ノルウェイの鮭
作:西田三郎「第3話」 ■再会
みどりとは高校時代からのつきあいだった。
あ、ややこしいかも知れないが、みどりとミドリは別人である。ふつう、よほどのことがない限り、一つの物語に同じ名前の人間が二人以上出てくることはないが、これは事実なのだから仕方がない。だから、混乱するかも知れないが付き合ってほしい。
僕もたまに、記憶の中でふたりが混乱することがある。
みどりは僕の親友であるムラカミの恋人だった。そう、よくある「突然炎のごとく」ふうの、フランス映画にありがちな構図だ。わけのわからない女ひとりと、ヘナチョコな男ふたり。その片一方が僕だった訳だ。
みどりは十代の頃から、まるで幽霊のように綺麗だった。
幽霊といっても、最近の井戸から這い出てきたり、押し入れから四つん這いで這ってくるようなやつではない。それ以前の幽霊だ。みどりはほっそりとしていて、髪を腰まで長く伸ばしており、頭のてっぺんでその艶やかな髪を二つに分けていた。その目はいつもどこか遠くを見ているようで、見ているこっちはみどりの躰を通して向こうの景色が見えそうに思えた。
みどりのことを幽霊みたいだと言ったけど、それはつまり、彼女自身が全身から醸し出している儚さのせいだった。彼女は目の前にいながら、躰の半分は天国に居るようだった。
みどりはあまり笑わなかった。
僕と、ムラカミにだけ笑顔を見せた。少なくとも僕の知る限りでは。
ムラカミとみどりは公認の仲だった。
僕はふたりはもうとっくにヤりまくってると……いや、“寝”まくっているものだとばかり思っていた。しかし幽霊みたいに儚げなみどりと、油染みた百官デブのムラカミがヤッて…いや“寝て”いるところはなかなか想像できなかった。
ムラカミは百官デブで油じみた、見るからに不快な男だったが、とても頭が良く、会話は実に洗練されていてスマートだった。そして彼は、大変な読書家でもあった。僕が未だに人より多く本を読むのは、多分彼の影響だと思う。みどりも読書家だった……僕はふたりの会話についていくために、読書にのめり込んでいったのかも知れない。
しかし、ある日ムラカミは死んだ。オートバイの事故だった。
陳腐な話だろう?でも本当なんだから仕方がない。
それ以来、みどりはあまり学校に来なくなった。
しばらくみどりを恋しく思う時期が続いた。言うなれば僕にとって最初の恋の季節だった。
ムラカミを失ったみどりの心の深手を思った。胸が苦しくなった。
しかし当時僕は17歳だった。そんなことは2週間もするとすっかり忘れていた。そしてそのまま高校を卒業し、大学へ進学した。僕は親元を離れて、大学の近くのワンルームに下宿をはじめた。
僕の郷里はものすごい田舎だった。ムラカミもバイクで死んだが、そんな田舎ではバイクでもかっ飛ばしていないと、本当のきちがいになってしまう。だから、その田舎よりは少しはマシな都会へ越せたことは僕にとってとてもよいことだった。
自分でいうのもなんだけど、この陰気で協調性がなく、愛想の悪い僕には、さっぱり友達はできなかった。ガールフレンドなんてとんでもない。僕はどちらかといえば見栄えのいいほうだと自分でも思っていたが、どうもそれだけでは都会の女の子は振り向いてくれないらしい。
周りの男どもはそれぞれ彼女を作ったり、合コンしたりで楽しそうだ。
そんな中で僕は、いっそ戦争か大災害でも起きないものかと、ひとり悶々していた。
その日曜日、とくにやることもない僕は、洗濯をして、部屋を掃除して、マスターベーションを続けざまに2回した。それでもまだ正午にもならない。やれやれ。僕はアパートを出て、あてもなくぶらぶらと歩き始めた。
その日はとてもいい天気だった。
こんな日はどこか空気のいいところ…山か海か湖か、なんでもいい、そんなとこに繰り出したくなる。と、心にもないことを考えていた。そこまで行くお金もないし、どうせそんなところはどこも人でごった返しているのだろう。それに、本当に空気に味があるなら、この街の空気も、山や海や湖や、そんなところの空気もそれほど味に変わりはあるまい。それが体にいいか、悪いかだけの話だ。僕は体に悪いものが大好きだった。しかし、ある電化製品の店になんとなく入ったとき、僕は自分にとって、最も体に悪いものを見た。
ほんとに、“なんとなく”出歩いてみるものではない。若い女が、電気ヒゲソリ機のコーナーにいた。
店の中は明るく、陽気な調子のポップ・ミュージックが流れていたが、その女のまわりだけはそんな雰囲気とは無縁だった。女が立っている場所を中心に、半径1メートル以内が、暗くくすんでいた。おおげさに言うんじゃない。その証拠に、女のいる電気カミソリのコーナーには、誰も近づかない。いつもはうるさくセールストークをまくしたてるハッピ姿の店員たちでさえ…彼女には近づこうとしていないようだった。
まさに女は幽霊そのものだった。
折れそうな細い体つきに、腰までの異様に長い髪。髪の隙間から覗く頬は、冷凍されていた死体みたいに青白かった。彼女はなにかブツブツ……ブツブツ……と聞き取れない小さな声で独り言をいいながら、髭などあるはずもない頬や顎にスイッチを入れていない電気カミソリを押し当てていた。しばらくひとつの電気カミソリで見えない髭を剃り終えると、次は別の電気カミソリを手に取る。
彼女は異様さのバリアで、周囲の干渉からわが身を守っているようだった。と、突然、女が僕のほうを向いた。
僕は思わず大便をもらしそうになった。
みどりだった。
高校に来なくなってから、ずっとその所在がわからなかったみどり。
彼女は痩せて、やつれ、高校のときよりますます幽霊めいていた。「……あ……」
僕が絶句していると、みどりがニィーっ……と笑った。ホラー映画も顔負けだった。
死の貴婦人、美少女の慣れの果て、生ける屍の夜。僕はまるで蛇に睨まれた蛙だった。「たなべ……くぅん?」みどりが言った。
“違います。人違いじゃないですか”ととぼけられるほど、僕は要領よくも冷たくもなれなかった。
NEXT/BACK TOP