ノルウェイの鮭
作:西田三郎

「第4話」

積もる話

とにかく、みどりを自分の部屋に引っ張っていった。
その道中、みどりはさっきのように……ブツブツ……ブツブツ……独り言を言ったり突然笑い出したり、「たなべくうううううん」といいながら抱きついて泣き出したり、いろいろと大変だった。道行く人は皆、“気の毒に……”という顔で僕らを見ていた。その顔は同時に、“大変だねえ……何もできないけど、気持ちはわかるよ。頑張ってね”とも言っていた。
 まったく、余計なお世話だ。こっちはそれどころじゃないのだ。

 アパートまで付いて、みどりを部屋に押し込む。
 みどりは狭い部屋の中をくるくるバレリーナみたいに回りながら進み、万年布団に倒れ込んだ。

 「タナベくん、遠慮しやんとこっちおいでえな」みどりが半身を起こして言う。
 待てよ、ここは僕の部屋だぞ、と言いたいところだったが、僕はくたくたに疲れていたので、曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
 半身を起こしてこっちを見ているみどりの顔を見た。
 長い髪はくしゃくしゃになって、ベッドで転げまわった後のようだ。
 奥のバルコニーから入ってくる昼の光のせいで、逆光になった光の中、みどりのシルエットのわまりに、部屋のほこりが粉雪のように舞っているのが見える。
 みどりはきょとんとした目で僕を見ていた。うすい唇をすぼめている。
 さっき久しぶりに会ったときは、幽霊かアブナイ女にしか見えなかった。ここまで引きずってくる間中は、その評価のうえに、厄介なお荷物という印象が追加されていた。
 しかし今は違った。そんなに一瞬で、人間の印象はこうも変わるものか、というくらいに。
 
 みどりは逆光の影の中で、あの高校生の頃の儚げな印象を取り戻していた。いや、ますますそれに拍車を掛けたたように……今のみどりは一瞬でも目を離すと透き通っていって、そのまま消えてしまいそうだった。
 どういうわけか、疲れきっていた僕の下半身がムクムクと反応をしはじめた

 「タナベくん、元気やったあ?」相変わらず酒に酔ったような口調でみどりがいう「あたしな、あれからずっと学校行かへんかったやんかあ?でも、大検受けて、こっちの大学に入学してん。でも、なんか、大学生活はじまってから、またあかんようになってなあ……」そういってみどりは笑った。時折ムラカミに見せた、あの一瞬の笑顔だった。「なんか、友達もだれもできへんし、話かけてくる男の子は、みんなアホばっかりやし……ぜんぜん周りに溶け込めへんで、一日中部屋にこもってぼーーーーっとしてるようになってん」
 またみどりが笑う。かつてムラカミだけに見せた笑顔。それが今、僕だけに向けられている。
 「……なんでかな、なんでかなって……考えてたんけど…………何日も、何週間も、ずっと考えてて、やっと判ってん。ここには、ムラカミ君も…………それからタナベくんもおらへん。そやから、あたしは何にも楽しいことがないんやって判ってん。……ムラカミくんなんか、もうこの世にもおれへんねんからなあ…………だから、せめて、タナベくんには会いたいなあ、思って、一人で街をウロウロウロウロウロウロしてたんやで……ほんまやで」
 ウソつけこのキチガイが、と思ったが、別に言われて悪い気はしなかった。
 「……なあ、タナベくん、お願いやし、ちょっとこっち来て
 キッチンで棒立ちになっていた僕を、みどりが手招きした。僕は吸い付けられるように踏み出して、みどりの前に座り込んだ。
 「……顔、見せて」みどりが手を伸ばして、僕の顔に触れた「ほんまに……ほんまにタナベくんやんなあ?……あたし、夢見てるんとちゃうやんなあ?
 「僕やよ」僕は言った「……夢と違うよ」
 みどりが僕の首に手をまわして、抱きついてきた。幽霊にしては、暖かな体温が僕に伝わってくる。幽霊にしては、確かな存在感を持った乳房が、僕らの体の間で押しつぶされる。
 「……さみしかった……」みどりが小声で囁いた「……ほんまに、ほんまに……寂しかったんやで……」
 「………」何も言えなかった。何かこういう場所で言える言葉があるなら、読んでるあんた、教えてくれ「…………そうかい」
 「……ねえ」みどりが顔を上げる。幽霊みたいに青白かった顔が、ほんのり赤く染まっていた「……して
 「え?」
 「……して。……ていうか、やって
 
 人生にはいろんなことがある。それには誰も逆らえない。
 
<つづく>

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