ、そうです。大きい方のみどりさんです」
「ちょっと待っててください」
少女はバタンとドアを閉めた。中で少女がみどりを呼ぶ声がする。
僕は棒立ちになって次の動きを待っていた。
今度はみどりがドアを開けた。
「タナベくん……来てくれたん?」
白いノースリーブのTシャツにブーツカットのジーンズ。顔色も良いし、目つきもキチガイっぽくない。みどりはまったく健康そうだった。
「元気そうやね」
「……元気やで。気は狂ってるけど……」
コテージの中に入った。2つの寝室に、一つのキッチンとユニットバス。いい部屋だ。出来たら越してきたいものだ。先ほどの少女はキッチンテーブルの上に座り、僕を睨みつけている。
いったい何の恨みがあるってんだ。
「……ええと、あの娘は誰?」僕は少女を指差して言った。
「緑です」少女が冷たい声で答えた。
「え、君もみどり?」
「そうよ、あたしたち、同じ名前なんやで」みどりが嬉しそうに言う「彼女、半年前にここに来てん。あの、いわゆるその、心の病気で。あたしたち、とても仲良しやねんで」
「……あの、前の同室者やった、あのおばはんは?」僕は緑を見る。まだ僕を睨んでいる「ほら、ギター弾いて、わけわからん事ばっかりしたり顔で話す、あのおばはんは?」
「ああ……」みどり(大きい方だ)は少し目を伏せる「彼女は死んでん。ここを退院してすぐ、パイプ洗浄液の瓶をひと瓶一気飲みして……彼女、ギターをここに置いてったんやで。多分、退院と同時に死ぬつもりやったんやないかな。今、そのギターは、緑ちゃんが弾いてんねんで」
「……え?あの小さい緑ちゃんがギターを?」
「弾きます」緑(小さい方だ)が未だ僕を睨んで言う「ていうか、弾けます」
「へえ……」僕は緑をまじまじと見た。彼女は目を逸らせた「緑ちゃん、おいくつ?」
「11歳です」
「へえ……11歳か」
悲しい話じゃないか。たったの11歳で、こんなところに入らなければならないなんて。まだ、外の世界には彼女にとって知らなければならない事が腐るほどあるだろうに。ここはまるで天国である。外で何が起こっていようと、ここには関係ない。そんな退屈な天国などに、彼女のような年頃の少女が居るべきではない。しかし……彼女の両親と医者は、彼女がここに居るべきだと判断したのだろう。
素人の僕がどうこう言う筋合いのことではない。
「よろしく、タナベです」僕は小さい緑に言った。
「よろしくお願いします」表情を緩めず、緑が答える「……みどりさんから、いろいろお話は伺ってます」
「……はあ」いったいどんな話を伺ってるのか。
「タナベくん、泊まっていけるやろ、今日?」みどりが小躍りして言う。
「……あ、いいのかな」
「大丈夫。施設の人にも許可とったあるし……」みどりは僕の手を取った。そしてそのまま自分の胸に僕の掌を押し付けた「……そやから、今夜は、思いっきりあたしを苛めてね」
「え…?」僕はたじろいだ。みどりはノーブラだった。
「……そやから、あたしを、思いっきり貶めて、辱めてね……あたし、いつも………いっつも…………それこそ毎晩、タナベくんの事考えてひとりでエッチしててん。ほんまやで。ほかの人のことなんか、考えたことないわ。もちろん、ムラカミくんのことも。いっつもいっつも、タナベくんのこと思て……指で……」
「こ、子供の前やないか」僕は慌ててみどりを遮った。やっぱりこの女はいかれている。
「子供じゃありません」小さい緑が無表情に言う「聞いてませんから、気にせずどうぞ」
「……そやからな、指で、クリトリスをぎゅっとつねるねん。…………ほんなら、想像の中でタナベくんが言うねん。“ほんまに好き者やな、こんなにぐちょぐちょにしよって、この淫売が”って……それから指をぐいっと中に入れてきて……」
「わかった……わかった……もうええから、そのへんにしとこ」
「わたしは、別にいいですよ」小さい緑がテーブルの上に広げた新聞を読みながら言う「どうぞそのまま」
しかし……それにしてもみどりと、ミドリと、緑か。
僕の人生をどんな色が彩っているか……何色かわからないあなたは、医者に行ったほうがいい。
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